四章「火炎・下」

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 だぁん!
 どかぁん!
 絶影が闇の中で暴れている。炎に追われ、なんとか逃げようと必死にもがいているのだ。
 絶影が後ろ足を跳ねあげたと同時に腹に衝撃がきて、小夜はうずくまった。苦くすっぱいものが腹の奥からせりあがり、体が冷たくなってゆく。蹴られたのだ、と思う間もなく第二撃がせまり、小夜はとっさに転がって、馬房を脱した。と同時に、梁の一区間が燃えあがったワラと共に小夜の目の前へ落ちてくる。炎の壁が絶影を押しつつんだ。
 ひぃいん! きゅるるぅるる!
 絶影! 小夜は叫ぼうとするのだが、かすれたうめき声が漏れるだけだ。いつも黒目がちな絶影の目に、夜目にもあざかやな白目が踊っている。血走り、助けを求める瞳。炎に包まれ、つやを失いちりちりになってゆく真っ黒な毛……。
「茜が、巫女になった」
 暴れ狂う絶影のむこう、踊る炎のなかに、老婆の顔がうかびあがった。
「おまえがさっさと決断しないから、茜が、泣く泣く巫女になった。あのかわいい茜が。あぁ……」
 老婆がふぅうとため息をつく。その息が火炎となって、悲鳴をあげる馬たちを襲った。
「五重塔を燃やすには、警備が多すぎた。じゃが、神馬はどうかの。これで茜は戻ってこられる。嫁へ行って、平和に暮らすのじゃ」
「絶影ぃいっ! いやぁーっ!」
 叫んだところで、老婆はせせら笑うだけだ。馬たちがさらなる悲鳴をあげ、それがだんだんと、かぼそくなって……。
「うるせぇ小娘! 起きやがれ!」
 怒声に小夜は飛び起きた。汗びっしょりで体を起こすと、鳶と小太郎が玄関でじっと小夜を見つめているのがわかった。二人とも顔がススで真っ黒だ。
「ったく、そんな絶影絶影叫ばんでも、絶影はちゃんと馬場におるわい。ったく、十四にもなって、怖い夢見て泣いてるのはてめぇくらいだぜ」
 どっかりと鳶が小夜の前に座る。小夜は思わず座ったままあとずさった。
「さてと、聞かせてもらおう。もっとも、聞くまでもないがな。おおかたお前が持ちこんだ明かりが引火したんだ。そうだろ、ええ?」
 小夜はぶんぶん首を振った。実際、無我夢中で飛び出してきたものだから、明かりなど持ってくる余裕がなかったのだ。だが、放火のことを話すのもまずい。鳶に知れたら、いや、お上に知れたらあのおばあさんは間違いなく打ち首になる。
「とっとと白状しやがれ! さもないと……」
 嘘でも自白すれば小夜も打ち首だ。いや、その前に殴られて死んでしまうかも。思わず青ざめた小夜の前に小太郎が割りこもうとした、そのとき。
「鳶ッ! あんたねぇ、そんなことしちゃ脅しじゃないのよ。本当でも嘘でも首を縦に振りさえすればいいのかい。そんなことはあたしが許さないよ!」
 戸口で仁王立ちになる葵の姿は拍手したいくらい頼もしかった。武丸でさえ殴りあいがせいぜいだ。鳶を頭からおさえられるのは、妻の葵ただひとり。鳶は急に小さくなって、すごすご引きさがってしまった。
「さ、お昼にしましょ。話は食べながらね」
 一瞬の剣幕はどこへやら、小夜と小太郎に目を向けて葵はにっこりほほえんだ。
 いろりを囲みながら、小夜はおばあさんのことは伏せて見たことを一通り話した。あれからまた厩に忍びこんだこと、屋根裏で寝ていたらワラ置き場からものすごい勢いで火が走ってきたこと、必死に馬たちを逃がしたこと……。
「とすると、何かい。放火ってことか。俺は小娘が火口を蹴倒したって方が妥当な線だと思うんだがなぁ」
「だから小夜も言ってるでしょう。だれが乾ききったワラの中に裸火を持ちこむのよ」
 じぃっと鳶が何か言いたげな目で小夜を見つめている。謝ろうか迷っているのか、それともまだ疑われているのか。
「鳶さん、馬たちは? 怪我ないの?」
 小夜の側から質問すると、鳶はおうようにうなずいた。
「馬に何かあったら、俺が昼飯に帰ってこれるはずがねぇだろうが。心配すんな」
「壁を蹴りすぎて足が腫れてるくらい。あの火事でよくあれだけで済んだよ。小夜さまさまだね」
 鳶と小太郎、ふたりのほっとした顔を見て、やっと小夜の緊張もほぐれた。
「犬にぃは帰ってきた?」
「うん、五重塔への道で血相変えた長にばったり。今、父さんの代わりに指揮をとってるはずだよ」
「あの野郎、火が消えてから来やがって。なんのための長だ。やっぱり俺が長になるべきだったんだ」
 ひとまず武丸は無事だったのだ。小夜はほっと胸をなでおろして雑炊をいただいた。雑炊の塩味が身にしみいるほどおいしい。思えば試験が終わってからまともに物を食べていなかったのだ。
「さ、お昼を食べたら小梅のところへ行きましょうね。ちゃんと作戦は立ててあるから。小夜もおかわり、どう?」
 葵がにっこり笑い、鳶と小太郎の木椀におかわりをよそった。



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