五章「なにもしらない・上」

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「小梅の君さま、お着替えお手伝いいたします」
 膝行して小梅のそばまで行くと、葵はてきぱきと小梅の上衣を脱がせ、きれいな織りの入った美しい上着をはおらせた。これからこの家の主、狐が帰ってくるので、おそばにつくため衣を替えるのだそうだ。
「葵さんにこんなことをしてもらうなんて」
「どうぞ呼び捨てになさってください。また浅葱の方様にお叱りをちょうだいしてしまいますよ」
 小梅が大げさに身をすくめてみせる。何度もそうして叱られているのだろう。
 ふと、何かを思い出したようにその美しい顔がゆがんだ。
「葵さん、厩で火事があったと聞いたんだけど、本当なの? 馬は、奔翔は?」
「ええ。馬たちはみんな無事です。それより」
 葵が声を低める。
「そのことを一番よく知っている者が来ておりますよ。お通ししてよろしいでしょうか?」
 小梅がきょとんと葵を見つめた。葵の笑顔を受け、小夜は隠れていた垣根をくぐりぬけ、美しく整えられたお庭におずおず足を踏み出した。小梅が目をいっぱいに見開く。
「小夜ちゃん!」
「しっ、お静かに。聞こえてしまいます」
 小梅があわてて口を押さえる。あがっていいのか迷いつつ小夜はひとまずお庭を横切り、小梅の前へ進み出た。小梅の着物や髪にたきこまれたのだろう、香のかおりがただよっている。着飾った姿は本当に綺麗だった。幼馴染の小夜でさえびっくりして思わず言葉がでなくなるくらい。
「会えてよかった! 説明もお別れもできないままだったんですもの。さすが葵さんね。ありがとう!」
 小梅のはしゃぎぶりに小夜も思わず笑顔になった。
「あこがれの狐さまの屋敷なんて。小梅さん、やるじゃない!」
 小梅は真っ赤になって首をぶんぶん振った。
 だが、小梅の元気もそこまでだった。小夜の着物にしみついた煙のにおいを感じたのだろう。急に心配そうな顔で身を乗り出した。
「小夜ちゃん。厩は? 厩はどうなの?」
「馬たちはみんな無事だけれど、厩は……」
 小夜はゆっくりと首を振る。自然、小夜の口調も尻すぼみになってしまう。
「馬は無事なのね? 怪我はないの?」
「お尻の毛がこげたり、壁を蹴って足がちょっとはれているけれど、一日もすれば治ってしまうくらいよ。馬は丈夫だから、心配ないって鳶さんが」
 小梅が目頭を押さえ、よかった、とつぶやいた。紅のぬられたつややかな唇は、もう見知った小梅のものではないようで、小夜は思わずどきっとしてしまう。
「心配ないのね、よかった、よかったわ。私、あの試験から、一度も馬に会っていないから。心配で、寂しくって。そんなときに知らせが飛びこんできたものだから、どうしていいかわからなかったの。本当によかったわ、小夜ちゃんが来てくれて」
 涙をぬぐい、小梅は十二ひとえの色が映える胸にそっと手をそえた。
「でも、あの試験、狐さまの付き人を決める試験だったのね。心配して損しちゃった。ここならまた、小夜ちゃんも忍んでこれるわね。葵さんだっているし」
 小夜は、えっ、と小梅の顔を見た。小梅はゆったりとお姫さまの笑みをたたえている。
「また馬の話をしに来てね。私、いろいろ勉強することがあって、このお屋敷から出られないの。ほら、私、下賎の身でしょう。立ち居ふるまいとか作法とか、いろんなものを教わっているの。着物だって重いし、汚すと叱られるし。厩の火事のことだって、誰に尋ねても『下賎のことは知らなくてよろしい』の一言だったのよ」
 小梅が肩をすくめた。
「狐田さまのお屋敷にいさせていただくなんて、本当に夢みたい。でも、やっぱり馬やみんなのことが気になるの。だから時々来ていろんなことを知らせてね。お兄さまはどう? ひどいこと、あれから言われていない?」
 とっさに言い訳を思いつけず、小夜は口をぱくぱくさせた。小梅がきょとんと首をかしげる。葵が助け舟を出そうと口を開くも、こちらもうまい言い訳を思いつけないようだ。
 と、突然、部屋のふすまが音をたてて開けられた。
「小梅ノ君。なんです、この者たちは」
「浅葱ノ方様」
 十二単をまとい、気品ある足取りで入ってきた浅葱ノ方は、キッと小夜と葵を見つめた。葵が姿勢を正してひざまずく。小夜も立っていた庭先の土の上にひざまずいた。
「小梅ノ君。こんな、いやしい者と何をしていたのです。犬のごとく追いはらいなさい。それが女房としてのあなたさまのつとめ、身分にふさわしい行動というものです」
 小梅がすまなそうに小夜と葵を見つめた。
「いやしき者にそんな目を向けてはなりません。きぜんと、『出りゃ』と申しなさい」
「……出りゃ」
 さっと葵が深く頭をさげ、退室した。小夜も身をひるがえして庭の先、ついさっきまで隠れていた垣根の後ろへ姿をくらます。
「なんです、その情けない声は」
「申し訳ございません、浅葱ノ方様」
 小梅が叱られる声を背中に、垣根をつたって小夜は走り出した。
(小梅さんは何も知らないんだ。何も)
 小夜は、またあふれてくる涙をぬぐいながら、生垣の横の細い道を突っ走る。
(あの試験が、狐さまの付き人を決めるものだなんて。山の神の巫女のこと、何も知らないんだ。私に巫女を押しつけたことも、何もかも)
 垣根の横の道は大通りへ続いている。走る足にまかせ、小夜は勢いよく大通りへおどりでた。
 と、急に目の前が黒いものでおおわれ、道をふさがれて、小夜は勢いをそのまま、道に転んでしまう。道を歩いていた人にぶつかってしまったのだ。
「申し訳ありません!」
 泣きながら立ちあがり、また道を走ろうとしたところ。
「おや、そなたは」
 聞き覚えのある声に、おそるおそる顔をあげる。狩衣を着て烏帽子をかぶり、かざりのように矢を腰にさした若武者。狐だ。小夜は悲鳴をあげ、さっとひざまずいた。
「桑の実村の小夜、こんなところで会おうとは。なぜ泣いておる?」
「ご無礼を、申し訳ございません」
「わたしは、なぜ泣いておるのかを尋ねた。そなた、わたしの屋敷から駆けてきたようだが、よもや小梅に会ったのではあるまいな?」
 狐の静かな口調に、小夜は肩を震わせる。
「仰せの通りにございます」
「何を話した?」
「厩のことを少々」
「山の神の巫女のことは、話しておらぬか?」
「話しておりません」
 ふぅっと、狐が息をついた。
「立ちなさい。そなたに、話がある。本来なら我が屋敷にまねき、茶でもふるまいたいところだが、小梅に聞かれてはまずい。歩きながらの話になるが、よいか」
 小夜は、おそるおそる顔をあげた。狐がじっと小夜の顔をのぞきこんでいる。おどおどと視線をさまよわせながら小夜は「はい」とうなずき、そろそろ立ちあがった。くるりと狐が身をひるがえし、来た方へ歩きはじめる。
「どこへ向かうのだ? 東の門か?」
「送ってくださるのですか?」
「わたしはそなたに、つぐなってもつぐないきれぬ罪がある。これくらいはしてよかろう」
 狐のあとを、小夜も緊張のあまり顔を真っ赤にしながら続いた。前を行く狐の表情は、小夜の位置から見えない。
「き、狐さま。お話というのは」
「そなたから話してみよ」
「は?」
「わたしに、聞きたいことがあるだろう。そなたから尋ねて、わたしが答えた方が、やりやすいのではないかと思うてな。おそらく、わたしが言いたいことと、そなたが聞きたいことは、同じであろうから」
「で、では、おそれながら」
 小夜はどぎまぎしながら狐の後姿を見つめた。
「小梅さんは、何も知らないのですか? その、山の神の巫女のことを」
「知らぬ」
 あっさりと答えが返ってきた。
「山の神の巫女という存在さえ、知らぬ。小梅につらい思いはさせたくないゆえ、山の神の巫女のことは、儀式がとどこおりなく終わるまで、あれに知らせたくないのだ。巫女をおろされた理由、わたしとの結婚も巫女からおろすための口実にすぎぬ。あれには女房という地位を与え、わたしの付き人としてこれからも仕えてもらうつもりだ。巫女の条件にも反するし、狸どのに知れたらただでは済まぬだろうが、幼馴染、武丸たっての願いだ。小梅は、武丸が父がわりをして育てた妹。誰を身がわりにしてでも、手放したくなかったのだろう」
 小夜はうなだれた。武丸ならしかねない。ただ、小夜のことも小梅と同じように、手放したくない大切な存在だと思ってくれていると、そう信じていた。唇を噛みしめたが、心配に反して涙はあふれてこない。
「武丸は、小梅が巫女を降りれば、そなたしか代わりはいないと思いこみ、ひどく悔やんでいるようだ。だが、代役には、断る権利がある。そなたは断った。当然の選択だ。わたしはほっとした反面、そなたに悪いことをしたと後悔しておる。なにか、礼をさせてはくれまいか」
 狐が振り返る。切れ長の目にやさしい色があった。思わず涙ぐみそうになり、こらえようと横を向いた瞬間。
 ちらりと、なにかが目に入った。えっ、と目をこらす。夕方の薄暗くなってきた中、さらに薄暗いお庭の木々の中に火口か何かの光がある。かすかだが、光は光だ。見まちがえるはずも、見つけてしまえば目を離すこともできない。
「まったく、狸さまも人柄がお悪い。選考が終わってから、巫女の条件を語られるのだから。もっとも、条件を知っていれば、武丸はそなたと小梅をどうにかして巫女から遠ざけようとしただろう。そうできないよう、八方手をつくしておられる。人が悪いというか、読みが深いというのか……」
 いつの間にか道は小夜の知っているものになっていた。このお庭の木々を突っ切っていけば、厩に出るはずだ。木々の向こうに五重塔が見えていた。
「狐さま、もうひとつ質問をよろしいでしょうか」
 嫌な予感を押し殺し、小夜はわざとらしく声をはりあげる。
「何だろうか」
「巫女の代役は、決まったのでしょうか?」
 狐が、ああ、それかとばかりにうなずいた。
「桑の実村の、茜ですか?」
「その通りだ。幼馴染か?」
 森の中の光、火口の持ち主が動きを止めた。やっぱり、と小夜は内心でとびあがる。
「茜は、自分から巫女を志願したのでしょうか?」
「いや、家族に説得されたようだ。なぜ、そのようなことを聞く?」
 もう一度、狐が振り返った。小夜の視線を追った狐が、不思議そうに目を細める。
「なにやつ? まさか」
 まずい、と小夜が思った一瞬の間に、狐は背負っていた弓の弦を張った。
「そこの者、止まれ! 厩の火事の件で言及したい。命に従わねば、矢を射るぞ!」
 弓を引き絞る狐。一気に遠ざかってゆく火口の光、いや火口を持った老婆。馬を殺すべく、もう一度放火に来たのだ。
「狐さま! おやめください!」
 小夜は狐の腕にしがみついた。
「無礼ぞ! 手を放せ!」
「嫌です!」
 狐がものすごい力で腕をふるった。が、小夜も決して離れない。
「私が巫女になります! だから、おばあさん、馬を殺さないで! 茜はちゃんと、家に戻るからっ!」
「なんだと?」
 ぎょっと小夜をふりむく狐。小夜は必死に頭と口とを動かした。
「狐さま、私が巫女になる条件です。あのおばあさんの罪は、問わないでください。それから、茜を巫女の役から解放してください」
 狐の力が、ふいにゆるんだ。小夜も力が抜けて、へなへなとくずおれてしまう。
 いつの間にか、またぼろぼろと涙が小夜の頬をつたっていた。くずおれた姿勢から、小夜は狐の前にひざまずき、頭を地面にこすりつける。
「巫女にならなくったって、私、もう二度と厩へは顔を出せません。巫女と一緒に絶影が生贄になるなら絶影とも会えないし、あんな犬にぃとももう会えないし、小梅さんは雲の上の人だし。それなら私、絶影と一緒に死んだ方がいい。だから、だから、お願いします。私を巫女にしてください!」
 涙ににじんだ視界の隅、お庭の木々の奥で、火口の火も動いていない。狐もあぜんとした様子で弓をだらんとさげたまま動かなかった。
「無礼を承知のうえ、お願いもうしあげます!」
「小夜」
 小夜は泣きくずれた。



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