六章「聖山登頂・下」

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     *

 小夜はもちろん、狐も狸も、眠れぬ朝をむかえた。そして武丸も、一晩姿をくらましていたが、眠れなかったに違いない。
 夜明け前、小夜は五重塔の最上階に一人であがった。未明の薄ぼんやりした光の中、あかりを持たずに階段をゆっくり、ゆっくりあがっていく。
 桑の実村、特に母に別れを告げて、踏ん切りをつけるつもりだった。無意識ににぎりしめていた衣にシワがついてしまったことに気づき、あわてて手の力をゆるめる。ゆっくりと深呼吸をして、桑の実村に面した窓の障子をあけた。
 桑の実村はあかあかと光につつまれていた。物見の塔に明かりが入り、あっちこっちで松明の火が動いている。
(こんな時間に何をしているんだろう。あんなに火をともして)
 心の中でつぶやいて、小夜ははっと胸を押さえた。小夜のために送り火をたいてくれているのだ。
(お母さん、みんな、ごめんなさい。こんなに悲しませて、ごめんなさい……)
「小夜姫さま、お時間でございます。コックリさまが塔の入り口でお待ちです」
 小夜は涙をぬぐってうなずき、立ちあがる。素直に女中の後に従った。
 小夜とコックリの三人は塔を出て聖山から流れてくる川に身をひたし、みそぎを行った。誰もが終始無言だ。体をかわかし、小夜は巫女の、コックリは神楽の衣装を身につける。
 豪奢な輿に乗せられ、向かった先は北の御門。四方にササ、そこに荒縄をわたして結界が張られ、その中に舞台が用意されていた。コックリの三人がその舞台の前に腰をかける老人へむかって歩いてゆき、うやうやしく頭をさげる。
「相馬大名の御前なるぞ。巫女も頭を下げよ」
 狐にたしなめられ、小夜も大名の前にひざまずいた。大名がうなずき、そっと家紋の入った黄金の扇をとりあげた。
――人間であれば、我と一代の契りを結ぶ形の名馬だども、人間のつくらいでなければ、その儀もなりまじきのことだと――
 大名、いや、きまん長者をむかえ、コックリはしらと名馬の物語を舞う。
――うちの名馬は、他だ病いではなく、ひとりしら様の恋のわずらい――
 神楽の間に馬たちが到着した。絶影の手綱をにぎる鳶は顔をくしゃくしゃにゆがめ、黙ったまま小夜を見つめている。
――そうなれば奥の林に、鉄の鎖で八方繋げて投げ棄てて来いとのことなれば――
 馬具の準備が進んでゆく。
――間もなく紫の雲に誘われて天竺に昇り致したならば、家来の者は、手を伸べても手も届かぬ、竿よし伸べても竿よしも届かぬ。ひとりしら様は帰って来ないとて――
 小夜は絶影青毛、狐が奔翔鹿毛。狸は騰霧栗毛で武丸は喩輝河原毛だ。うち、狸の騰霧には絹の巻物がどっさり入った袋、武丸の喩輝には水や塩の入った皮袋がつるされる。道中、馬に与えるものだ。そして晴れ招きの白馬、翻羽葦毛は留守番だった。
「鳶さん、さよなら。今まで、本当にありがとうございました。葵さんにも私がお礼を言っていたと伝えてください」
 神楽が終わり、巫女とコックリが騎乗する。絶影のハミをおさえ鼻面をなでながら、鳶がぎりりと音がするほど苛烈な視線を武丸に投げつけた。が、武丸は仮面のせいで気づいていないのか、振り返るどころか指一本動かさないまま、じっと山頂を見つめている。
「やい犬野! お前はこれでいいのか!」
 いきなり声をはりあげた鳶に周りの視線が集まった。
「嫌なやつだとは前々から思ってたが、これはさすがにがまんできん。一発殴らせろや!」
「鳶さん!」
 思わず小夜は鳶のそでをつかんだが、鳶はそれをふりはらうと、ずんずん武丸に迫ったいく。あまりの剣幕に喩輝があとずさった。武丸がそれを叱咤し、喩輝ごと鳶の方を向く。
「儀式の邪魔をするとは何事ぞ。とりおさえよ!」
 狸の命令に護衛の武者らが動き出す。が、それより早く鳶が馬上の武丸につかみかかった。武丸が殴り返す。喩輝がおびえて悲鳴をあげた。
 お互いに殴りあったのはそこまでだ。武者のひとりに後ろから木刀で殴られ、鳶が昏倒する。
「鳶さん、鳶さん!」
 思わず絶影の背をおりて駆け寄ろうとした小夜を狐が止めた。
「巫女の望みにより、その者を罰することは許さぬ。城門の外へ放り出すにとどめよ」
 護衛の武士たちが気を失った鳶をかついでその場を離れていく。小太郎がその後を追って走るのを小夜は半泣きで見送った。
 どぉぅん、どぉぅん、と、屋敷中の人間に巫女の出立をつげる大太鼓が鳴りはじめる。
「巫女様ご一行、出立いたす。門を開けぃ!」
 相馬大名の号令で、二十四年に一度しか開かない大門が押し開けられた。
 クマよけの鈴をしゃりんと響かせ、狐と奔翔が門をくぐる。続いて狸と騰霧。ふたりとも、面をつけたままだ。
「巫女、先に行きなさい。俺は、しんがりだ」
 何事もなかったかのような静かな声、いや武丸にしてはあまりに静かすぎる声に震えつつ小夜は足で絶影のおなかをはさみこんだ。合図がつたわり、絶影が歩きはじめる。そして小夜に続き、武丸が門をくぐった。
 門をくぐったとたん、ふうわりと妙な空気が小夜の肌をなぜる。山独特の冷たい空気。そのなかに、妙に熱いものが満ちているのだ。じっとしていても風邪で熱でも出したかのように頬が火照ってくる。この山に満ちる神気、ほかの土地が雪に埋もれても、この山だけは雪がほとんど積もらないゆえんだ。
 道は馬のために整備された、しかし厳しい山道だった。人間にはゆるめに作られた石段を、馬たちがえっちらおっちら登ってゆく。と思えば、ときには下りの坂もあり、馬たちは後ろに体重をかけて、そろりそろりと用心ぶかく降りてゆくのだ。
 そっと絶影の首を平手でたたき、はげましてやる。重い衣装をつけた小夜が乗っているのだ。しんどいだろうし、衣のすそが腹にふれて、こそばったくてたまらないに違いない。実際、ハエとでもまちがえたのか、しっぽで何度もたたかれた。
 何度か休憩を入れつつ、太陽が昇りきるまで歩いた。
「もうすぐ、ほこらが見えてくるはずじゃ。がんばれ」
 狸がはげましてくれた。それなりの歳のはずだし、太鼓腹がいかにも重そうなのだが、あんがい体力がある。面のせいで表情がうかがえないのが悲しい。面の下に汗をかいているはずだが、三人とも髪のはえぎわと首筋をぬぐう程度で、面をはずそうとはしなかった。
「そら、見えてきたぞ。ん?」
 狸が上を見上げ、けげんそうな声を出す。狐と奔翔がぴたりと動きを止めた。
「どうした、狐」
 後ろから武丸の声が聞こえたが、狐は答えない。
「なにやつ。ここが何の場所か、今日が何の日であるか、知ってここにあるか」
 狐が弓に矢をつがえる。誰もいないはずのこの場所で、はかまをはき、なぎなたをたずさえた人物が仁王立ちになっている。逆光で顔がよくわからなかった。
「知っているから、来たのです」
 その答え、その声に、小夜は目を見開いた。



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