七章「山の神、あらわる・下」

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 気がつくと、小夜はほこらの前に倒れていた。あれだけの高さから落ちたにもかかわらず、傷のひとつも痛いところも何ひとつない。空を見あげても、龍も天女も獣たちも影も形もなく消えうせて、大粒の雨が降ってくるだけだ。あれだけの絹布が降りそそいだはずなのに、地面にはその切れ端さえ落ちていない。かわりに桑の実村の人々と、コックリの三者がぐったりとうつぶせに倒れていた。
 小夜はあわてて身を起こした。すぐ近く、座りこんだままで届くところに、絶影が四肢を投げ出して倒れている。
「絶影、絶影!」
 軽く呼びかけただけで絶影は目を覚まし、ひょいっと立ちあがって不思議そうに小夜を見つめた。絶影を皮切りに村人たちがあちらこちらで目を覚ましはじめた。
「小夜、小夜!」
 目を覚ますなり母が叫ぶ。小夜は笑って母の元へ走っていった。
「小夜、よく無事で!」
「よかった、よかった!」
 涙、涙で言葉も出ない母のまわりで、桑の実村のみんながぐしゃぐしゃ小夜をなでまわした。小夜も泣き笑いだ。小梅も茜もばばさまも、ぎゅっと片っ端から抱きしめた。
「よくぞ帰ってきた。よくぞ戻ってきたな」
 翔次郎も満面の笑みだ。そのまま抱きつこうとして、小夜はにやっと笑った。
「抱きしめるのは私じゃないわよ!」
 ぎゅっと小梅を翔次郎の胸に押しつける。小梅が目を白黒させた。
「ちょ、ちょっと、小夜ちゃん!」
「はは、小梅はもちろんだ。言われずともこれからいくらでも抱きしめるに決まっておるではないか。でも、小梅、今は許しておくれ」
 小梅から身をはなすと、翔次郎のほうから小夜をぎゅっと抱きしめてくれる。小夜も思わず真っ赤になり……肝心の人がいないことに気がついた。
「犬にぃは?」
 人垣がざわざわっと揺れた。みんなから離れたところ、ぽつんと鳥居の下に倒れている人が見える。一糸まとわぬ姿でうつぶせに倒れ、ぴくりとも動かない男の人。
「犬にぃ、犬にぃ!」
 あわてて走っていって呼びかけると、武丸がぐぅっとうめいた。
「小夜、悪かった。悪かった……」
 まだ意識がはっきりしていないようだ。うわごとのように悪かった、悪かったとつぶやきながら、閉じた目の端に涙を浮かべている。
「あやまらないで! 私、ここにいるから。大丈夫だから!」
 必死に呼びかけると、武丸がうっすら目を開いた。
「小夜、か? そこにいるのか?」
 うんうんうなずくと、武丸がぎゅっと小夜の腕をにぎりしめた。小夜も両手で握り返す。武丸がうめきながら体を起こした。
「こんなことをして何になるとは思わない、お前が幻覚でもいい、天女でも龍でもなんでもいい、ただこうして謝らせてくれ……すまなかった!」
 起きあがるなり土下座して頭を地面にこすりつける。小夜は思わず口をぱくぱくさせた。なにしろ武丸は裸なのだ。やめてよ、立ってよとも言えないし、かといってこんな土下座なんて!
「オイヌさま、わしらじいさん連中より見映えのする体なのはわかったが、ちょいと、うぶな娘に見せるには触りがありすぎるんでねぇのか」
「へっ? ……うぉう!」
 桑の実村のじいさんの助け舟に、やっと自分が裸だと気づいたらしい武丸があわてて前を隠す。どっと周りが笑いに包まれた。
「イヌさまの着物はどこじゃ?」
「ここじゃここじゃ!」
 持ってこられた着物は雨でずぶ濡れだが、こればっかりはどうしようもない。おかしくておかしくて、小夜も背を向けながら思わず声をたてて笑ってしまった。
「お、オイヌさま、どうされた?」
 なぜか驚きの声があがったのにこらえきれず振り返ると、着物を身につけている途中の武丸がまた地面に倒れこむところだった。
「犬にぃ!」
 小夜はあわてて駆け寄ろうとしたが、武丸を囲んでいる男衆はみんなにやにやして、危機感というものがまったくない。それもそのはずだ。息をしているのは明らかだったし、それどころか……。
「おやおや、眠りこんじまっただ」
 ぐうぐういびきをかきはじめた武丸に、じいさまたちも肩をすくめた。
「そりゃあ、山犬になって、あんだけ走れば疲れもするわな。まぁ、ふんどしだけは自分でつけてくだすってよかった。どこか、雨の当たらん場所へお運びするか」
 疲れていたどころではないだろう。きっと、巫女の選考が始まったあたりからまともに寝ていなかったのだから無理もない。顔を見あわせて笑っていた狸と翔次郎が武丸をほこらの中へ運ぶよう指示した。
「絶影、働ける?」
 小夜の後ろでのんびり草をはんでいた絶影がひょこんと顔をあげた。
「みんなが腰でも悪くしたら悪いもん。犬にぃを運んで、それから逃げちゃった喩輝も探さないとね」
 絶影がぶるりと鼻を鳴らす。いかにも不満げな様子がおかしかった。
「じゃないと、いっしょに帰れないもの。ね。もう少し、がんばって」
 それでも不満たらたらで草の方へ行こうとする絶影をなだめすかし、武丸をその鞍の上にかつぎあげてもらって、ほこらへ運んだ。
 絶影がここにいる。小夜もここにいる。武丸も小梅も母もここにいて、一緒に山を下れるのだ。小夜はほほえんで絶影の鼻先に口付けした。やわらかいような、こりこりしたような感触の鼻面が心地いい。絶影は満足げに目をほそめ、首を下げて、雨粒をきらきらまとわせた草を食みはじめた。



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