終章「神馬」

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 武丸はこの後、丸一昼夜眠り続けた。雨はさらに長く七日七晩にわたって降りそそぎ、相馬大名の領地をうるおすことになる。

     *

 小夜は武丸の枕元で赤ん坊をあやしていた。儀式の最中、突然現れた小ダヌキが変化したあの赤ん坊だ。なんとなくちらちらと武丸に視線を向けていたのだが、その何度目か、武丸が目を開けているのに気がついた。
 狸は大名さまにことのあらましを述べるため下山しており、翔次郎と小梅は二人でどこかへ行ってしまっている。雨の中でのことだから、ほこらの裏手にある厩にでもいるのだろう。桑の実村のみんなも安心して村へ帰ってしまっていたから、ほこらの中にいるのは小夜一人だった。
「起きたの?」
 ああ、と眠たげな返事が返ってきた。また目を閉ざしてしまう。二度寝してしまったのかな、と思ったが、武丸は目の上に腕を乗せると、重々しく口を開いた。
「小梅。小夜は、行ったのか」
 小夜はきょとんとした。どうやら小夜のことを小梅と思いこんでいるらしい。
「絶影も一緒に行ったんだな。ほかの四頭は無事か? ……小夜と絶影がいなければ、無事もへったくれも、ないか」
「あの、犬にぃ?」
「小夜みたいな呼び方せんでくれ」
「いや、そうじゃなくて、私。小夜」
 がばっと武丸が飛び起きた。
「小夜! お前、なんでここに。その赤ん坊、どうしたんだ」
 まじまじ見つめられ、小夜は恥ずかしくなって目をそらした。
「なんでって。もしかして、覚えてない?」
「覚えてないって、そんなわけないだろう。いや、ちょっと待ってくれ」
 自分のひたいに手を当て、武丸はぶつぶつ言いはじめた。
「お前が空を飛んで、雨が降って。お前に最後まで謝れなかったのが心残りで。おいおい、本当に記憶が飛んでやがる。ずっと何かを叫んでた気はするんだがなぁ」
「山犬に変身したこと、覚えてないの?」
「変身、俺が? 真顔で冗談言わんでくれ」
 そう言いつつ顔は真っ青だ。少しずつ記憶がよみがえってきたらしい。しまいには頭をかかえてしまった。
「あの場で酒でもがぶ飲みしたのか、俺は……」
 裸で土下座したことまでは言わないほうがよさそうだ。翔次郎に牙をむいたことも、小夜が思いっきり平手打ちしたことも。
「まぁいいや、あとでまたゆっくり思い出して。馬に会いに行こう。厩に小梅さんと狐さまもいるから。絶影も、みんな無事よ」
 小夜は笑って武丸の手を引く。みんな無事、の一言に武丸の頬がゆるんだ。
 ほこらの裏にはありがたいことに屋根つきの馬房が五頭分そろっていた。武丸が言うには、山歩きの調教のために馬を連れて何度か泊まりこみで来ていたそうだ。おかげさまで馬の餌、押し麦や塩もそろっている。
 馬房の前で身を寄せあい、談笑していた小梅と翔次郎が目をあげた。
「武丸、目が覚めたか!」
「心配をかけた、すまん」
「おぬし、この騒動を心配の一言で片付けるか。おぬしが突然山犬に変わって噛みついてきたときの驚きといったら」
 武丸が「やっぱり本当だったのか」とばかり顔をしかめた。
「おうおう、みんなそろってにぎやかよの」
「狸さま!」
 山を一度下って戻ってきた狸が騰霧の背から飛び降りた。鞍袋には数日分の食料がつめこんであるようだ。
「コックリの役職は終わったゆえ、わしのことは狸原宗兵衛と呼ぶがよい。犬野どのも無事に目覚めたな。ほんに、山の神のお怒りにあって、よくぞ誰一人、馬一頭そこなわず戻ってこれたものよ」
 宗兵衛は小夜の腕から赤ん坊を受け取った。この赤ん坊は次代の「狸」であり、宗兵衛の息子として狸原の家で育てられるのだ。こんな生まれ方をしても宗兵衛は息子がかわいいとみえ、穏やかな笑みをうかべて赤ん坊をあやしはじめる。
 ふいに、絶影が高々といなないた。ほかの四頭も唱和する。
「どうした、急に」
 ひぃいん、ひぃいいいん! 小夜にはどの馬がいなないたかはっきりわかる。喩輝が鳴く、奔翔が返す、騰霧、翻羽、そして絶影。
 突然、空から初めて聞くいななきがした。ぎょっとして空をふりあおぐ。さぁっと黄金の光が雲の間から差しこみ、そこを一頭の馬が駆け下ってきた。後光をおった栗毛馬だ。 おそろしいほどに美しいその馬は一直線に小夜らのもとへ駆けてくると狸の前で立ち止まった。ぶるり、ぶるりと鼻を鳴らし、気品ある面持ちで宗兵衛を見つめる。首を突き出し、何かを求めるしぐさをした。
「次代の狸はいらぬ、ということか……」
 宗兵衛がひざまずき、腕に抱いていた赤ん坊を両手でささげるように差し出した。栗毛馬はそっと赤ん坊の産着をくわえて持ちあげると、ゆっくり顔をあげて何か言いたげに小夜を見つめた。
 だが、それも一瞬のことだ。栗毛は軽やかに大地を蹴り、天へ駆けあがってゆく。すぐ空に溶けて見えなくなってしまった。
「狸原さま、あの馬は」
「巫女の乗馬は雨招きの青毛馬か、晴れ招きの葦毛馬と決まっておる。だが、最初の一頭、神話に登場する名馬だけは違うのじゃ。かの馬の名は、栴檀栗毛。栗毛馬だったのだよ」
 翔次郎が目を見ひらいた。宗兵衛は雨に打たれるのもかまわず、畏怖の表情で空を見あげている。
「では、まさか」
「さよう。しら女神の御使いじゃな」
 宗兵衛はからっぽになった両手を名残惜しそうに見おろしてから、その場の全員に笑みを向けた。
「これで、本当に終わったな」
「いいえ、まだ終わっていません」
 けげんそうな視線が小夜に集まった。
「菊野姫が最後に言われたんです。願わくば、我らを想い、歌い舞え、と。私が行かなかった以上、なんとかして果たさなくちゃ。神馬さまは、その念押しのためにも来られたんだと思います」
「ほう、菊野姫が……」
 宗兵衛があごに手を当て、なにかを思い出すように目を細めた。宗兵衛は前回の儀式にたずさわった唯一の人物だ。菊野姫を見送るときにも立ち会っている。
「たしかに、巫女制度がなくなったからといってコックリの舞やしらさまの物語を絶やすのは惜しい。巫女姫さまがたを忘れぬためにも……おお、そうじゃ」
 よいことを思いついたぞ、とばかりに宗兵衛はいつもの扇をパンと音立てて開いた。
「儀式がなくなれば、神馬はただの馬となる。となれば、神馬の厩者はみんな職を失うわけじゃろう。体力にも馬の扱いにも自信者ぞろいなことだし、みなに神楽の祭祀になってもらってはどうじゃ。そうして、村々をめぐって神楽をおこない、旅芸人のごとく物語を伝えるのだ」
 武丸が身を乗り出した。
「それはいい。じゃあ鳶はあの張子の馬だ。さぞかしやつには似合うだろうよ。なにせやつ自身が獅子舞みたいなご面相だからな」
 儀式以前どおりの目の輝きをそこにみとめ、小夜はほっとしてほほえんだ。興味しんしんで首を伸ばしてきた絶影をなでてやる。
「前足と頭が鳶さんで、後ろ足を小太郎が受け持つわけね」
「そう。それで俺は狗としてばっちり主役を張る」
 狗が主役をはってどうするのだ、とばかりに一同そろってあきれ顔。
 身を乗り出していた絶影がかぷっと武丸に噛みついた。武丸がコラッと怒鳴り、絶影の鼻面をたたく。だが絶影は一歩もゆずらず、ぐいぐいっと鼻先を武丸に押しつけた。必死な目つきに武丸も思わず苦笑い。
「絶影が、僕はどうなるの、だとさ。こいつ、馬のくせに俺から主役を取るつもりでいるらしい」
 一瞬の沈黙の後、その場の全員が声をあげて笑いはじめた。
「やれやれ、ずいぶんと物語が曲がりそうじゃなぁ」


「馬に恋した娘」 完


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