今日は品評会の日だ。国中の一流製本職人が作った本が一堂に集められて展示される。ドラゴン革張りの哲学書に火トカゲの革張りの商業書。金箔押しの繊細な表紙、あでやかなマーブルに彩られた見返し、流麗なカリグラフィーで彩られた本文……。
 リチャードは応募すらできなかった。ちゃんと最高の本を作って持っていったのに。展示されている本を見ることさえかなわず門前払いされてしまった。

     *

「ごめんください」
 細い声に、ふてくされてソファーで寝ていたリチャードは飛び起きた。まさか品評会からの使者? いやいや、自分の名前も工房の名前も聞かれなかったからそれはないはずだ。だとすると借金取りか? でも細い女の声だった。気のせいか?
「あの、どなかたおられますか?」
 やっぱり幻聴じゃなさそうだ。借金取り以外にこの工房に来る人といえば。しかも清楚な若い女の声とすれば。
「お、おきゃくさんですか?」
「そうですが……」
 リチャードはそろりとドアをあけた。ぼさぼさの髪が相手から見えないくらいに細く。
 ドアの向こうでは栗毛の乙女が小首をぴょこんとかしげていた。雨上がりの草木のような翠の瞳には困惑の色。
「ちょ、ちーょっとお待ちを!」
 リチャードは慌ててドアを閉めた。まさか今日お客が来ようとは! 腕のいい製本職人はみんな品評会へ行っているから、美しい本の好きなお客もみんなそちらへ行っているか、あるいは今日は親方が工房へいないと思い込んでいるといるとばかり。なんていったってあんな大きな品評会だ。となれば相手は一見の素人だ、はじめてここに来るお客だ、しかも美人だ!
 リチャードは慌ててあたりを見回し自分の格好を見下ろした。そこらじゅうに転がった酒瓶、皿に食べかす、その他もろもろを部屋の隅におりゃおりゃ蹴りこんで毛布をかける。机の上にかがりかけの本と編みかけの花布を並べる。革用カッターとドラゴン革も……しまった、ドラゴン革を切らしていた。火トカゲの革もない。牛革や山羊革すらない。革を入れている袋が空っぽだ。
 リチャードは舌打ちすると洗面所に飛びこみヒゲをそり、髪を整え服の埃をばたばたはたいてドアを開け放った。
「たいへんお待たせいたしました。どーぞ中へ」
 お客は目をぱちくりさせ、初めての場所へ放された小動物の動きで工房に入ってきた。きょろりきょろり。とことこ。きょろり。びくり。立ちすくんだ視線の先に毛布の小山とそこからはみ出た酒瓶と汚れた皿を見つけてリチャードは頭をかいた。
「今日はどういったご用件で? レディ……?」
「クリスティーヌと申します、リチャード親方。今朝アレックス親方のもとへ行ってきたんですが、ご不在ということでこちらを紹介していただいたんです」
 アレックス。数年前までリチャードが師事していた製本職人、当然今日の品評会にも招待されているはずだ。となればここを紹介したのは工房に残っていた姉弟子のローラだろう。ローラのナイスバディを思い出してリチャードは両手をこっそりこすりあわせた。さすがは頼れるオネエサマ!
「今日はこの本の改装を依頼したくて。祖父の遺した本なんですが、傷みがひどいので綺麗に直してほしいんです」
 クリスティーヌは胸に大事に抱えていた包みをリチャードに差し出した。
「見てもいいかな?」
 彼女がうなずくのを確認し、リチャードは白手袋をつけて包みをほどいた。
「わーお、こりゃあ年代ものだ」
 中にあったのは革装の立派な本だった。黒い牛革に金の箔押しでほどこされた表題と蔓草の装飾、見開きは緑を基調としたマーブル紙で本文は羊皮紙だ。それぞれいいものを使っているが、残念ながら保管場所が悪かったようで、表紙は青や白のカビにうっすら覆われ見開きは中央で裂けて表紙と本文がはずれかかっている。それになにより。
「これは魔術書だね? これを持っていて今まで何もなかったかい?」
「何も、って?」
「この本には魔方陣がたくさん描かれてる。でも知っての通り、魔方陣は描くと同時に魔力を発揮するもんだ。こうして何の力も持たせないためには枷をかけなきゃならない。それが壊れかけてる」
「はぁ……」
「たとえばね」
 リチャードは適当な紙を引っ張り出してきてクリスティーヌの前に置いた。羽ペンで魔方陣を描く。
 描き終えると同時に羊皮紙はめらめら燃え始めた。
「これは炎の魔方陣。この通り描き終えると同時に発動する」
 燃える羊皮紙を暖炉へ投げ入れ、リチャードはもう一枚の紙を取り出した。
「それをこうすると、紙が黒こげにならずに済むわけだ」
 リチャードは赤いインクでページの四隅に模様を描き、それからさっきと同じように紙の中央に魔方陣を描いた。
 次は燃えない。羊皮紙は机の上でかすかな風に吹かれて震えるだけ。
「普通はこの赤い模様を透明なインクで描く。ところが、この本にはこの透明インクの部分がすりきれたり、シミやカビで劣化しているところがあるんだ。つまり」
 リチャードは赤い模様の一端、右上の隅に描かれた模様をちぎり取った。とたん羊皮紙の上にゆらりと人魂のような光が浮かんだ。もうひとつちぎると人魂がさらに明るく熱くなる。さらにひとつちぎれば紙全体がぶすぶす煙をあげはじめ、最後のひとつをちぎるとあっという間に燃え上がって消え失せた。
「要は危険な状態ってわけ。どんな魔力が漏れ出すかは描かれた魔方陣によって違うんだけど」
「どうしてそんな危ないものを。私、そんなこと知らなかった」
「そう、普通知っているのは魔術書を扱う魔術師と製本職人だけ。知らずそれを受け継いだ人は事故が起きてはじめて知るわけさ。ほんとはちゃんと管理できない本はしかるべき所へ売り払った方がいいんだけど……」
 言い終えてからクリスティーヌの顔が真っ白になっているのに気づき、リチャードはあたふた床を踏みしめた。しまった、うっかり肥えた商人向けの説明をしてしまった。こんな美人を脅すなんざ紳士として失格だ。
「ご、ごめん、ちょっとオーバーに言い過ぎた。心当たりがないならたぶん大した力のある魔方陣じゃないよ。火災よけや雷よけの魔方陣なんかは魔力がわざと漏れるように描かれてる。そういう災いよけの魔方陣をたくさん描いた本を大切な人に贈るのが流行ったこともあるんだ。もしかしたらそういう本かも。もうちょっとちゃんと見させてもらうね」
 リチャードは慌ててページをめくった。石を鑿で削ったような無骨な文字がずらりと並んでいる。そのところどころに大小さまざまの魔方陣。一度ぱらぱら全体を見てから目次を探し当てて読んでみた。
「えーっと、なになに? 植物の成長を早くする魔方陣、美しい花を咲かせる魔方陣、作物の味をよくする魔方陣・葉野菜編――これは植物に関する魔方陣をまとめたものみたいだ。よかった、そんなに危ないものじゃなさそうだね。君のおじいさんは植物学者かい?」
「そうです。古代文字が読めるんですか?」
「ちょっとかじった程度。道理でこんなカビがはびこってるわけだ」
「本棚にキノコがいっぱいはえてきて困ってたんです」
「キノコが?」
 反射的に聞き返してからリチャードは吹き出した。そうなんですよ、とクリスティーヌも頬を染めて笑う。さぞかし美味しいキノコがわさわさはえてきたのだろう。この本から一ページ失敬して外の植え込みの隅にでも埋めておきたいところだ。
「ただ、魔方陣の描かれた本はさっきも言ったような危険がある。今回はたまたま大丈夫だったけど。もしこれ以外にもあるならできるだけ早く持ってきてくれた方が安心かな。君みたいな綺麗なご婦人が困るところは見たくない」
 釘を刺すとクリスティーヌは笑みをおさめてうなずいた。
「よーし、いい子だ。じゃあ見積もりといかせてもらおう。どこまで直せばいい? 透明インクの封印はもちろんとして、表紙も新しい革に替えようか。それともクリーニングして黴だけ落とせばいいかな? 本文も痛んでいるところがあるから直したほうがいいな」
「できるだけ綺麗にしてもらいたいんですが」
「新品みたいに? 本文も替えたほうがいいかな。そこまでやると値段が跳ね上がるけど。全部手書きで写すことになるから」
「そ、そこまではいいです」
「じゃあ透明インクの封印、黴のクリーニング、背の綴じ直しと破れかけてるページの修理。この本の厚さだと金貨十枚になります。端数はオマケしとくよ」
 クリスティーヌの顔が凍りついた。
「えーと、いくらまで出せるかな?」
「そ、その、金貨三枚くらいしか……」
 リチャードは頭を抱えた。それでは大赤字だ。魔術書の修理代はほとんど手間賃、金貨三枚あれば材料は揃えられるが慈善事業で修理製本できるほどリチャードには余裕がない。一冊仕上げる前に飢え死にすること請け合いだ。
 だが久しぶりに回ってきたちゃんとした製本の仕事をむげにするほど、美女の頼みを足蹴にするほどリチャードは落ちぶれていない。
「じゃあ金貨三枚で引き受けるから、ふたつ頼みを聞いてくれないかな?」
「頼みですか?」
 リチャードは腕を組んでうーんとうなった。
「ひとつめ、ちょっと時間かかってもいいかな? 安く材料を調達しないと」
「もちろん」
「ふたつめ。君は料理、得意?」
「人並みには」
「じゃあ君の手料理が毎日食べたい。昼食だけでいいからごちそうしてくれないかな?」
 ご覧の通り食うに困ってるんだ。両手を合わせて笑ってみせると栗毛の乙女は目をしばたかせ、頬を染めてくすくす笑った。
「お安い御用よ」
「じゃ、商談成立ってことで」
 とりあえず毎日の食事が確保できればなんとかなる。リチャードは片目をつぶり、魔術書を作業台へそっと乗せた。

     **

「で、引き受けちゃったのね?」
「だって美人だったんだよ久しぶりの製本の仕事なんだよ!」
「あら、美人って私より?」
 姉弟子の艶やかな笑みにリチャードはあたふたした。
「だからって大赤字なのに引き受けちゃだめよ、飢え死ぬわよ? 食事が保証されているといっても他にも物入りでしょう?」
「そ、そうなんですが」
「なんで急に敬語になったの。へぇ、黴だらけだけど綺麗な本じゃない。魔術書でこんなにたくさん博物画が載ってるのは珍しいわ。コレクターには垂涎の的でしょうね」
 だいぶ黴臭いけど、と黴の胞子を散らさないようそうっと本を閉じる。
「まぁ私が回した仕事だし、透明インクくらいは用立ててあげてもいいわ。でもそのかわり、ねぇ?」
「花布編み三十本でどうですか」
「やぁん、話がわかるわねリチャード!」
 花布は本の背につける小さな飾り布。絹糸をちくちく編んで作るのだが、姉弟子はこの作業が大の苦手らしいのだ。腕は決して悪くないのだけれど、どうしても単調作業が性に合わないらしい。
「よかったら他にもオマケつけてもらえませんかね? 見返しのマーブル紙とか」
「じゃあ五十本といいたいところだけど、さすがに花布そんなに使わないわね。本当に困ったら連絡なさい」
 ひとまず高価な透明インクが調達できるだけでもありがたい。さすが頼れるオネエサマ! リチャードは両手をこすりあわせた。

     ***

 中央で裂けた見返しからナイフを入れて本文と表紙を切り離す。とたん魔方陣が発動する気配がして、作業台の端からにょきにょき新芽が伸び始めた。
「だめか、これ表紙の芯紙に封印魔方陣が描かれてるんだな」
 新芽を折って暖炉に放り投げ、ひとまず応急処置として床にチョークで封印魔方陣を描いた。湿らせた雑巾で表紙をぬぐい、霧吹きで強い酒をかけて消毒する。普通の本ならこれで黴がはえてこなくなるはずだが、この本の場合は魔方陣をどうにかしないと元の木阿弥になってしまう。
 それに思った以上に表紙の損傷が酷かった。黴さえどうにかすればと思っていたが、おそらく表紙からにょきにょき植物がはえてきたことがあったのだろう。根元で切り取られているが茎や根らしきものが何本も表紙に埋まっており、そのあたりのものが出てきたとおぼしき穴もある。これは革を全部取り換えた方がよさそうだ。
 と、全開にしてあったドアの向こうから女の子の軽やかな靴音が聞こえてきた。
「うわっ、お酒くさい!」
 かわいい女の子の開口一番がこれはこたえる。
「いやいやいや僕が飲んでたわけじゃないよ、黴を落としてたんだ。見てみるかい?」
 クリスティーヌが興味津でのぞきこむ。とたん無残に切り離された表紙と本文の様子を見てか、そのかわいらしい眉が悲しげに下がった。
 本が骨格をむきだしにしている姿は悲しいものだ。ましてそれが思い入れのある大切な本とあれば。これは気合を入れねばなるまい。
 背に貼られた古いクータ(補強の紙)に水を含ませ、少しずつ剥がしていく。黒い黴がぽつぽつ浮かんだそれを完全に剥がしてしまって、綴じ糸の具合を検分した。この本が作られたのは五十年ほど前だろうか。染み出した魔力によって表紙や本文はかなり傷んでいるものの、背の構造はまだまだしっかりしている。
「あの、約束のごはん持ってきました。手が空いたら食べてください」
 リチャードの仕事ぶりに多少は安心してくれたのだろうか。おずおずかけられた声にリチャードは破顔した。
「こりゃ美味しそうだ。いただきます」
「今日のごはんはニシンのパイですよ。持ってくる間にちょっと冷めちゃったけど」
 冷めたといっても猫舌のリチャードにはちょうどいい冷め具合。作業台を汚さぬようベッドの上で皿を広げるリチャードにクリスティーヌが目を丸くした。
「失敬、空いてる机が他にないもんで」
「じゃあ次は手づかみで食べられるものにします。サンドイッチは? ピクニック気分になれるかも」
 笑いつつ一口頬張ってみればニシンの卵がぷちぷち弾けた。小骨がぐさぐさ刺さるのはご愛嬌。
「嬉しいけど、さすがに毎日サンドイッチはごめんこうむる。どこかから机を手に入れてくるよ」
 背の補修はひとまず区切りがついた。魔方陣補修用の透明インクは何日か後にローラが持ってきてくれる手筈になっている。花布もローラに渡す残りを使えばいい。となると、他に必要なものは……。

     ****

「おやじ、頼む! 銀貨三枚で牛革一頭分売ってくれ!」
「ばか言うな、牛一頭いくらすると思ってんだ! 今までさんざんまけてやってるだろうが!」
「そこをなんとか! かわいい女の子のためなんだ!」
「お前のやせ我慢に付き合ってられるか! おとといきやがれ!」
 さすが長年付き合っている屠場のおやじ、リチャードの性格をよく分かっている。おやじのつるつるスキンヘッドが遠ざかっていくのを眺めつつ、リチャードはどうしたものかと腕を組んだ。
 いつもならゴミを漁らせてもらって使えそうなものを持ち帰るところだが、そんな革をクリスティーヌは喜ばないに違いない。でもせめてマーブル紙作りに使える胆嚢だけでも貰っていこうとゴミ置き場を覗いたリチャードは、とあるものを見つけて口元をほころばせた。
 牛の断末魔を聞きながら屠場の裏へ回る。思った通りさっきのおやじの息子、滅多に手伝いをしない少年がむすっとした顔で牛の皮をたどたどしく剥いでいるところだった。
「ゴミ置き場に破裂した内臓がいくつもあると思ったら、やっぱりお前か。よしよし、リチャード兄ちゃんが手伝ってやる」
「ラッキー! じゃあオレ遊びに行ってくる!」
 さっきまでの不機嫌顔はどこへやら。急にどこかへ走り出そうとした少年の襟首をリチャードは慌ててひっつかんだ。
「ちょっと待て! 俺は手伝うだけでな、代わってやるとは言ってないぞ! お前がいないとお前のオヤジに見つかった時が厄介なんだ。この心優しいリチャードお兄さんがていねーいに教えてやるから仕事覚えろ!」
「……オレが一人前になったら困るくせに」
 ぼそっ。全部お見通しとばかりの大人びた声に、リチャードは痛いところをついてくれるなと大きく大きくため息ついた。
 少年からナイフを借り、半ばで切断された前脚からナイフを入れる。半分は解説しながら自分で、もう半分は少年にやらせながら、服でも脱がすかのようにするする皮を剥いでいく。
「首から胸にかけては皮がたるんでるから、やりにくい。ナイフを小刻みに動かして、手で引っ張りながらゆっくり切っていくんだ。やってみな」
 教えながらふと視線を感じて脇を見てみれば、一体いつ気づいていつ来たのか、血みどろエプロン姿の大柄なオヤジが皮はぎナイフ片手に腕組みをしてリチャードの手元をじいっと眺めていた。
「お前どこで皮剥ぎ覚えた」
 固まるリチャードと息子を細い目でじろっと睨んで、おやじは再びリチャードの手元へ視線を戻す。
「生まれた家が森の方で。豚飼ってたんですよ」
 リチャードが剥いだ皮を血みどろの手袋の手で持ち上げて検分し、ついでに息子のもそうやって見て舌打ちすると、おやじは手袋を脱ぎ手のひらをリチャードへ突きつけた。
「今日のところは傷物の皮が半頭分で銀貨四枚。息子への指導費が銀貨一枚ということにしておいてやる。差額で銀貨三枚よこせ」
「さすがおやじ! 太っ腹! 半頭分の皮って俺がやった方を持っていっていいかな?」
「息子がやった方を持っていけ。なめしは他でやれよ」
 リチャードはやっと肩から力を抜いて、こりゃあ人手が足りないとき声をかけられそうだと笑いつつ、錆鉄がむんむん香る戦士のような手へ銀貨を三枚きっちりと落とし込んだ。

     *****

 リチャードの工房はアパートメントの一角にある。このあたりの地区は貧乏――もとい修行中の芸術家や職人の多いところで、毎日あちらこちらで誰かが魔法を暴発させてボヤを起こしたり壁をぶちぬいたりと大小さまざまの事件が起きていた。住人も大家も慣れたもので、ちゃんと原状復帰さえすれば死人や重症人が出ない限り追い出さずにいてくれるものだ。
 そんな騒々しいアパートの一室、製本工房の隣のドアをリチャードはノックした。ここにはこのアパートに珍しく隣人に迷惑をかける心配のない、けれど御多分に盛れず絵具代にも毎日の食い扶持にも事欠くような貧乏画家が住んでいた。
「おーい、画家センセイ! いるかー?」
 返事はない。けれど部屋にいるのはわかっている。このアパートでは生活音もテンペラ油の匂いも筒抜けなのだ。何度か魔術書を暴走させて壁をぶちぬいているからその薄さは良く良く知っている。
「……なぁ、かわいいオンナノコが作ってくれたサンドイッチ食わないか?」
 やっぱり。ドアの裏で聞き耳をたてている気配がする。
「お前さんも声はよく聞いてるだろ? 今回のお客さんだ。名前はクリスティーヌ。ふわふわの栗毛にエメラルドの瞳のリスみたいな子だぞ。この仕事が終わるまで毎日昼飯持ってきてくれる。今日は何かな、ザワークラフトとソーセージのサンドイッチだ!」
 この画家はオンナノコという言葉に弱い。リチャードも人のことなど言えた義理ではないけれど。
「そのかわいい女の子が助けを求めてる。おじいさんの形見の本、植物学書の修理を依頼してくれたんだが、悲しいかな、見開きのマーブル紙はぼろぼろで修復不能ときた。何を頼みたいかわかるな?」
 カシャン、と鍵の開く音がして絵具まみれのツナギを来た男がしぶしぶ姿を現した。
「ご相伴にあずかろうかな、何でも屋」
「製本職人だよ、画家センセイ」
 画家の背後には無数の絵がある。仕立て屋、靴職人、人形職人、彫金師、このアパートに住む職人達の絵が飾られている。リチャードの絵も何枚かあった。書きかけでキャンバスにたてられているのはアパートのマドンナが机に伏せてしどけなく眠る絵――タイトルは「夢想する劇作家」というらしい。いかにも気障ったらしくて格好つけなこの画家らしい題だった。
「またオックスゴール使うんじゃないだろうな?」
「まぁまぁ。余ったら置いてってやるから」
「あなたの部屋でやってくれ!」
 屠場でもらってきた胆嚢を出すと、画家は慌てて窓を全開にしてサンドイッチを抱え逃げ出した。
 オックスゴール、すなわち牛の胆汁はマーブル作りになくてはならない存在。絵具の滲みを止め、紙に定着しやすくするメディウムになる。匂いはともかく買えば高いし、画家にとっても貴重な画材のはずなのだが。
 家主不在のなかリチャードは胆嚢をさばき胆汁を適当な瓶に入れ、拝借した絵具と混ぜ合わせる。糊を溶かした水へ絵の具を落とし、木切れに細釘を等間隔に打ち付けた手製の櫛で模様を作る。クリスティーヌの本に使われていたのは緑を基調とした繊細な孔雀模様のマーブルだ。
 絵具の色と滲みをコントロールするのは難しい。うっかり気泡を入れてしまい、つくべきところに絵具がつかず白く抜けたりもする。
 やがてサンドイッチを食べつくした画家が戻ってくると、好き放題やっているリチャードに悪態をつきつつクリスティーヌの本を開いて挿絵の模写を始めた。かなり腹を立てているはずだが、彼はかわいらしいお嬢さんのみならず貧乏製本職人に対しても彼は気障で格好つけで、感情をあらわにすることを良しとしない。文句を右耳から左耳へ聞き流しながらリチャードは作業に没頭する。
 ――まとまった金が入ったら綺麗な紙とインクを差し入れて、劇作家のマドンナとのデートをセットしてやらなくては。この調子ではまったく進展していないだろうから。

     ******

 ぼろぼろの牛革をアパートメントの別の階にいる靴屋のところでなめし、まともなところを選んで切り取る。適当な厚さに革包丁で削いで揃えて、さらに折り返すところを紙のように薄く削ぐ。背表紙に元の本とできるだけ似せた刻印を打つ。これで封印魔方陣を描いた厚紙をくるみこんで、表紙の修復はひと段落。
 本の背には既に新しい花布が縫い付けてある。頼まれた花布を作るとき、ローラはかなり多めに絹糸をくれた。その余りを編んで縫い付けたのだ。その上から寒冷紗を貼り、クータを貼って補強してある。これで魔法が暴発しない限りあと百年はもつだろう。
 残るは本文。すりきれ、ほころびた封印魔方陣を補修する作業が残るのみ。机の周りにチョークで封印魔方陣を描き、壊れかけた封印に透明インクで解除の紋を一度描いて、その上からさらに修復を施していく。ぽつぽつ浮いた黴を漂白し、虫食い穴に薄い紙を貼って補修し、ページの折れもひとつひとつ水を含ませアイロンをあてて引き伸ばす。
「ローラ姐、腹減った」
 甘えてみれば、姉弟子はさっき渡した花布を検分しながらわざとらしく肩をすくめた。
「あなた器用だし何でも屋でも始めればいいのに。解体やらせれば屠殺人顔負け、マーブル紙だって職人通さず作れちゃう。その気になれば靴や金具も作れるんでしょ?」
「なんでも屋なんざ始めたら製本の仕事が回ってこないから。俺の技術は全部製本のために覚えた。俺はあくまでリチャード・ブックメーカー、骨の髄まで製本職人なんだ」
「威張るんならがっぽりお金をもらって、もっとたくさん仕事をこなしなさい。じゃないと品評会に推薦することもできないじゃない。こんな格安で本を作る技術ばっかり磨いちゃって」
 品評会。こんな本の作り方をするリチャードでも、いつか出展できる日がくるだろうか。せめて入場くらいは許可してもらえる身分になりたい。アレックス親方の弟子だったころは親方の顔で入らせてもらえたのだが。
 景気の悪い顔をしていたのだろう。ローラは呆れた顔をして、それから何かに気づいた様子で廊下に耳をそばだてた。
「あなたのお客さんよ。しゃんとした顔で出迎えなさい」
 直後に鳴ったノックの音に、リチャードは慌てて「紳士」の顔を作り依頼主を出迎えた。
「こんにちは、今日もお昼を……あら? お客さんですか?」
 そこまで言ったクリスティーヌにローラが長い睫毛を揺らしてウインクする。それでクリスティーヌの方も思い出したようだ。
「うちの弟弟子に仕事をありがとう、もうちょっとで完成よ」
 バスケットを握りしめ、クリスティーヌが歓声をあげる。昨日まで表紙の修理をしていたから、一気に作業が進んだように見えたに違いない。
「見ていてもいいですか?」
「足元のチョークさえ気をつけてもらえれば」
「チョーク?」
 かちり、と嫌な気配。魔力が発動するとき特有の空気の震えが。
 言うに遅し。クリスティーヌの靴が、机の下のチョークの線を踏んでいた。踏んで、こすって、消していた。
 テーブルの木目がどこかを指さすかのようにうごめくと、その机の端から若芽がぐんぐん伸び始めた。フローリングに浮かんだ黴がキノコや苔に変化したかと思うと、板と板の隙間から青々した草がはえはじめる。
 リチャードは首から鎖で吊り下げていた豆本を開くと古代語で短く呪文を発した。豆本に描かれた封印魔方陣が発動し、クリスティーヌの魔術書を縛り上げる。
「おっと、男一人の工房があっという間に花畑だ」
 クリスティーヌは体のどこかにタンポポの綿毛をつけていたに違いない。声も出ない様子で口をぱくぱくさせている彼女に、フローリングの隙間からみっしりはえたタンポポを一輪摘んでリチャードは笑った。気障な男ね、とローラが呆れているのには気づかないふりをする。

     *******

「長らくお待たせしました。確認をお願いします」
 クリスティーヌは本を手に取ると、こわごわ表紙に触れ、確かめるように指でなぞる。本当に大丈夫? とばかり上目使いで見つめてくるのに、リチャードは口元をほころばせた。
「大丈夫、ちゃんと封印を直したから。好きなページを開いて」
 はらり、とページがめくられる。
「すごい。本当に新品みたい……」
 「でしょう」とウインクしてみれば、クリスティーヌは本を大事に胸へ抱いて深々と頭を下げた。
「お気に召したようでなにより。またこんな本が見つかったら、ぜひともリチャード製本工房へご用命ください」
 ああ、また食うにも事欠く貧乏生活の始まりだ。でもこれだからこの仕事はやめられない。リチャードは緩む口元をなんとか引き締め、できうるかぎり紳士的な礼をした。



Fin.


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