その世界、その時代。電気は雷雲から収集するものだった。

      *

 雷雲から電気を持ち帰る集電艦乗りといえば昔から少年たちの憧れの的だった。飛行服にゴーグルつきの飛行帽、ごついブーツに分厚いグローブ、そして肩には集電艦の羅針盤と呼ばれる小鳥エレキテル。電気を通さない特殊素材でできた黒尽くめのいでたちと鋼の鷲のような艦だけで十分格好いいのに、まともな神経の持ち主なら誰もが尻込みするような大嵐の日に空を翔け、翼竜のうごめく雷雲の中へ飛び込んではライデン瓶いっぱいに電気を集めて持ち帰ってくるときた。雷雲の中でひるがえる集電旗見たさに何度嵐の中へ飛び出したことか!
 電気を買う金などなかったし、買ったところで何に使えばいいのやら当時はさっぱり見当がつかなかったけれど、ベンジャミンは自分もいつか集電艦に乗るのだと心に決めていた。少年のころからずっと。……そのはずなのだが。
「第一集電旗展開! 集電開始!」
 ごうんごうん唸るプロペラとエンジン音に負けじと女艦長が声を張り上げた瞬間、目も開けていられないような光と轟音が集電艦を揺るがした。巨人に鷲掴みにされて振り回されるかのようなすさまじい揺れに天も地もわからなくなって。もうこれは墜ちる! 墜ちる! 墜ちる!
「そんな悲鳴あげたら舌を噛むよ。それより見てみなさい、集電旗が燃えている」
 飛行帽からはみ出した髪を静電気で逆立てて博士が笑う。なんでこの人はこんな楽しそうなんだ。え、燃えてる?
「え、ちょ、火事だ! 火事ですよ博士!」
「第一集雷旗、左翼側より発火。切り捨てます!」
 乗組員の笑い含みの声がして、濡れた布を鋭く振ったときのような音と共に窓の外で燃えていた集電旗が遠ざかった。雷を受け続ける集電旗が使い捨てなのは当然知っていたのに。子供のころから燃える集電旗を双眼鏡で見たり落ちてきた燃えかすを友達と奪い合ったりしていたのに。
「機体帯電中につき感電注意。ワイヤより放電中、待機します。第一集電旗への落雷数、十五。ライデン瓶容量報告、現在一号機四十五パーセント、二号機五十パーセント、……二○号機十パーセント。エンジンおよび計器に異常なし。吐き気は大丈夫かしら、ライト博士の助手さん?」
 窓の外が急に明るくなって揺れが嘘のように静まった。真っ黒な分厚い雲を突き抜けて青空の下へ出たのだ。
「凄すぎて逆に吐くどころじゃないです!」
「それは上々」
 女艦長が涼やかな笑い声をあげるのにベンジャミンは真っ赤になった。〈雷神の娘〉号のジェーン艦長、どうしてこの人は美人で家柄も良くてしかも若くして集電艦の艦長になるだけの実力まで持っているんだろう? 本当に雷神様に溺愛されているとしか思えない。
「ライト博士、例の光言語を試すのは?」
「セントエルモの火が現れ次第、現れなければ集電完了後に。それまでに助手が慣れてくれるといいんだが」
「なんで乗組員はともかく博士までそんな余裕なんですか!」
「そりゃあ経験値だよ。それにこれから地球外生物と話すんだ、武者震いこそすれ動転している暇などないね」
 胸を反らしてみせる博士にベンジャミンは頭を抱えた。ひとりだけで絶叫するのは恥ずかしいではないか。いくら集電艦がとんでもない命知らずな乗り物でベンジャミン以外は全員が熟練の乗り手だとしても。
「元気な助手がついてくれてよかったですね、博士。これだけ元気ならきっとすぐ慣れるわ。……機体より放電完了、これより再度雷雲に入ります。第二集電旗展開準備!」
 ジェーン艦長の微笑みと周りに暖かく見守られる視線にベンジャミンはますます恥ずかしくなって、再び真っ暗な雲に入り乱流に激しく揺さぶられ始めた中、もう叫ぶまいと必死に歯を食いしばって震える手で記録用紙を構えた。

     **

 親が集電艦乗りならともかく、金も人脈もない若者が集電艦乗りになる道は限られている。集電艦の乗組員と知り合い見習いとして雇ってもらうこと、空軍の特殊部隊に配属されること、そして錬金術アカデミーを出て雷雲や電気の研究者になること。ベンジャミンが選んだのは三つ目。研究者の道だった。そうして猛勉強ののちアカデミーに入り、念願叶って嵐を専門にしている博士の助手になったはいいものの……。
「ベンジャミン君、今日はランタン球魚に餌をやって発光を観察してくれ。青光クラゲと不知火イカは餌やらなくて大丈夫だから」
 博士の声にベンジャミンはため息をついた。嵐博士と名高いライト博士の研究室だというのに、なぜここにあるのはライデン瓶でも雲発生装置でもエレキテルの鳥籠でもなく暗幕で覆われ薄青い光を放つ水槽ばかりなのだろう? 海から少し離れた地にもかかわらず分厚い真っ黒なカーテンに包まれたここは重たい海の匂いに包まれている。
「地球外生物とコンタクトをとる手段の探求だよ、張り切って観察してくれたまえ。ああそうだ、君はランタン球魚に餌をやるのは初めてだったね?」
 集電艦に乗りたいだけなのになぜいつの間にか地球外生物とコンタクトをとることになっているんだ。グロテスクなランタン球魚が疑似餌の光を使って餌の小魚をおびきよせるさまを「すばらしい」「美しい」「かわいい」と喜色満面で解説する博士を横目に、ベンジャミンは水槽の水圧と酸素分圧を調節しつつ深い深いため息をついた。
「博士、本当にこんな深海の生き物の光で天空の地球外生物と交信できるんですか? そもそも雲海に地球外生物がいるって時点で想像ぶっ飛びすぎだと思うんですが」
「僕は地球外生物が人間に似た姿をしていると考える方が想像ぶっ飛びすぎだと思うけどね。我々はこのランタン球魚と話すことさえできないんだよ。相手は球魚どころか深海にうごめく針でつついた点ほどの虫よりなお遠い存在なのに、なぜ心臓があり喜怒哀楽があるなどと思えるんだい? 人に似た姿なんてとんでもない、僕は目に見えない存在だと考える方が自然だと思う」
「そりゃそうかもしれませんけど」
「きっと身体の構成元素が我々と全く違って目に見えないんだよ。身体が希ガスのネオンやアルゴンでできているかもしれない。もし目に見えるものだとしても摩訶不思議な姿をしているだろうね。いや、もしかすると僕らがとっくに知っているもの、虹やなんか正体が実は地球外生物だったりするかもしれない。そんな気はしないかい?」
「はぁ……」
「彼らはいるさ、天空に。雲海の中に」
 博士はひとりで自信満々にうなずいて、ランタン球魚の発光記録を鼻歌まじりにつけだした。
 この博士の異名が「嵐博士」でなく「怪火博士」だったら、あるいはこの研究室がでかでかと「地球外生物研究所」の看板を掲げていてくれたらはなからこの研究室の戸を叩かなかったのに。研究室にぎっしり置かれた水槽に目もくれず「助手募集。集電艦に乗れます」の募集文句だけで「ここに置いてください」と平身低頭したベンジャミンもベンジャミンなのだが。
 ベンジャミンは水槽だらけの壁の隙間に貼られた絵を眺めた――セントエルモの火を描いたものだ。
 嵐をゆく船にはセントエルモの火という怪火がでることがある。火の気もないのにマストの一番高いところがぼぅっと光り輝く現象だ。それが出ると嵐がぴたりとやむことから、海と空の守護聖人が降臨した証として古くから船乗りに崇められてきた。そして近年は嵐をゆく集電艦によく現れることでも知られている。
 ライト博士はこのセントエルモの火を地球外生命体の発するエネルギーと考えていた。そして「守護聖人の光をはずかしめるなこの馬鹿科学者が」とほうぼうから罵られつつ、海中の発光生物の「光言語」を使ってエネルギーを発する存在とコンタクトをとろうとしているのだった。
 彼のぶっ飛んだ説を支持している学者はベンジャミンの知る限りひとりもいない。

     ***

「第二集電旗展開! 集電開始!」
 ジェーン艦長が声を張り上げると同時に左右と天井――翼の両端をむすぶ線上でゴゥンと鈍い音がする。うなるエンジンに吼える風、荒れ狂う雷鳴のなか、ワイヤのきしむ音が響いた。双翼の端と端にわたされた導線の網の上を真っ白な集電旗が覆うのがわかった、と思ったとたん視界が白紫一色に蹂躙され、全身が痺れて動かせなくなるほどの轟音が全身を貫いた。
 集電艦が集電するのは雷雲の中でくすぶる小さな雷だけだ。地上まで落ちてゆく大きな雷はこの艦では受けきれない。巨大な雷を避け、集電艦はほとんど垂直に傾く形で旋回する。
 長い三つ編みを乱して舵を取る女艦長の後ろ姿に一瞬惚けたベンジャミンは、操舵室の先、窓から見える空を見て息を呑んだ。なにも見えない。目をくらます激しい閃光、果ての見えぬ暗雲だけ。天地の判断もつかぬ揺れの中、聴覚もあてにならない中で、ジェーン艦長は肩に乗せた小鳥、雷を餌とし主に安全な道を示すエレキテルの導きに従って舵をとっているのだ。
 この艦に乗っているすべての命は小鳥と女艦長に委ねられている。少し慣れかけていた心に恐怖が蘇ってきて、ベンジャミンはまた漏れかける悲鳴を必死で押し殺す。握りしめていた鉛筆は震えをこらえるあまり力が入りすぎたのか芯がばっきり折れて、鉛筆をぎりぎり押し付けていたとおぼしき記録用紙はいつの間にか真っ黒に汚れていた。
 それでも必死で歯を食いしばって記録用紙を見つめているベンジャミンの様子に何を思ったのだろうか。不意に博士がちょいちょいと手招きをして、かたわらにある丸い船舶窓を指さした。
 窓の向こう、黒い雲にけぶる視界のなか集電旗に覆われた翼が広がっている。そこに広がる集電旗に吸い込まれるように小さな雷が落ちる。くすぶりかけた集電旗を豪雨がかき消す。また雷が落ちる。その衝撃合間ににワイヤと配管を通じて翼の中に格納された二十基のライデン瓶に電気の移動する音がする。いや集電旗が焦げる音かもしれない。チリチリ、チリチリリ……。
 不意に博士の顔色が変わった。この激しい揺れのなか不自然なほどにこにこしていた顔がこわばる。目が鋭くなる。何事かを怒鳴る。でもたてつづけの雷鳴にかき消されてすぐ近くに座っているのに聞こえない。乗組員とジェーン艦長の間には耳元と口元に集音管があるから指示が通るがベンジャミンとライト博士の間には何もないのだ。ベンジャミンにもジェーン艦長にも博士の声は届いていない。
 ライト博士が激しく揺れる艦内で窓から目を離さないまま懐から何かを取り出した。小型のライデン瓶と青いセロファンがかぶせられた電球だ。
 なぜ、と博士の視界の先をベンジャミンはもう一度目で追ってみる。集電旗が燃えている、なのに焦げている様子はない。ちろちろと舐めるように集電旗の端を彩る炎がすぅっと高く伸びあがった。
「あれは、まさか」
 たてつづけに雷が落ち続けている集電旗の端に、集電旗に吸収されもせず時を止めた雷のようなものが、真っ白な光の槍が伸びている!
「……セントエルモの火だ」
 呟きでは自分の声さえ耳に届かない。ぽかんと口を開け、がぢんと揺れで舌を噛んだ。痛みで我に返って、ベンジャミンは折れた鉛筆を記録用紙に押しつける。ひっかき傷でもなんでもいい、とにかく記録をとらなければ。出現時間、博士が青色灯を出した時間、セントエルモの火の観察スケッチ。でも艦は揺れるわ身体は震えているわ興奮で時計の針もまともに見られないわ、記録などとれたものではなかった。ただランタン球魚の発光リズムで電球を明滅させる博士の周りだけは命知らずの集電艦におよそ似つかわしくない、水槽に囲まれた研究室と同じ不思議に静謐な雰囲気に変わっている。
(なんで僕はこんな必死になっているんだろう)
 不意に研究室で感じていた虚しさがせりあがってきて胸を焼いた。
(この人の研究が日の目を見ることはきっとないのに。僕も今回を最後に博士に見切りをつけるつもりだったのに)
「……! ……!」
 声はまったく聞こえないが後ろから怒鳴られたのだけはわかって我に返ると、乗組員のひとりが舵を操作しながら博士が見ているのとは逆側の翼の先を指さしていた。
「えっ、そっちにも!」
 光の槍が翼の先に宿っている。二つ目のセントエルモの灯が出現している。一応、と渡されていた電球とライデン瓶を出そうと震える手を必死に動かしていると。
「……くそっ! ……消えた……!」
 博士の悔しげな声が聞こえた、と同時に目も耳もろくに使い物にならないにもかかわらず乗務員がハッと息を呑む気配がした。
「……方に……竜……回……ッ!」
 途切れ途切れにジェーン艦長の声がした、とたん博士の側からすさまじい衝撃がきた。
 右方より翼竜、回避する、とジェーン艦長が叫んでいたのが一拍遅れでわかった。

     ****

「博士、ランタン球魚と青光クラゲの発光記録整理しました」
「ご苦労さま。見せて」
 薄青く明滅する水槽の間でグラフを嬉しそうに眺める博士の白髪交じりのぼさぼさ頭ををベンジャミンはじっと見つめた。
「よし。次に嵐が来たら灯台で夜光虫の光と集電艦の関係調査をしよう。上手くいけば嵐から避難してくる舟にセントエルモの火が出るかもしれない。君も空模様を観察しておいてくれたまえ」
 なんとなくこの人が深海魚に見えた。何を考えているかもわからない別の世界の生き物に。全てお見通しとばかり笑っているくせして、きっと何も考えていないか、常人にはさっぱり想像がつかない次元でだけ物を考えているのだ。
「どうした? 何か言いたそうだな」
 この人は地球外生物が雲海にいることを信じて疑わない。周りが首をかしげる気持ちはまったく理解できていない。今ベンジャミンの中にある気持ちも、どれだけ言葉を尽くして説明したところでほとんど理解してもらえない。
「ライト博士。僕、ここの助手を辞めたいんですが」
 ベンジャミンにもこの人の考えがわからない。およそ信じがたい空想を大真面目に証明しようとしてしまうこの人の考えが、図々しさが、度胸が、何もかもがわからない。
「理由を聞こうか」
「雲海の地球外生物なんて誰にも理解できない研究をして、いったいどこから資金を捻出してるんですか。いずれ資金難で解雇されるのが目に見えてますから」
「深海と気象の研究も同時に進めている。そちらでパトロンがついているよ」
「地球外生物の研究は誰にも支援してもらえないんですね」
 博士の口元がへの字に歪んだ。ランタン球魚の口元そっくりに。
「残念ながら、今のところは」
「『宇宙人』研究なら支持者がでますよ。たくさんの人に受け入れてもらえる」
「そうだろうね。でも僕にはまったく受け入れがたい。地球外生物が人の姿をしているなんて」
 そう言うだろうと思った、とベンジャミンはため息をついて水槽だらけの研究室を見回した。
「じゃあ今日中に荷物をまとめて出ていきますんで」
 え、と博士が声をあげる。さすがに今日というのは言い過ぎだったか。でも次の研究室を探すなら早い方がいい。
「ベンジャミン君、さすがに今日というのは困る。君が今すぐ路頭に迷いたいと言うなら止めないが、どうせなら本物のセントエルモの火と雲海を見てから考えないか?」
「本物の?」
「最後に一度、集電艦に乗ってみないかと言っているんだ」
 まさかそんなことを言い出されるとは思わなかった。思わず身を乗り出しかけ、まてよ、と一歩後ろに下がる。まさかまさか。
「こんな突拍子もない研究に協力してくれる艦があるんですか?」
「姪が集電艦乗りでね。〈雷神の娘〉号を知っているかい?」
「〈雷神の娘〉号? まさかジェーン艦長の!」
 そうだよ、と事もなげにうなずかれて目が点になった。
 〈雷神の娘〉号。おそらくこの国で一番有名な集電艦だ。艦長がものすごい美女、しかも感電事故で半身不随になった前艦長である父の電動義手を動かすため集電艦を継いだという美談もあいまって、〈雷神の娘〉号を知らない人などこの国で皆無といっていい。
「え、冗談にもほどがありますよ博士」
「彼女はジェーン・ライト、僕と同じファミリーネームだろう。それにこの赤毛とブルーグリーンの眼を見たまえ」
 まさか本当にこの変人博士があのジェーン艦長の伯父だというのか。そう言われればなんとなく似て見えなくもないけれど!
「本当に? 本当なんですか? 懺悔するなら今ですよ」
「ま、隣に並べて見てみればわかるはずだ。父親より似ていると言われるくらいだから」
 そうだろうか。この博士、そこそこ顔立ちは整っているものの口元と頭の中身が深海魚そっくりなものだからちょっと信じがたいのだが……。
「次の集電に乗せてもらえるよう話をつけておく。セントエルモの火の調査に付き合ってくれ」
「もしかして防護服や飛行帽も貸してもらえるんですか? あの黒い特殊素材の。ゴーグルやブーツやグローブも」
「もちろん。乗員の古着を貸してもらえるよう頼んでおく」
 なんてことだ。初めて乗る艦がずっと憧れだった〈雷神の娘〉号だとか乗組員のお古を着られるとか、もう雷に黒焦げにされたって文句は言わない!
「……助手をやめないならこれから何度でも乗れるはずなんだが」
 ぼそっと耳打ちされた言葉に「うっ」と声が漏れた。
「乗った後できっちり考えますからね。辞めるか辞めないかは」
「ま、そんな嬉しいならサインでもなんでも貰っていきたまえ。ただしキスマークだけははだめだぞ」
「そ、そんなキキキキスマークとか! おそれおおい!」
「あの子は雷神に溺愛されているからな。そんなことをしようものなら帰り道に落雷で黒焦げになること請け合いだ」
 でしょうね、とうなずいてからベンジャミンは首をかしげた。いま博士が珍しく迷信めいたことを言わなかったか。こころなしか博士が「深海魚」ではなく「ジェーン艦長の伯父」に見えるような。気のせいだろうか?
「そうとなったら準備を急ごう。実験方法を決め、記録用紙を作らなくては。君は引き続き深海魚の光の観測を行い、嵐の予報に耳をそばだててくれたまえ」
「はい!」
 元気よく答えて振り返ってみれば水槽の中、ランタン球魚が人間たちの修羅場などまったく見えていない様子でのったりと口をぱくつかせている。すっかり忘れていた虚しさがどっと胸に押し寄せてきて、やっぱりなんか上手く嵌められたなとベンジャミンは肩を落とした。

     *****

「左尾翼損傷の可能性、第二集電旗切り離し! 雲の上へ出る!」
 どぅん、と翼竜に体当たりを喰らわされて艦が吹っ飛ぶ。その拍子に雷雲を突き抜けたのかジェーンの鋭い声がはっきり響いて、切り離された集電旗が翼竜ともつれあいながら下方へ遠ざかった。
 尾翼が折れているかもしれないのにジェーン艦長に迷いはない。重い雲を突っ切って雲海の上へ出ると、急に陽がさんさんと差して、雷から艦を守る鋼鉄のところどころにある窓から艦の内部を照らした。さっきまでの阿鼻叫喚はなんだったのかと思うほど揺れはなく音もなく、びっくりするほど混じりけのない真っ白な光が操縦室のジェーン艦長を後光のように包んでいて。ああ、〈雷神の娘〉の名は伊達ではない。ここは人の世界ではない――
「ああ、これはすごいヒビだ。機体もかなりへこんでいる」
 急な博士の声に少しむっとして振り向き驚いた。分厚い強化ガラスには蜘蛛の巣状の酷いヒビが入り、翼竜の体当たりをもろに受けた機体がぼっこりと機内側へせりだしている。もう少し機体が脆弱だったら、そのすぐ傍にいた博士は。
「いやはや、セントエルモの火とコンタクトをとるつもりが翼竜を呼び寄せてしまうとは。次は翼竜の鱗光でもデータを取ってみるか」
「冗談じゃない! 翼竜がわらわら寄ってきたらどうするんですか!」
 思わず叫ぶと乗務員たちが爆笑した。みっともなく叫び続けたのを思い出してベンジャミンは赤くなる。漏らしていないよな。大丈夫だ、うん。
「初飛行でここまで慣れるなんて大物だと思ってたけれど、ライト博士を頭ごなしに怒鳴れるなんて。博士が暴走したら次も止めてちょうだいね。頼りにしてるわ」
 ジェーン艦長もくすくす笑っている。頼りに、してる? ベンジャミンはだらしなく緩みかけた頬に必死に力を入れて顔をそむけ、青すぎる空に目を細めた。
「機体損傷確認します。新人君、君も来るか?」
 ぎょっとして振り向けば、さっき二つ目のセントエルモの火を教えてくれた若い乗組員がにやにやしながら額にかけてあったゴーグルを目元に引き下げたところだ。
「サイドドアを開いて機体を目視で確認する。機体確認は僕が行うから、君は後ろにいてくれるだけでいい。来るなら酸素マスクとゴーグルをつけてくれ」
「滅多にない機会だ。行っておいで」
 酸素マスクと聞いて怖じ気たけれど、博士の笑顔を見るとなんだか引き下がるのが悔しくなって、ベンジャミンはぐいとゴーグルを引き下げ酸素マスクをひっつかんだ。
 操縦室のドアをあけ、外へ吸い出されないよう腰にフックをつけてから、乗組員が胴体部分にあるサイドドアを開け放つ。あんなに静かに見えたのに暴風が鼓膜を破らんばかりに吹き付けて、空高く吹き飛ばされそうになったのを腰のロープががちんと押さえつける。乗務員が命知らずにも開け放ったサイドドアから半ば身を乗り出すようにして機体の確認を始めた。
 目の前には青、青、青ばかり。おそるおそる下を見てベンジャミンは息を呑んだ。
 雲の上はこんなことになっていたのか。万年雪を抱く高山が無数に連なっているかのようなもくもくした雲、その合間を流れる川のような筋雲。薄く広く広がる雲は海にも見える。はぐれ雲は巨大な鳥が舞うかのよう。雲の深くで稲光が閃くさまはさながら波打ち際で夜光虫がきらめくかのようだった。
 たしかにこれは。
 何かが棲んでいるかもしれない。
「気に入ったかい? なんなら外に身を乗り出してみる?」
 危険な仕事を終えた乗組員の笑顔にベンジャミンは慌ててかぶりを振って、サイドドアを閉ざすのを手伝った。
「報告します。機体左側の胴体部分に大規模な陥没痕あり、貫通孔なし。尾翼および左翼には異常なし。運航に支障ありません」
「了解。第二集電旗への落雷数、十八。ライデン瓶容量報告、現在一号機九十パーセント、二号機九十五パーセント、……二○号機九十パーセント。エンジンおよび計器に異常なし。機体軽度損傷、運航に支障なし。これより船渠へ戻ります」
 雲の海に集電艦が着水する。ここが海面だとしたら、地上は深い深い海の底。
「答え、今聞かせてもらってもいいんだよ」
「何のですか?」
 しらばっくれてみせると博士は楽しげにからから笑った。答えはもう決まっている――わかっているよと、そう言いたげに。
 窓の向こうを雷光が駆ける、ジェーン艦長の赤毛が躍る。颶風の激しい揺れのなかベンジャミンは歯を食いしばり、嵐を翔ける艦の姿を一心に見つめた。

Fin.


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