雷鳥が高く啼いた。雷雲が呼んでいる。
海や空を旅する艦の羅針盤に相当する不思議な鳥を肩にとまらせ、集電艦〈雷神の娘〉号の美しき女艦長は皮手袋に包まれた細い腕で舵輪を握ると、その華奢な身体のどこから出すのかと思うほど強い声で「出航!」と叫んだ。
船渠の外は文字通りの嵐だ。教会の尖塔の先にひっかかるほど雲は低く垂れこめ流れ渦巻いて、豪雨と霧とで視界も劣悪、こんな日に空を飛ぶなど狂気の沙汰。それでも女艦長に迷いはない。ためらいもなくエンジンに灯をいれプロペラを回して離陸した。
風向きに逆らい飛ぶ艦はさながら巨人に掴まれ激しく振り回されているかのよう、舵輪もきっと重かろう。けれど女艦長はたじろぎもせず、すさまじい勢いで飛ばされてくる屋根瓦やらブリキのごみ箱やらを避けながら、雷鳥の導きのもとぐんぐん高度をあげてゆく。
「総員確認! 点呼および装備点検!」
「サミュエル! 防護服、飛行帽、グローブ、ブーツ装着済みです!」
「ジョセフ! 同じく防護服、飛行帽、グローブ、ブーツ装着済みです!」
「トーマス! 同じく防護服、飛行帽、グローブ、ブーツ装着済み。およびエンジンのアース確認済みです!」
ボア入りの飛空帽は防寒はもちろんだが、激しく揺れる艦で転倒したとき頭部を守るもの。そこに装着されたゴーグルはなにか問題が起こった際、艦外を目視で確認する際に必要なものだ。そして防護服とごついグローブ、しっかりしたゴム底のブーツは感電を防ぐためのもの。
「艦長ジェーン。防護服、飛行帽、グローブ、ブーツ装着済み。計器各種のアース確認済み。雷鳥の機嫌も上々。ガスマスク点検!」
「各人座席横に確認、酸素量十分です!」
雷発生時には有毒の気体である三酸素が発生する。普通はマスクなしでも十分耐えられるが、雷の多発地帯では人体に害のある濃度になる。酸素濃度の薄い上空に行く可能性もないではない。感電防止のため金属部の多いガスマスクはできるだけ使いたくないが、いざという時のための装備品だ。
「これより雷雲に入る。ライデン瓶準備!」
きょ、と雷鳥が南西上空を見つめる。ジェーンは操縦席に自分の身体がしっかり固定されているのを確認し、雷鳥の見つめる真っ黒な雲の渦の中へと舵をきった。
雷鳥は雷を餌とする鳥だ。主人の艦で向かえる距離で光る雷を予知し、そこへできうる限り安全な経路で主人を連れてゆく。満足すれば次は己のねぐら、すなわち船渠を一目散に目指す。いかなる悪天候でも雷鳥は迷わない。集電艦の羅針盤といわれる所以だ。
視界が暗くなり、紫の閃光が操舵席の雲母ガラスを駆け抜けて、今までとは比べものにならぬ激しい揺れが艦を襲った。こらえきれず転倒した最年少飛行士トーマスが艦の中でごろごろ転がっている。雷鳥も久しぶりのごちそうが目の前を次々駆け抜けるのに興奮し、銀と濃紺の羽を散らして艦の中を飛び回った。
「こりゃあ威勢のいい雷雲だ。副操舵席に入りますか」
「まだいいわ。集雷旗を出すわよ」
「お嬢さんは相変わらず思いきりがいい。でも忘れないで」
「わかってる。どんなに男勝りでも女は男より電気に弱い」
「お嬢さんに死なれたら僕はどうしていいか」
「あなたも思い出して、私を口説いたって知れたら父に何されるかわかったもんじゃないわ。あなた私の父より年上なのよ?」
ロマンスグレーの髭を揺らしてサミュエルは笑うと、艦の双翼の中に設置された二十基のライデン瓶に目を走らせた。
「艦長、ライデン瓶準備完了。いつでも集雷旗展開できます」
なんとかトーマスは体勢を立て直してくれたようだ。もう一人のジョセフと共に翼の先端部で集雷旗のワイヤーレバーを手にしている。
「第一集雷旗展開! 集電開始!」
翼の上で一対の白い集雷旗が広がった、瞬間すさまじい衝撃が艦を襲った。雷が次々収電旗に落ちる。雷鳥が喜び勇んで集雷旗とライデン瓶を繋ぐワイヤにとまり電気をついばみ始めた。ちりりと空気の質が変わり、サミュエルの髭が電気を帯びて広がった。三酸素独特の匂い、こっぴどく焦がしたバターのような匂いが鼻の奥に突き刺さる。
集電艦は雷雲で発生する先駆放電を集電旗で受け止めライデン瓶に溜める。そして地上から先駆放電を迎えるように迸る線条を避けるため一所にとどまらず高速で飛び続けるのだ。先駆放電は多く線条は少ない、空中でかち合うことはあまりないが、かちあったとき迸る主雷撃をもろに浴びればこの艦はひとたまりもない。主雷撃は石の城でさえ溶かし、砕き、燃え上がらせる雷神の槍。直撃すればここにいる四人など感電どころか骨の髄まで炭と化す。つまり集電艦の艦長の仕事は主雷撃を避けながら先駆放電を集められるよう進路をとることといっていい。
「第一集雷旗、左翼側より発火。切り捨てます!」
雷鳴の正体は衝撃波だ。雷のエネルギーで一気に高温になった空気が一気に膨張する、その力が音速を超えたとき発生する衝撃波。先駆放電から直接受ける叩きつけるような力と雷鳴の衝撃波、それに伴うすさまじい乱気流で艦は上下左右に激しく揺れている。舌を噛まぬよう押し殺したジョセフの声と共にバシュッと集雷旗が切り離された。雷に打たれ燃え上がった集雷旗が一気に後方へ遠ざかる。
「ワイヤより放電中。待機します」
「ライデン瓶容量報告、現在一号機五十パーセント、二号機四十五パーセント、……二○号機十パーセント。エンジンおよび計器に異常なし、ワイヤ放電完了しました。機体帯電中、金属部へ厳重注意」
サミュエルの確認にうなずき、ジェーンは雷雲の中で舵をきった。
「第二集雷旗展開!」
集電艦で最も事故が多いのがこの瞬間。艦は一度目の集電の際に帯電し、感電事故や静電気の火花による火災が起きやすい状態になっている。
きょりゅる、と雷鳥が嬉しげに鳴いた。大きな雷雲を見つけたらしい。雷鳥の視線の先へ舵をきった瞬間、野生の雷鳥の大群が黒い雲と雨粒にけぶった視界を横切るのが見えた。危機感に全身が総毛立つ。
「……環状雷!」
ジェーンの悲鳴に両翼にいる二人もぎょっとしたのだろう、帯電していたワイヤーがこすれあい火花が散った。集電前の集雷旗がぶすぶす煙をあげはじめる。
環状雷、その名の通り環状に発生する雷多発地帯。滅多に現れるものではない集電艦殺しの光の檻。野生の雷鳥はこの環の穴の部分で雷を待つのだ。雷鳥にとってはこんな安全に効率よく雷を食べられる場所はない、〈雷神の娘〉号の雷鳥も喜び勇んで主人を連れてきたのだろう。だが雷鳥よりはるかに巨大かつ金属製の艦にとってはこれほど危ない場所もない。
ジェーンたちが中に入った衝撃がきっかけになったのだろう、先駆放電が次々と迸り光の檻のように集電艦を取り囲んだ。バターを焦がした匂いが強くなる。鼻が痛い。目も痛い。環状雷の内部は空気が薄青く見えるほど高濃度の三酸素に満ちている。
「ただちに第二集雷旗切断せよ! ガスマスク着用、感電注意! 環状雷より離脱する!」
この檻のような先駆放電に呼応する線条が一陣でもあったら。今に主雷撃が墜ちる。そして下手に環状雷を抜けようとすれば集電艦の金属が線条を呼び寄せ主雷撃を起こしてしまう。となれば直撃は免れない……。
サミュエルが副操縦室に入る暇もない。舵で両手がふさがっているジェーンはガスマスクもつけず天空へ、最大出力で真上へ飛んだ。〈雷神の娘〉の翼が静電気と三酸素に満ちた空気を裂く。背後でばちん、ばぢんと静電気が走る音。乗組員たちはなんとか感電せず火も出さずにガスマスクをつけたようだ。
――間に合え。
ジェーンが息を止めていられる時間は四○秒。窒息するか三酸素中毒でジェーンが死ねば、それは副操舵室にサミュエルに座ってもらわなかったジェーンの責任だ。三酸素中毒など縁のない雷鳥が不満の声を上げる。下方で激しい光があがり、爆風に近い猛烈な雷鳴が起こった。雷神が光の槍を大地へ投げつける。
――舵が!
一気にずどんと舵がきかなくなる。爆風が〈雷神の娘〉号を雷雲の上方へ押し上げた。
「お嬢さん!」
真っ青な空が眼前いっぱいに広がる。ガスマスクをかぶったままのサミュエルが副操舵室に座ったのをいいことにジェーンはぐったりと椅子にくずおれた。激しい咳が喉を焼く。視界が回って気分が悪い。急性三酸素中毒だ。
「舵は……?」
「なんとか無事です。エンジン快調、雷鳥は不機嫌みたいですね。艦長こそ大丈夫ですか」
「少し休ませて、操舵をお願い。すぐ良くなるわ」
酸素の少ない高度だ。ジェーンはガスマスクを口にあてがい胸いっぱいに酸素を吸った。
「よくあの環状雷を離脱できましたね。本当にあなたは運がいい」
「私は雷神様に愛されてるから。サミュエル、あなた感電なんかで死んじゃだめよ。あの世で雷神様に根ほり穴掘り私のこと聞かれるわよ」
ガスマスク越しの冗談にサミュエルがほっと緊張を解いたのがわかった。
「集電率は少ないけど戻りましょう。雷鳥」
野生の仲間と遊びたかったのだろう。雷鳥はむすっとしていたけれど、やがて船渠の方へ顔を向けた。
*
集電を終えて艦を下りるやいなや女艦長は機体点検を乗組員に任せ、電気を移した小ぶりのライデン瓶を抱えて船渠の隣にある家へと駆けていく。
「無事戻ったか」
向かった先は寝たきりの父のもとだ。まだライデン瓶の予備はあるはずなのに、いつもこうして不自由な身体で待っている。うっかりすれば心臓が止まってしまうのに。
「今日もたくさん集めてきたわ。ね、雷鳥」
満足げにさえずる雷鳥に微笑みかけ、ジェーンは父の腰にとりつけられたライデン瓶を新しいものと交換した。最近は錬金術師が金属や酸を使って電気を生み出そうとしているようだが、起電力が弱いし、どうもやっぱり信用できない。カキカキカキ、と回る真鍮の歯車。父が麻痺した右半身を動かそうとするたび軽く蒸気があがって動きを助ける。
〈雷神の娘〉号の艦長だったジェーンの父は集電中の事故で右半身が麻痺してしまった。命を落としてもおかしくない事故だった、まだ生きているのは雷鳥の主だったからだ。雷鳥が父の右腕に宿った雷をついばんだために生き永らえた。
「ジェーン、三酸素の匂いがするぞ。何かあったな?」
「ちょっとね」
心配をかけたくなくてはぐらかしたけれど、父にはわかってしまうようだ。ジェーンが黙っていても後でサミュエルが話してしまうだろうけれど。
「……これで最後にしろ、女が集電艦に乗るな」
「それでもお父さんは私を待ってる。私は雷鳥の主、資格があるわ」
カキカキカキ、と父の右腕で歯車が回る。父に微笑みかけ、ジェーンは重い舵を握り続けたために震える腕を叱咤しながら羽ペンにインクをつけた。そうして無事に集電が済んだ旨と代金を記した手紙を電気が必要な人たちへ書き始める――電球の発明者へ、用途不明の電動機械を創る錬金術師へ、雷鳥の愛好家へ、父のように歯車と油圧ジャッキの義手義足を身に着けた人へ。
〈雷神の娘〉乗組員の命がけの仕事が誰かの明日を繋ぐことを祈りながら。
Fin.
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