第一部‐第二部間章 1「抱きしめられた胸の奥」 上

  純白のムールよ
  彼らを風神のもとへ導いておくれ
  やさしい風の女神のもとへ
  心の中へ還る人よ
  あなたの世界が安らかでありますように

 ウラルは弔いの歌を口ずさみながら歩いた。あまりに凄惨な、あまりに巨大な墓地の中を、歌いながら、すべての死者を弔いながら自分の足で通り抜ける。
 人はみんなその心に自分の「世界」を持っていると信じられていた。実際にある場所の場合もあるし、おとぎ話のような世界の場合もある。えんえん続く花畑、果てしない闇、毎日通った酒場。そのひとりひとり違う心の世界に、死後、風の女神に導かれ還ってゆく。
 ――ジンの世界はどんなところだろう。サイフォスはマームさんとの思い出の場所だろうな。リゼはきっと、ムールに乗って空の上に。
 アラーハに守られて長いこと歩き、そしてやっと、ウラルが四日間も眠り続けた木のうろに帰り着いた。
 体のだるさを感じて腰を下ろしたとたん、ウラルは猛烈な吐き気に見舞われた。うずくまって嘔吐する。アラーハがあわてて背をさすってくれたが吐き気はとどまることを知らず、にごった胃液を吐き続けた。
 吐きに吐いてやっとおさまると、アラーハが黙ったまま木のうろの中に毛皮と毛布を敷いてくれた。
「眠れ、ないよ、私……」
「それでも横になったほうがいい」
 ウラルはふらふらとうろの中に入り、横たわった。アラーハが広い背中で穴をふさぐ。
「火をたいてやりたいんだが、今日はやめたほうがいいだろう。光や煙が見つかるとまずい。寒いが、がまんしてくれ」
「アラーハは、入らないの?」
 うろの狭い空間がアラーハの背中からの体温とウラルの息とで少しずつ暖まってゆく。はじめ白かった息は間もなく透明になった。けれど、外にいるアラーハはまともに冷たい風の中にいる。
「俺はいい。狭いだろう」
 狭いといっても、うろはクマか何かが冬眠に使っていたものらしく、それなりの広さがあった。ウラルが膝を曲げずに横たわれる広さだ。アラーハがいくら大男といっても、さすがにクマほどの大きさはない。座りこめば二人くらい十分入れる。
 背中越しにアラーハが笑う気配がした。ウラルの胸のうちを見透かしたようだった。
「こう見えて狭い場所が苦手なんだ。獣の姿に戻れないくらい狭い場所にいるとな、息が詰まる」
 意外な弱点にウラルは目をしばたかせた。
「完全無欠と思わんでくれよ、俺を。さいわい自前の毛皮があるから寒さには強い。気にせんでくれ」
 笑い混じりの声。ウラルはそろそろと手を伸ばしてその背中に触れた。
「どうした、また気分が悪いか?」
「ううん、ちがうの。そのままでいて」
 ウラルはそっとアラーハの背中に身を寄せた。獣脂と、その毛皮にしみついた死のにおい。はじめは冷たい風の中に身をさらしているアラーハを少しでも暖めたいと思っただけだ。背中にもたれかかるだけのつもりだった。けれど。
 気がつくとアラーハの背を力いっぱい抱きしめていた。毛皮の死臭。ジンの死臭。サイフォスの、リゼの……。泣くこともできず、ただただその背にすがっていた。
「熱がでてきたみたいだな」
 アラーハの手がそろそろ伸びてきて闇をかく。その手をとると、握り返してくれた。ひんやりした指の感触。
「俺の体が冷たく感じるだろう。横になるんだ」
 離れろと遠まわしに言われ、ウラルは悲しくなって引きさがった。やっぱり嫌だったろうか……。
 と、冷たい一陣の風がウラルの頬を打つ。月の光がうろの中にさしたが、一瞬のことで、すぐにまた真っ暗になった。
「アラーハ」
 闇に慣れた目にアラーハの微笑が映った。
「閉所恐怖症、なんでしょう?」
「苦しくなったら出る。でも、ああ、俺が入ったらお前が横になれんな。どうするか」
 ウラルはほほえんでアラーハに身を寄せる。
「肩、かして」
 といっても、アラーハは大柄すぎた。肩に頭が届かず二の腕のあたりにもたれかかる格好になる。こんな狭いところに大男とふたりきり、それでも不安には感じなかった。アラーハが人ではなく、獣だと知っているからだろうか。それとも、アラーハが大きく力強く、小さな娘が見上げる「父」のようだからだろうか。
 また死臭が鼻をついてきた。不安と悲しみの波に襲われ、アラーハにしがみつくと、今度はぐっと大きな腕で抱き返してくれる。その胸にすがり、ウラルは長いこと震えていた。涙も流さずひたすら震えて。
 閉所恐怖症のアラーハは狭いうろのなかで苦しかったろう。それでも結局朝まで外へ出ず、一睡もせずにウラルを抱きしめてくれていた。

     *

「一刻も早くここを離れよう。ゆっくり休めるところへ行かんと。火も使えんしな」
 ウラルは依然微熱を出していたし、寝不足でふらふらだったが、うなずいた。これほど戦場に近い場所で不用意に火を使えばベンベル軍の敗残兵狩りに巻きこまれるおそれが十分にある。襲われる前にアラーハが気づいて逃がしてくれるだろうが、やはり最初から危ない場所を離れておくに越したことはなかった。
「どこへ行くの?」
「あてはないが、ひとまず森をつっきって南下する。さ、荷物を載せてくれ。鞍がないからちょいと面倒だろうが、まぁ走るわけでもなし、ずり落ちんかったらなんでもいいさ」
 アラーハは獣の姿になっている。ウラルは言われるまま荷物、毛布や鍋やらをロープでアラーハの背に固定し、ウラル自身もその背に乗せてもらった。
 とはいえ、体高のありすぎるアラーハに乗るのは難行事だった。なにせウラルがめいいっぱい手を伸ばした高さがアラーハの背だ。あぶみも鞍もないし、飛び乗ることもできない。はじめは地面に伏せてもらって乗ったのだが、アラーハが立ち上がったとたん、たちまち荷崩れを起こしてしまう。結局、そこから再び荷物を積みなおし、木に登って、そこからそろりそろりと乗せてもらった。
「イッペルスに乗せてもらうなんて。しかもこんな荷馬みたいに使っていいの? イッペルスって絶対に家畜にならない生き物なんでしょう?」
「俺も誇り高きイッペルスの端くれだ、さすがにずっとは嫌だな。でも俺はイッペルスであると同時に人間のアラーハだよ。熱を出している女の子にこんな荷物をかつがせて歩かせられるか。たてがみをしっかり、にぎっているんだぞ」
 触れているところからアラーハのぬくもりがじかに伝わってきた。手で触れた首よりもじんわり温かく。アラーハが一歩を踏み出すと、しなる背骨の動きが感じられた。
 冬の森は静かだった。ただアラーハの足音と、時折ツノにからむツル草を打ち払う音がするだけだ。それでもアラーハには何かの音が聞こえているらしく、時々ぴくりと耳をそばだてる。どうしたのか尋ねてみると、リスが木を駆けのぼる音や遠くのせせらぎの音、鳥の声、さまざまな答えがそのつど返ってきた。
「肉を食う獣たちは戦場へ行ったみたいだ。敗残兵もこちらへは来ていないらしい。ここは今、平和で静かだ。でも、来年はひどいことになるだろうな」
「どうして?」
「肉をたっぷり食った獣は、翌年たくさんの子どもに恵まれる。その増えすぎた獣が肉を求めて別の獣を襲う。森の獣は激減し、増えた肉食獣も飢えて死んでいく……。森の掟や守護者の普段の役割はそんなことを防ぎ、森の秩序を守るためにあるんだがな。アシ、この森の守護者は今ごろ駆けずり回ってるだろうよ」
「知り合い?」
「何度か会ったことがある。雌の銀ギツネだ。狩人に協力を頼んで、普段は禁止している幼獣狩りをしてもらうか何かで対処するしかなかろうが、アシも狐だからな。同族殺し、親戚殺しはつらかろう。それに、この戦時にそれだけの狩人が集まるかどうか」
 アラーハの目は切なげだ。この森とアラーハのヒュグル森を重ねているのだろう。この森も、放り出してきた自分の森も心配でたまらないに違いない。
「なにはともあれ、このあたりなら敗残兵や獣に襲われる心配はなさそうだな。空も薄曇りだ。明るいうちなら火をたいても目立たんだろう。ちょっとばかり時間は早いが、今日野営できる場所を探すとするか」
 アラーハはふぅっと大きく息をつき、注意深くあたりを見渡しながら歩き出した。
 しばらく探していると、岩がごろごろしている場所に出た。表面の平らな岩が森を横切るように太く長く伸びている。ところどころに砂地や泥地があって、そこからひょろりひょろりと若い木が顔を出していた。
「昔は川だったんだな、ここは。大雨か何かで流れが変わったんだろう。適当な洞窟があるかもしれん。ウラル、降りてもらえるか? ちょっと見てこよう」
 ウラルが降りるとアラーハは地を蹴り、ぱっと大岩の上へ跳ね上がる。とたんにまだアラーハの背中に乗っていた手斧やら毛皮やらが荷崩れを起こし、落っこちた鍋が岩に当たってけたたましい音を立てた。
「すまん。すぐに戻ってくる」
 うるさそうに耳を動かしながらアラーハは詫び、ぱっと駆けていった。さすが四肢はシカ、巨躯に似合わないほど身が軽い。跳躍してウラルの身長の倍もありそうな岩壁に一瞬で駆け上がり、長い首をめぐらせ枝角をかかげてあたりを見回す。何かを見つけたのか、さっと駆け下っていった。姿は見えなくなったが、蹄の音が高く聞こえる。遠ざかった蹄音は、消えきらぬうちに足踏みの音に変わり、すぐさまこちらへ向かって駆けてくる音に変わった。
「見つかった?」
「ああ、前の滝つぼの跡があった。いい具合に滝裏の洞窟が残っていたよ。雨が降ったらここも水が流れるかもしれんが、滝裏なら濡れる心配もないだろう」
 アラーハは人の姿に戻り、散らばっていた荷物を集めて背負った。着替えの入った皮袋くらいは自分で持とうとしたが、アラーハはいいからと一言、すべての荷物を一人で持ってしまった。
「足を滑らせるなよ。荷物のことは気にするな」
 アラーハの先導でゆっくりと洞窟まで降りていく。じとじとしているかと思ったが案外そうでもなく、岩はからりと乾いていた。
「お、ウラル。面白いものを見つけたぞ」
 声にアラーハを振り返ると、岩と岩の間に手を突っこんでいる。蛇でも出てくるのかな、とびくびくしていたウラルを尻目にアラーハは何かをつかみ出すと、ぽんと自分の口へ入れた。
「お前も食うといい。干しアンズだ」
 手のひらに乗せられたそれは、形こそ不恰好だが確かに干しアンズ。きょとんとしているウラルにアラーハは笑い、次は干しブドウをウラルの手に置いた。続いてグミの実にクコの実、殻つきのクルミまで。
「どうしてこんなところに。人がいるんじゃないの?」
「いや、こんなところまで果物を干しに来る酔狂な人間はいないさ。のぞいてごらん。岩ネズミの食料庫だ」
 ウラルは言われるままその隙間をのぞき、あっと息をのんだ。どこかの、今のぞいている隙間とは別のところから光が差しているらしく、隙間の中は明るい。そこに干し草らしいものが敷きつめられ、その草のところどころに黄色や紫や臙脂色の干し果物が転がっていた。
「岩ネズミはこうして冬の食料を集めて干しておく習性があるんだ。風通しのいい場所を選んでな。助かった、どうもここは雨が降っても水没の心配がないらしい」
 アラーハは小さな食料庫から人間の食べられるものを選んで拾いあげ、ウラルの手の上にぽんぽん置いていく。
「こんなに取っちゃってネズミが怒らない?」
「なに、ほかにいくつも食料庫を持ってるよ、連中は。こういうのを何十箇所も作るんだ」
 ウラルの両手に一杯分の干し果物を失敬し、岩を下って洞窟に入る。洞窟はアラーハが息苦しくならない十分な広さがあり、よく乾いている。アラーハは手早く火をおこし、ウラルに火の番を頼むとどこかへ走り去っていった。帰ってきたときには両手に薪だのキノコだの熱さましの薬草だのを山ほど抱えており、それを使って温かいスープを作ってくれた。
「意外。アラーハ、料理上手なのね」
 熱さましの薬草入りキノコスープ。味つけこそ大雑把でいかにも男料理な風情だが、それでもまさかアラーハに料理が作れるとは思わなかった。アラーハは獣、食事は草で十分なはずだ。その上、人の姿をしているときも食事どきにはほぼ必ず姿をくらましていた。
「猟師に習ったんだ」
「習う必要もなさそうなのに」
 アラーハは苦笑する。その目になぜか、ちらりと痛みをこらえるようなものがまじっていた。
「そうなんだがな。ちょいと草を食んでくる。何かあったら呼んでくれ」
 アラーハは獣の姿になると斜面を駆けのぼり、枯れ草を食み始めた。あの巨体を維持しているのだ、さすがにスープ程度では足りなかったらしい。
 薬草スープの効果がさっそく現れたらしく、体のけだるさはましになっている。片付けをしようとウラルは腰を上げ、灰をかけて火を消した。暗くなると火は遠くからでも目立つようになるから念のため消しておこうとアラーハに言われたのだ。火の中に入れて暖めておいた石を洞窟の中に運んで空気を暖める。
「ウラル!」
 怒鳴られて岩の上を見ると、アラーハは枝角をふりあげ空を仰いでいた。
「火は消したな。洞窟へ入れ、ムールかロクが来る」
「ムールだったら味方じゃないの?」
「ベンベル軍の中に御せる者が出てきてもおかしくない。警戒した方がいいだろう。火を消しても煙のにおいで感づかれるかもしれんがな。風上を通ってくれることを祈るか」
 洞窟に入り空を警戒することしばし、十数羽のムールが隊列を組み騎手を乗せて空を横切っていった。心配に反してリーグ国旗をかかげている。リーグ軍の斥候だ。
「……遅い」
 アラーハが空をにらみ、低くうめいた。
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