第一部‐第二部間章 1「抱きしめられた胸の奥」 下

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 さすがに昨晩の寝不足のおかげで眠れたが、それでも眠りは浅く、夜明け前に目が覚めてしまった。洞窟の外へ出ると、アラーハが獣の姿で立ちつくしているのが目に入った。足音を聞きつけたのだろう。下げていた頭を上げてウラルを見つめ、アラーハはすうっと人の姿に変わった。
「まだ夜明けまでだいぶ間があるぞ。もう少し眠っておけ。寒いだろう」
 不寝番をしてくれていたのだろうか。昨日も寝ていないことだし、これではアラーハの体が持たない。
「アラーハこそ眠って。私、どうせもう眠れないから。ずっと寝てないんでしょう?」
「心配しなくていい」
「でも」
 アラーハはほほえんで歩み寄ってくると、ウラルの頭にぽんと大きな手を置いた。
「大丈夫だ。立ったままだったからわからんかったか。今も居眠りしていたんだ。起きているなら毛布をかぶっているんだぞ」
 そんな中途半端な眠り方で本当に大丈夫なのだろうか。釈然としないままウラルはすごすご洞窟に戻り、毛布を一枚自分の肩にかけ、もう一枚をアラーハに持っていった。
「その顔は納得していないな」
「わかる?」
「わかるとも。だが、俺は本当に大丈夫なんだ。もともとそういう体でな」
 アラーハは苦笑し、岩のひとつに腰をおろした。ぽんとその脇をたたいてウラルに座るよう示す。ウラルは毛布を体に巻きつけてそこに座った。
「ひとつ、おとぎ話をしようか」
「おとぎ話?」
 アラーハはにやっとした。
「俺が先代の守護者に聞いた話だよ。
 むかしむかし、あるところにとても遊び好きなイッペルスの子どもがいた。友達のイッペルスや母親のみならず、動くものならなんでも遊び相手にしてしまうような子どもだ。こいつはちょこまか走り回っては、友達の耳をひっぱり、小さなツノで大人の雄をつついてちょっかいをかけ、あわれなウサギを追いかけ回し、あげくの果てには葉っぱに飛びつき危うく崖から落っこちかけるような子どもだった。
 おかげさまで母イッペルスは毎日はらはらだ。疲れきって眠るのを待つんだが、こいつは本当にやんちゃでな。どういうわけやら遊びたいあまり眠るのを忘れているらしい。一日二日起きっぱなしでも平気だった」
 ウラルは思わず笑みを漏らした。アラーハも笑っている。
「お母さんはたまったものじゃない?」
「そうなんだ。母親どころかみんながこいつに寝ている間もちょっかいをかけられてな、おかげで森中のイッペルスが寝不足になった。みんなすっかり不機嫌だ。会うイッペルスごとに文句を言われるもんだから、こいつはへそを曲げて家出をしちまった」
「あらら」
「そうして家出をしたところに、運悪く悪名高いオオカミの群れが通りかかったんだ」
 声が急に小さく低くなったものだからウラルは思わずびくっとした。怖いことにさっきまで笑っていたアラーハは無表情になっている。
「襲われちゃったの?」
「襲われるどころか。こいつはそのオオカミにもちょっかいを出しにいったんだよ。ぴょんぴょん跳ね回って遊ぼう遊ぼうと駆け寄っていった。だが、まさかオオカミの方も自分から駆け寄ってくるイッペルスがいるとは思ってもいなかったんだろう。しばらくぽかんとしていたんだ。そうこうするうち母親が追ってきて悲鳴をあげた」
「え、じゃあ母子ともども?」
 アラーハは苦笑したまま首を振る。それから、ウラルの反応に満足したようににやっとした。
「いいや、母親ってもんはとことん強い。母イッペルスは子どもを救おうと猛然とオオカミの群れへ駆け込み、蹄と歯で子どもを守って戦ったんだ。うるさい子どもがいなくなって、これさいわいと眠っていたイッペルスたちも母親の悲鳴に目を覚まして助けに駆けつけた。巨大なツノをかかげた雄の一団を見たオオカミどもはさすがに怖気づいたんだろう、すごすご帰っていったよ」
 ウラルはほっと胸をなでおろす。アラーハはまた笑顔に戻っていた。見かけによらずの役者だった。
「よかった。子ども、怒られたでしょう」
「それがな、逆に子どもは英雄さ。子どもが騒ぎを起こさなかったら、ぐっすり眠っていたイッペルスたちはオオカミの群れにそのまま襲われていたはずだ。その寝不足が子どものせいだってことを抜きにしても、ぎりぎりまで気づかんかったろうよ。
 みんなは子どもをたたえ、けれど母親だけはこてんぱんに子どもを叱った。子どもは懲りて、けれど同時に誇らしくなって森を守ることを誓い、立派な成獣になってからは少しの睡眠時間でいいことを生かして群れを守るようになったんだ。
 こいつの子孫はみんな同じように眠る時間がすごく短くてな、そのおかげでほかの獣に襲われることがぐっと減った。そして、やがて全てのイッペルスがそうして少しの睡眠時間でいいようになっていったんだとさ」
 ウラルは拍手しようとしたが、アラーハが手で制した。
「夜の音は遠くまで響く。気持ちだけで十分だ。なにはともあれ、イッペルスの端くれの俺も眠る時間は少しでいい。途切れ途切れの居眠りで十分なんだよ。もっとも、草食の動物はだいたい眠る時間が短い。馬や羊にもこんなやんちゃぼうずがいたのかは知らんが、肉食獣から身を守るためには必要なことなのさ」
「うまいのね。ほかにもいろんな話があるの?」
「ああ、たくさんある。気に入ったのならまた少しずつ話そうな」
 ウラルはうなずき、アラーハを見上げた。が、アラーハは目をそらしてしまう。さっきまで笑っていたのに、その目に少しだけ悲しげな色が揺れていた。ウラルが料理を褒めたとき、その目にちらついていたものと同じような。……何かある。
「お、フクロウだ」
 アラーハが急に声をあげた。
「呼んでみようか」
「フクロウの言葉がわかるの?」
「わかるのはせいぜい馬や牛までだな。耳を動かして意思を伝えるだろう。言葉が似てるんだ。さすがに鳥の言葉はわからん。これは猟師に教わったんだ」
 アラーハは両手を丸めて口にあてがうと、ほぅ、おぅ、とフクロウの鳴き声そっくりの音を出した。フクロウ笛だ。
 森の奥からフクロウの鳴き声が帰ってくる。アラーハが返す。フクロウが答える。
「近づいてきた」
 はじめかすかだった鳴き声がはっきり聞こえてくる。
 アラーハが無言で空を示した。まったく羽音を立てず、フクロウの影がすーっと横切ってゆく。アラーハがフクロウ笛で呼びかけたが、フクロウはもう見向きもしなかった。本物のフクロウではないとわかってしまったのだろう。かすかな笑みを浮かべたアラーハ、けれどその目はやはり悲しげで。
「アラーハ、どうかした?」
「何がだ?」
「何もないならいいんだけど」
 アラーハの顔に残っていた笑みがゆっくりと消えていった。ぽん、とウラルの頭の上に大きな手が乗せられる。
 ウラルはその目をもう一度のぞきこみ、それからそろそろとアラーハの手をとった。大きな手を両手で胸に抱え込み、抱きしめる。
 わかってしまった。
 フクロウ笛はいったい誰に向かって奏でられたのか。おとぎ話は、今までに一度や二度語られた程度のものではなかった。何度も何度も語り、声色や顔つきを考えられたもの。語った相手は一体誰だったのか。料理の必要がないアラーハがスープを作った理由は。食べさせてやった相手は。――幼いころのジン以外に、誰がいるというのだろう。
「これから二人で旅をするなら、しばらく父と娘ということにしないか。いちいち関係を説明するのも面倒だろう」
 かすれた声が悲しかった。思えば息子を失ったというのに、アラーハは今までずっと悲しげな様子を見せていなかった。不自然なほどに。
「実の娘と思って。今に限らず、ずっと」
 悲しみを目にたたえ口元に笑みをたたえて、アラーハはそっとウラルを引き寄せ胸に抱いた。
「私とジン、兄妹になるのね」
「俺は……俺は、夫婦になってほしかった」
 目頭がぐっと熱くなった。泣いてはいけない、ここで泣いたらアラーハはウラルの心配が先に立って悲しめなくなると思うのに、止まらなかった。押さえられなかった。アラーハの胸に顔をうずめる。アラーハも背を丸め、ウラルの肩に頭をもたれかけさせた。
「お前がいてくれて、よかった」
 ぎり、とウラルを抱く腕の力が強まった。
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