第一部 プロローグ 「泣かない子ども」

 壁にあいた穴から真っ赤な空が見える。空を赤く照らしているのは村の屋根や煙突からあがる炎だ。消す人もいない火はどんどん燃え広がり、小さな村は全部が炎にのみこまれてしまいそうになっている。
 静かだった。盗賊が暴れまわっているなどということが嘘のようだ。その盗賊が自国の兵士で、兵糧不足で盗賊のまねごとをやったのだといわれても、まったく実感がわいてこない。
 ウラルの腕の中、いや、立たせた膝と胸の間で抱いていた赤ん坊がむずがった。赤ん坊の母親の死に顔を思い出し、ウラルは身震いした。流れ矢に当たったのか斬られたのかは定かではなかったが、ウラルが逃げようと外へ出たときには倒れていて、血泡をふいていた。何がなんだかわからないまま泣きわめく赤ん坊を胸に抱き、ウラルは走りだしていた。逃げ場所を探して走りまわり、村はずれにある陶芸窯に入りこんでうずくまったのだった。
 ウラルは胸をはだけ、乳房を赤ん坊の口にあてがった。とにかく赤ん坊を泣きやませなくては。泣き声を聞きつけられたら赤ん坊ともども殺されてしまう。だがウラルには赤ん坊を育てた経験がなかった。乳が出るはずもなく、赤ん坊が泣きやむ気配はない。せめて離乳食を食べられるくらいの年頃になっていてくれればと臍をかんだが、たとえ乳離れしていたとしても何も食べるものもない。そこらの雑草をとってくるのさえはばかられた。
 ウラルは震える手で赤ん坊を抱きしめた。お願いだから、泣きやんで。願いに反して赤ん坊はいっそう高く泣き声をあげる。このまま赤ん坊が泣きやまなかったら略奪兵に見つかってしまうかもしれない。赤ん坊を抱く腕に力を込めた。泣き声はウラルの腕の中でくぐもり、小さくなった。しばらくそのままでいると、やっと赤ん坊は泣きやんだ。また泣き出すのが怖くて腕の力はゆるめなかった。眠ったらしい赤ん坊を抱いてウラルはぼんやりとしていた。
 窯の空気穴から見える空は、まだ赤い。
 窯の外で何か音がした。怖いと思っていたら風の音でも恐ろしく聞こえるのだ、とウラルは自分に言い聞かせた。それでもやっぱり気になって、耳をぴったりと壁につけ、外の様子をうかがった。
 足音だ。間違いない。人が来る。
 長靴の音。二人、いや三人だろうか。ガチャガチャと金属がこすれる音がする。武器を持っているのだろう。
「焼け残っているな」
 声がした。低い、落ちついた男の声だ。
 ノックの音がした。声の主が陶芸じいさんの家のドアをたたいているらしい。
「誰かいませんか!」
 はじめに聞こえた声とは別の若い男の声がする。呼びかけに返事は返らなかった。
「いないみたいだな。誰も」
 略奪兵ならノックなどするわけがない。生き残りがいるかどうかは確認するだろうが、それなら扉を押しやぶって中を物色すればいいはずだ。兵士でないなら何者なのだろうか。赤ん坊を抱いたままウラルは立ちあがり、薪を入れる穴から外をうかがった。陶芸じいさんの家の壁が見えるだけだ。誰も見えない。
「誰かいるかもしれない」
 三人目の声がした。声からして壮年だろう、低く太い声だ。びくりとウラルは肩を震わせた。
「おい、アラーハ! やめろよ」
 ドアの開く音がする。押しやぶったわけではない、鍵がかかっていなかったようだ。
「誰もいない。無事に逃げられたかな。って、おい、アラーハ!」
 聞き慣れない足音。アラーハという男は木靴でもはいているのだろうか、馬の蹄のような足音だ。まっすぐこちらへ向かってくる。
「行こう、フギン。アラーハの勘は信じたほうがいい」
 ウラルはぎゅっと赤ん坊を抱きしめ、立ちあがった。外へ通じる穴は三つ。入り口、煙だしの穴、薪を入れる穴。入り口以外の穴からウラルが出るのは難しそうだ。今、入り口から外へ出れば見つかってしまうかもしれない。三人分の足音はどんどん近づいてくる。
「陶芸好きのじいさんでも住んでいたのかな。立派な窯だ」
 若い男、フギンがつぶやいた。もう窯が丸見えということだろう。壁に耳をつけなくともはっきりその声が聞こえる。武器になるものは。窯の中に残された素焼きの皿や壷しかない。割れば鋭利な刃物になるだろうか。いや、割れる音がすれば相手に気づかれる。
 窯の入り口に影が落ちた。どうする。どうする!
 とっさに手に触れた花瓶を投げつけた。さっと槍をかまえた男に突進する。女と見てとってか若い男、フギンが慌てた様子で槍を放りだした。
 男らの隙間をすり抜けようとしたウラルの手をフギンがひっつかむ。ウラルは悲鳴をあげて身をよじった。蹴りつけた。噛みついた。しかしウラルの手をつかんだ男の力は尋常ではなく、どれだけ暴れてもゆるまない。
「おい、俺たちは味方だ! 助けにきたんだ!」
 手をつかんだ男が叫んだ。手にこもった力がどうしようもなく怖い。怖い怖い怖い怖い怖い。男の足を力いっぱい蹴りつけた瞬間、軸足が払われ、ウラルは赤ん坊を抱いたまま地面に叩きつけられた。それでも男の腕が離れない。
「落ち着けよ! お前を殺そうとしてるわけじゃない!」
「フギン、お前が落ちつけ。離してやれよ」
 落ち着き払った声にフギンの腕がゆるみ、ウラルの体からもすとんと力が抜けた。立ち上がろうとしたが、腰が抜けてしまったのか足に力が入らない。ウラルは震えながらその場の三人を見上げた。さっきのフギン、それから壮年の大男。それからフギンほど若くはなくアラーハよりは若い、黒マントの男。この三人のリーダー的な雰囲気があった。名前はわからない。
「お前」
 リーダー格の男がウラルの前にかがみこんだ。
「酷なことをすまない。……その赤ん坊は、あきらめろ」
 何を言われたかわからず、ウラルは男の目を見つめた。男の目に沈痛なものがある。
 まさか。やっと男の言葉の意味を理解してウラルは赤ん坊を見た。赤ん坊の体には力がなく、手はだらりとたれさがっている。ウラルは赤ん坊をゆすりあげた。首はすわっているはずだったが、その首がぐらりぐらりと頼りなく揺れる。
「うそ」
 息がない。ウラルが窯に逃げこんだときは、たしかに、たしかに生きて、泣いていたのに。息がない。殺してしまった。いつ、どうして――。
 男はウラルのがちがちにこわばった手をとると、ゆっくりと赤ん坊をもぎとった。男の腕に抱かれた赤ん坊の顔をウラルは座りこんだままのぞきこみ、震える指でそっと頬をなでた。この頬もすぐにかさついてひび割れてしまう。乳白色の肌が黒ずみ始めている――。
 ウラルは今にも泣き出しそうな、けれど泣きたくても泣けない、ぐしゃぐしゃに歪んだ顔をしていたのだと思う。目の前の男が悲しげに笑い、自分のマントをウラルの肩にかけた。
「お前が生きていてくれて、よかった」
 ウラルは男のぬくもりの移った真っ黒なマントをにぎりしめた。
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