第一部 第二章 2「風神画」 上

 林道を駆ける。馬術の達人であるフギンにしごかれたおかげで、ウラルもある程度は走ることができるようになった。アラーハは歩きのまま、速歩なら走ってついてくる。駆歩になるといつのまにかいなくなっていて、止まって待っているとすぐに追いついてくる。たいていは汗ひとつかかず、すこし顔が赤くなっている程度だ。人間離れした体力だった。
「そろそろ休もう。よさそうな場所がある」
 ジンが駆けながら振りかえり、呼びかけてきた。ぽっかりと開けた場所がある。人工の野営地のようだ。木が伐採され、火がたけるよう円形に石が積まれている。
 ウラルはフォルフェスの首を軽くたたき、下馬した。フギンから教えられたとおりに腹帯をゆるめ、手綱をおろして打ちこまれた杭のところまで連れていく。
 アラーハが森の中へ分け入っていくのが目の端に入った。どこへ行くのだろうと呼び止めようとしたところで、横にいたフォルフェスが盛大に鼻を鳴らした。
「ちょっと、フォル。鼻水かけないでよ」
 アラーハが消えたあたりを見たが、もう茂みが揺れるのさえ見えなかった。少し離れた場所でジンがこちらを見ている。
「すぐに火をおこすから、座って休んでくれ」
 ジンは鞍のサイドバックから手斧を出し、森の中にわけいった。何をするつもりだろうとウラルが様子を見ていると、すぐに枝が払われた倒木をかかえて森から出てきた。ウラルがじっと見ていることにジンは「なんだ」と笑いながら、石積みの中にそれを持ちこんで火をおこし、二人分の携帯食をバッグから出してあぶりはじめる。馬が鼻を鳴らした。
「アラーハは?」
「あいつの分は、いいんだ」
「どうして?」
 ぶるる、ぶるる、と何度も馬が鼻を鳴らす音がした。二頭ともがつながれたままウロウロと落ち着きなく動きまわっている。耳はひっきりなしにどこかを探るように動き、背中や尻や足の皮膚が、虫でもとまっているかのように細かくブルブルと震える。
「何かに怯えているらしい。オオカミか、クマかもしれない」
 ジンが緊迫した口調で低くつぶやく。火のそばに置いてあった鞍袋の中から弓矢を出し、弦を張った。
「ウラル。松明に火をつけろ」
 ウラルは荷物の中から松明を抜きとり、たき火に差しいれた。音をたてて松明が燃えはじめる。手が震えている。持った松明の火も、細かく震えていた。
「こいつの手綱を持っててくれ。いざとなったら離してくれてかまわない」
 渡されたグレンの手綱と松明をウラルはにぎりしめる。いざとなったら離せということは、襲われたらグレンを生贄にして逃げろ、ということなのだろう。グレンが頭絡をにぎるウラルの手にかみつく。松明の燃える音。馬が鼻を鳴らす音。そのどれでもない、ぼそぼそという低い音。
 いつでも矢を射はなせるかまえをみせながら、ジンが眉をひそめた。
「何か聞こえる」
 森の中から話し声がしていた。二人の男の声だ。一方の声には覚えがないが、もう一人はアラーハだ。ウラルとジンは顔を見あわせた。
「ウラル、大丈夫そうだ。グレンをつないでくれ」
 何を基準に大丈夫だと言っているのかわからなかったが、ウラルはうなずいてグレンを杭につないだ。
 ジンが松明を消す。木立の中、月明かりに二頭の獣が浮かびあがった。小柄な獣と、とてつもなく大きな獣だ。
「行こう」
 ジンの声に引かれ、ウラルもおどおどと足を踏みだした。
 近づいてみると、二頭ともがとてつもなく美しい獣であることがわかった。一方はいぶし銀色の毛並みをしたオオカミだ。獰猛な牙が閉じられた口から見え隠れしている。このオオカミに馬たちは怯えていたのだ。
 そして、もう一方は馬と似て非なる高貴な獣だった。先が十六にも枝わかれした立派な枝角が月光の中で誇らしげに輝いている。それだけの巨大な角を支えるためだろうか。全体的に見ても馬よりよほど大きく、筋骨たくましい。背中はジンの背丈よりも高いところにあるのだ。イッペルス、シカの頭と四肢に馬の体をもつ珍しい獣だった。
「あきれたな。守護者たる者が森から離れて人間と旅をしているとは。鳥ならともかく、お前のようなイッペルスがすることではないだろう。この森のイッペルスどもときたら、やたらと傲慢で我らオオカミすらよせつけぬ。お前の一族とは、そんなものだと思っていた」
 オオカミが人の言葉を話していた。
「守護者って、なに?」
「お前もおとぎ話やなんやで聞いたことがあるだろう。森の長である獣のことだ。ひとつの森に一頭ずついる。地神に仕えて、聖域と呼ばれる場所を守っているらしい。人を聖域に近づけないために人語を話すし、人に化けることもできる」
「うそ。本当にいたの?」
 オオカミの鋭い牙を見せつけられてもイッペルスは落ちついたものだ。巨大な枝角をずいっと見せつけるように動かす。イッペルスがこの巨大な角をひとふりすれば、狼の三、四匹くらいは軽く吹っ飛ばされてしまうだろう。イッペルスの口元が苦笑でもするようにゆがむ。
「すべてのイッペルスがそんなものではないさ」
 ウラルは口元をおさえた。震えが全身をかけあがっていく。声も、話し方も、アラーハそのものなのだ。話しているのは間違いなく、この獣なのに。
「そうだろうよ。俺のようにネズミを食わないオオカミもいる。森の守護者が自分の森の獣を食ってしまったら、それこそ本末転倒だからな」
 オオカミは牙をむき出しにしながら器用に人間の声で笑ってみせた。
 イッペルスがジンとウラルのほうを見た。つられたようにオオカミも二人を見る。
「物好きなお前と旅をしている人間は、このふたりか?」
 だらりと舌をたらしたオオカミがイッペルスに尋ねる。イッペルスの顔が苦笑を浮かべたように見えた。
 イッペルスの姿がゆらいだ。陽炎のようにぼやけ、別のシルエットになり、ぼやけていた部分が実像に戻る。イッペルスは、もう獣ではなかった。苦笑をうかべたアラーハがイッペルスのいた場所に立っている。いつもと同じ狩人の姿。毛皮に、木靴。いや、木靴ではない。イッペルスの蹄だ。
「あなたがこの森の守護者か」
 驚きもせず、むしろまったく当たり前であるような風情でジンは狼に問いかける。
 次はオオカミの姿がぼやけた。アラーハのときと同じく陽炎のように薄くなり、人のシルエットになった。オオカミがいた場所には初老の男が立っている。狼毛のコートをはおった紳士のいでたちだが目はぎらぎらと攻撃的なままで、腰に佩かれた抜き身のサーベルが血に濡れているかのように恐ろしげな光を放っている。
「いかにも」
 紳士が面白そうにジンを眺めている。ジンは堂々とその視線を受け止め、口を開いた。
「ここで今夜は野営させてもらいたい。できれば、オオカミたちにも出てきてほしくない」
「ここに泊まる分には問題がない。この無愛想な守護者を見にきただけだからな、許可などいらん。だが、俺が一族の者に口をきくには、ちょっとした代価がいるぞ」
「何が望みだ?」
「まず、この森の獣を狩らないことだな。鳥も魚もだめだ。自分は食いたいのに、オオカミには食われたくない、というのは不公平だろう? それから、」
「わかった」
 ジンは紳士の言葉をさえぎって短く答え、火のそばに戻って干し肉のかたまりを持ってきた。
「生肉はないのか。馬一頭でもいいぞ」
「すぐに出ていく。これで勘弁してくれ」
「生肉でないなら、いらん。アラーハ・ヒュグルの顔に免じて今回は許してやろう」
 紳士は不服そうに鼻を鳴らし、アラーハに向きなおった。
「ヒュグル森のアラーハ。最後に、ひとつ言わせてくれ。人間との旅にうつつを抜かすのはいいが、森のことを忘れたとは言わせぬ。お前は、馬ではない。イッペルスはイッペルスらしく誇りを保ち、雄々しく生きろ。森で生まれ、森で生き、森に骸を返せ」
 アラーハはゆっくりと目を閉じた。
「ヤヌス森のケナイ。わざわざ言われなくてもわかっている。だが、俺は、森で生まれ、人と共に生きている。これからもそうするつもりだ。骸は、森に返さなければならないが」
 おもしろいやつだ、紳士は遠吠えのような声をあげた。いっせいに本物の遠吠えが、すぐ近くで十数頭ものオオカミの遠吠えがこたえるかのようにあがる。ウラルは仰天して一歩さがり、ジンは剣の柄に手をやった。
 紳士の姿がぼやけ、オオカミの姿にもどった。いぶし銀色の獣が身をひるがえして木陰へ消えていく。ヤヌス森のオオカミ守護者の後を木陰から姿をあらわしたオオカミの群れが追った。
「どういうことなの?」
 オオカミが完全に消えてしまってからウラルは尋ねたが、アラーハは無愛想にそっぽを向くだけだ。
「はぐらかすことも、できそうにないな」
 アラーハのかわりにジンが苦笑まじりの声で答えた。
「とりあえず火のそばに戻ろう。肉も、いいころあいだ」
 三人でたき火のそばに戻った。フォルフェスとグレンは小さな物音にビクビクしているものの、だいぶ落ち着いて草を食んでいる。ジンがたき火にかざしていた肉をとりあげた。裏返さなかったせいで片面は黒こげだが、もう片面はいいぐあいに焼けている。
 アラーハも円形をつくっている石積みのひとつに腰をかけたが、肉を食べる気はなさそうだ。強い草のにおいがする。森の中で草を食んでいたのだろう。
「アラーハは説明する気がなさそうだから、俺が話そうな」
 アラーハがうなずいて、ウラルを見た。ウラルもジンにうなずく。ふたりともにうなずき返して、まずは俺の身の上話からはじめようか、とジンが口を開いた。
「俺が十のとき、住んでいた家が襲われた。敵の多かった父を恨んでいたやつだったのか、ただの盗賊だったのかはわからんが、家は焼かれて、俺はさらわれた。身代金でもふんだくろうって魂胆だったんだろう。途中で逃げだして、逃げこんだ森でアラーハに会ったんだ。かくまってもらって、俺は何とか逃げきることができた」
「かくまったというよりは、守護者の任を果たしただけだ」
「ああ、そうだったな。でも、かくまってもらったことには変わりがない。家からずいぶんと離れてしまって帰ることもできなくなった俺を、アラーハは森に住まわせて、実の息子のように育ててくれた」
 ほめすぎだ、とアラーハが呟いた。
「アラーハ。口を出すなら、説明してくれ」
「任せる」
 半ばあきれたようなジンの口調にアラーハはそっぽを向き、立ちあがって森の中へ入っていってしまった。
 人でないアラーハがいったい何歳なのかはわからないが、雰囲気や話し方が似ていることといい、いわれてみればジンとアラーハは実の親子にもみえる。顔はまったく似ていないのだが。
 あの性格は二十年前から変わってないんだ、とジンは笑った。
「アラーハは獣として見ても、人間として見ても変なやつだった。普通、守護者は自らすすんで人間と関わろうとはしないそうだ。さっきのオオカミが言ってただろう。アラーハを見に来ただけだ、ここに泊まる分には許可がいらないって。アラーハは森の中に人間が来ると、聖域が近くにあるわけでもないのに様子を見に行っていた。無事に森の外に出るまで、じっと見てるんだ。人の姿でいることも多かった。獣にしては人間に近すぎ、人間にしては獣に近すぎるやつだった」
 やつだった、って、アラーハが死んだみたいだな、とジンはほほえんだ。
 それから六年後、森に迷いこんできたイズンと共に旅に出たことへとジンの話は発展し、やがて義勇兵統率組織〈スヴェル〉を設立した、という話になった。アラーハにジンは森の一部を借りて隠れ家を建て、森の守護者であるアラーハは素性を隠し、〈スヴェル〉の一員として森を離れてまで戦についてくるようになった、と苦笑まじりの口調で言った。
「戦の何が悪いか。それは関係のない人間を何万人も巻き込むことだ。戦うこと自体が悪いわけじゃない。げんにシカでもイッペルスでも角をつきあわせて戦うが、戦っている獣同士以外に害はおよばない。戦をするなら、国王なり軍事総長なり、一対一で決闘でもすればいいんだ」
 ウラルは相槌をうったり、うなずいたりしながら、ジンの身の上話や国家への批判がまじった義勇軍の歴史を聞いていた。
 アラーハは帰ってこない。帰ってきたのは、翌朝になってからだった。

   *

 〈ジュルコンラ〉は堅牢な要塞だった。ジンが開門、と叫ぶ。城門の見張り台に立っていた兵が何かをどなり、それを合図に門の隙間が開いた。
「お久しぶりです、ジンさん。お連れの方も。どうぞ、こちらへ」
 事務的に言った中年の男のあとについて三人は要塞の中に入り、客間らしい殺風景な部屋に通された。すでに、サイフォスとマライ、イズンが待っている。
 サイフォスとマライは別れたときと変わらなかったが、イズンの変貌ぶりにウラルは驚きを隠せなかった。裾を引きずるほど丈が長く、ゆったりとした淡いブルーの上着を着ている。裾には花びらの形にきりとられた優雅な模様がつらなり、腰に巻かれた皮ベルトには繊細な細工のほどこされた銀ボタンがいくつかついている。ひと目で司法官あたりの知的階級貴族だとわかった。普段から裕福そうな格好はしていたが、さすが貴族だ。
「早かったな」
 ジンの声にイズンは帽子をとり、帽子と衣服を指して笑った。
「こころよく両親が協力してくれましたから。明日にでも、これを古着屋にでも売ってきましょう」
「助かるな。お父上とお母上に、よろしく言っておいてくれ」
「ありがとうございます。これが頼まれていた文書です」
 イズンはふところから巻紙を出し、広げた。読みあげる。
「拝啓、北方国境警護の任務に封じられし軍事総督殿。我らはリーグ全土から集まった義勇軍〈スヴェル〉。貴殿に加勢したい。敵意、悪意のないことはヤワラン地区中央役所書記官カル・エルムトが保障するものとする。全軍に火神のご加護を。草々」
「ずいぶんと難しい文章だな」
「小難しい文章のほうが、相手は喜ぶのですよ。自分が上級階級であることを再確認できますからね。とりあえず、リーグ軍に加勢したい、との旨さえ伝われば問題ありません」
 しれっとした顔で言うイズンの顔をジンは見やり、「それが王都役所の書記官の息子の言い草か」と苦笑して文書を受け取った。サイフォスとマライに向きなおる。
「ふたりも、ご苦労だった。現状を報告してくれ」
 サイフォスが羊皮紙を広げた。
「〈ナヴァイオラ〉、歩兵二百三十、騎兵七十、馬が百七十。ほかにスカール港には戦船三十が待機しています」
 マライも同じように羊皮紙を広げる。
「〈ジュルコンラ〉、歩兵百三十、騎兵八十、馬が二百です。戦慣れした者がおもだって徴兵を進めています」
「兵糧、武器は」
「半年分は用意してあります。それ以上は難しいかと」
「城を落とすわけじゃない。半年もあれば十分だ。王都の様子は」
 貴族の装いをしたイズンが口を開いた。
「追加出兵された二千が五日前、王都を出発したようです。外門の警備が厳しくなり、夜でも灯火が絶えなくなりました」
 やはり、ジンは軍事司令官なのだ、とウラルは思った。ジンの部下はウラルやマームを含めて十人だけではないことを、今のウラルは知っている。サイフォスの二百三十、マライの二百。あわせて四百三十がジンの部下にここで加わった。まだ、何百人も仲間がいるのだろう。ジンはそれを束ねる要なのだ。ウラルはわずかに肩を震わせた。
 アラーハがちらりとウラルを見た。ウラルもアラーハを見返したが、アラーハは興味なさそうに窓の外を見るだけだった。真剣な様子でジン、サイフォス、マライ、イズンの四人は話しこんでいる。
「俺と、ウラル、アラーハは王都経由で北上する。ふたりは自分の指揮する部隊をそれぞれ八つに分けて、それぞれ違う道を通って北上してくれ。心配はいらんと思うが、できる限りめだたないよう、慎重に。四日後、カクオス村で会おう」
 四人が立ちあがった。ウラルも驚いて立ちあがる。この短時間ですべての会話が済んでしまったらしい。もともと決まっていたことなので話す必要もないということだろうか。サイフォスとマライが重々しくドアを開け、部屋を出ていく。
「待たせた。今日はここに泊めてもらおう。明日、王都へ発つ」
 わかった、と窓の外を見ながらアラーハが答えた。
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