第一部 第二章 4「別れの言葉」 下

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 遅い夕食をとると、見張りの者を残してほかの者はさっさと寝てしまう。フェイス軍を全滅させた敵がいつ南下してくるかわかったものではないのだ。
 ウラルはぼんやりと火をながめていた。しっかり寝ておいたほうがいいに決まっているのだが、これだけたくさんのことが一度に起こった日なのだ。眠れたものではない。
 ウラルは足元のナタ草をつんだ。冬でもこの花だけは咲いている。時間帯によって一日八度、花の色を変える植物である。今は赤みの強い紫色の花だ。日付が変わりかけていた。
「眠れないのか?」
 なんの前ぶれもなく、後ろから話しかけられた。驚いてウラルが振りかえると、森の奥へ消えたきり夕食の席にも顔を出していなかったジンが立っている。
「使者のムールはどうだ」
「だいぶ疲れてるみたいだけど、大丈夫そう。コフムと話して落ちついたみたい」
「鳥の言葉がわかるような言いかただな」
 コフムはリゼが連れていた三羽のムール、伝令シガルが乗っていったムールとリゼが乗っていったムールのどちらでもない、最後の一羽の名前だった。
 わかるような気がするの、とウラルはたき火の炎をながめながらぼんやり言った。燃えつきた薪が崩れて、軽い音をたてる。
 ジンは置いてあった薪の山から二本を火に放りこみ、一本を椅子がわりにして座った。ふところから二本、小瓶をとりだす。
「飲むか?」
「お酒?」
「こんな日は、飲みたくなる」
 栓が開けられた瓶をウラルは手に取った。夏祭りでマライとネザに飲まされた酒が、一瞬頭をよぎった。
 ウラルは酒瓶の栓を開けず、そのまま地面に置いた。ジンはひとりで、ゆっくりと酒をあおっている。
「お父様に、風神のご加護を」
「ああ。ありがとう」
 ジンはまったく顔を赤くしていない。酔っていないようだ。
「戦うの?」
「弔い合戦になるな」
 ジンがふぅっと息を吐いた。ジンの膝がかくかくと絶え間なく揺れている。ジンの癖の、貧乏ゆすり。
「六千の、軍勢か」
「〈スヴェル〉は何人なの?」
「全員そろって千二百だ。そのうち三百三十がいない。〈アスコウラ〉と〈エルディタラ〉だ。間にあうかどうか」
 敵は六千、見方は七百。十倍近い敵である。
「勝ち目がないってこと?」
「地の利はこちらにある。ネザの罠が〈ゴウランラ〉を中心に、そこらじゅうに仕掛けられているからな。リーグ国軍本隊が到着するまで時間を稼げれば、勝機はある」
 地の利があるとはいえ、本当に十倍近い敵に勝てる見込みはあるのだろうか。ジンは強がりを言っているとしか思えなかったが、ウラルはゆっくりとうなずいた。
「いくら勝機があるといっても、かなりの人数が死ぬだろう。お前を守りきれない」
 ジンの目は、鋭く光っている。次に言われることが、言われなくてもウラルにわかった。
 ウラルは顔をあげて、次の言葉を待った。
「逃げろ、ウラル。これ以上、お前を連れて行くことはできない。アラーハの指示に従って、できるだけ安全な場所へ逃げろ」
「呼ばれて来てみたら、そういうことか」
 ジンの声よりもさらに低い声が加わった。
「俺は、逃げる気はないぞ。ジン」
 真っ暗な木陰に大柄な影がある。その目がたき火の光を反射して光っていた。アラーハの目は闇夜に光るのだ。獣の眼をしているから。
「私も行く」
「はっきり言って、足手まといだ」
 ウラルも声をあげたが、ジンの答えは冷たかった。
 ジンが顔をあげる。その目は、力強い。死地におもむく総大将の目。七百人の命を背負った目。
「ウラルは馬に乗れる。方向さえ教えてやれば、ひとりでも逃げられるはずだ。俺の護衛は必要ない」
「いや、一緒に行ってくれ」
 ジンが声を低める。
「森の守護者である以上、ここでは死ねないだろう、アラーハ」
 アラーハが人ではない、人に化ける力を持った獣であるということは、ここにいる三人以外は知らないことなのだ。
「どういうこと?」
「森の守護者が、守護者の任を降りる前に森以外の場所で死ぬと、森が滅びる」
 ウラルの問いかけに、アラーハがぼそりと答えた。
「俺の何代も前の守護者から、ずっと言い伝えられていることだ」
「俺の戦いに、親父の森の命運をかけられない」
 フェイスは「父上」で、アラーハは「親父」か。ふたりきりの時はどうだったか知らないが、ジンがそう呼ぶところは初めて聞いた。
「俺は、人間よりも脚が速い。力もある。そうそう簡単には殺されないぞ。実際、何度も戦場をくぐり抜けてきた」
 アラーハの語尾が荒くなった。いつも静かで感情のほとんどこもらない表情と声をしているアラーハが、今は目を鋭くして声を荒げている。
「いくらイッペルスの脚力と腕力があるといえど、今回はかなり分が悪い」
「分の悪い戦場なら、今までに何度もあったはずだ」
「だが、騒ぎに乗じて退却くらいはできる戦況だった。今回は違う」
「違いがわからん!」
 ジンの声は、やはり静かだ。アラーハが珍しく激昂しているというのに。
「勝算がないわけじゃない。だが、人をかばって戦うだけの余裕がないんだ」
 アラーハが黙った。しばらくの沈黙の後、ゆっくりと長い息を吐いて、腰をおろす。
「逃げてくれ。あとで合流できる。そこに何人残っているかはわからんが。俺はすくなくとも総大将だから最後まで死ぬことはできない。一番狙われるのも、俺だがな」
 ジンの声は淡々とすらしていた。
「アラーハ、〈スヴェル〉の全員を起こしてくれないか。みんなで見送りたい」
 座ったばかりのアラーハが、またゆっくりと立ちあがった。
「かならず戻ってくると、約束できるか」
「約束したい」
 断言ではなく、希望だった。
 アラーハがイズンらの眠っているテントのほうへ歩いていった。肩をおとし、顔をうなだれた様子は、アラーハにはにあわない。
 ウラルはジンに向き直った。
「ジン、わがままかもしれないけど、私、一緒に行きたい」
 いくら死ねない体だとはいえ、アラーハはとてつもない力を秘めた戦闘員だ。だが、ウラルはウサギを解体するときの小刀くらいしか使ったことのない村娘。残ったところで、足手まとい以外の何者でもない。
 ジンがうっすらと笑った。
「わがままなのは俺のほうだ。だが、連れて行くわけにはいかない。今回は勝つのが目的ではなく、できる限り引き伸ばして、援軍が来るのを待つ戦だ。泥沼になる」
「どうして、そこまでして戦うの? お父上の仇打ちのために?」
「いいや。それもあるが、それだけで〈スヴェル〉軍全部を巻きこむのはさすがに自分勝手すぎるな」
 ジンはたき火にまきを放りこみ、位置を整えた。大きくなった炎がちらちらとジンの目に映っている。
「じゃあ、どうして?」
「ベンベル軍は国境から南下してくる。戦が起これば兵糧が必要だ。だが、六千もの兵士が毎日充分に食っていけるほどの食料を持っていくのはかなり難しい」
 ジンはそこで言葉を切って、北の空をながめた。空は雲におおわれて星が見えない。
「つまり、食料は現地調達するというわけだ。何が起きるかはわかるだろう? 俺は、なんとしてでもそれを防ぎたい」
 村が襲われる。それも大々的に。 ウラルの村が襲われたように。
「自分の命を、捨ててでも?」
「ああ。ここで尻尾を巻いて逃げたら、これまでの戦いの中で死んだ仲間に申し訳が立たない」
 ジンが立ちあがる。闇の中に、六つの影が浮かびあがっていた。
 フギン。イズン。サイフォス。マライ。ネザ。そしてアラーハ。伝令として飛び立ったリゼはここにいない。
「全員、そろいました」
「事情は話した」
 参謀イズンの声に、アラーハの声が続く。
 この中の誰が死んで、誰が生き残るのだろう。
 一番小柄な影が手を伸ばしてきた。そのまま抱きすくめられる。
「すぐ迎えに行くからな。心配せずに、ちゃんと隠れてて」
 フギンの声だった。その胸につけられた皮のよろいが肌に痛い。皮よろいをつけているということは、いつでも戦闘が可能なように武装しているということだ。すぐに出発する予定なのだろう。
「ありがと、フギン。ちゃんと生きて帰ってきてよ」
「死んだら帰ってこれるかよ。当たり前」
 フギンの笑顔が固い。ウラルはそっとフギンを抱きしめる力を強めた。フギンもぐっと抱擁を返してくる。
「今までありがとうな、ウラル」
 呟いてから、そっとフギンがウラルの体を押し戻した。
 後ろからくしゃっと髪をなでられる。振り向くとマライだった。額に軽くキスをしてくれる。
「いい人みつけて、たくさん子どもを育てるんだよ。元気で」
「もう、マライ。またすぐに会えるんだから」
「そうだったね」
 頬に傷のある顔で笑う。覚悟を決めた目つきだ。
「さよならだな、ウラル」
 すっとサイフォスが差し出してくる。握手を求める手つきだった。ウラルはその手を両手で包みこむ。
(俺は、たぶん死ぬ。今回の戦で)
 いつか、マームとサイフォスの話を心ならずも盗み聞きしてしまったとき、サイフォスが言った台詞が耳によみがえった。
 両手で包みこんだサイフォスの手は、とても冷たい。
「生きて帰ってきてね、サイフォス。マームさん、待ってるよ」
 サイフォスはわずかにほほえんだだけで答えなかった。ただ、「マーム」という名前を聞いたとき、ほんの少し、目が困ったようにゆれていた。
 イズンが紳士的な態度で、ネザが病人を診察するような手つきでそれぞれ握手を求めてきた。ウラルはふたりの手をとり、そっと頬にキスをした。イズンからは上等の絹のにおいが、ネザからは煎じ薬のにおいがした。
 アラーハもウラルと同様、みんなから握手や抱擁を求められている。アラーハはとまどったようにみんなを見下ろし、されるがままになっていた。そろいもそろって体格のいいメンバーに囲まれても、アラーハの顔ははっきり見える。長身のジンですらアラーハのの肩までしか背がないのだ。フギンなど、ほとんど子どものように見える。
「もう、行くのかい?」
 マライの問いかけにジンがうなずいた。ウラルとアラーハの気が変わらないうちにと思ったのだろう。おそらくはジン自身の決心もにぶらないうちに。
 ウラルは愛馬フォルフェスに鞍をつけ、荷物をくくりつけた。アラーハのほうは、荷造りなど必要ない。身ひとつでどこへでも行ける。
「ウラル」
 ジンがウラルの右手をにぎらせ、それをぐっと自分の両手で包みこんだ。手の皮のぶあつい、大きな手。
「この戦いが終わったら、お前の故郷の丘で会おう」
 ウラルはうなずいた。そして、フォルエスの腹に脚を入れた。
 徒歩のアラーハが走り出す。すさまじい勢いだ。ウラルもフォルフェスに強く脚をいれる。
 後ろは振り返らなかった。だが、〈スヴェル〉のみんなの、とりわけジンとフギンの視線が強く背中にぶつかっているのを感じた。その視線に強く押し出され、ウラルはフォルフェスを駆る。前を行くアラーハの足は、すさまじく速かった。
 ウラルは故郷の丘まで一息に走って、そこでみんなを待てばいい。
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