第二部‐第三部間章 1「信じない」 上

「こんなところに隠れ住んでおられたとは」
 獣道をたどりながら大げさにあきれてみせるシガルに前を行くフギンが笑いかけた。ナウトはといえば、もう半分ピクニックだ。虫を見つけたといっては立ち止まり、キノコを見つけてはウラルに食べられるかどうか尋ねてくる。ウラルはそんなナウトに生返事を返しながら黙々と歩いていた。
 世話になったシガルとナウトをあのあばら家に置いておくのはどうかというわけで、ウラルの傷が癒え、森の隠れ家に戻ってくるとき一緒に連れてきたのだ。ここならヒュガルト町に近いからダイオを探すにも都合がいいし、エヴァンスの捜索の手も簡単には伸びてこないだろう。いくらエヴァンスの家がもぬけの殻とはいえ、用心しておくにこしたことはない。
「こんなところに家を建てて森の守護者が怒りませんでした?」
「ん、森の守護者? ああ、ガキんときよく聞かされたっけか。んなマジメな顔して言うなよ、伝説に決まってんだろ? 俺、もう何年もここにいたけど守護者なんて見たことないぞ」
「守護者ってなーに?」
「森を守ってる、こわーいこわーい動物だよ。ナウトも気ぃつけろよ。この森では迷ったが最後、そのこわーい動物が出てきてな、ばくばくっと食われちまうんだぜ。一人で遠くへ行くんじゃないぞー」
 アラーハが聞いたら何と言うやら。ナウトはすっかり本気にしてしまったらしく、怯えた顔でシガルのすそをにぎりしめる。その様子にフギンはひとしきり笑い、それからウラルを振り返った。
「ウラル、どうかしたのか?」
 ウラルは首をかしげてフギンを見つめた。
「いや、ここで『もうフギンったら』とかなんとか言われると思ったのにさ。お前、最近元気ないぞ。ダイオやあの金髪男のことが気になるのはわかるけど」
「うん……」
 ウラルはうつむいた。
 エヴァンスへの仇討ちに失敗した日、いや正確にはあの丘の夢から覚めたときからひどい胸騒ぎがするのだ。そのおかげで冗談を言ったり笑ったりするゆとりがない。どこかに行かなければならないという焦燥感に絶え間なく襲われて、生きているかもしれないイズンのことがどうしようもなく気になって仕方がなかった。見るべきものはエヴァンスとダイオであるはずなのに、それが見えなくなるほどに。
「ま、相談とかしたくなったら聞くからさ、言ってくれよ。さてっと、そろそろ見えてくるはずだな」
 「見えてくる」とフギンが言った瞬間に、なぜか胸がドクンと大きく脈打った。かっと頬に血がのぼる。はやく、一刻もはやく隠れ家に帰りつかなければならない。けれど断じて前を見たくない。なぜこんな思いが急にわきあがってきたのか、わけがわからないままウラルはうろたえ、胸を押さえた。
「アラーハさんはこの家に?」
「いや、やつは半分獣だからな、この森のどっかを放浪してるみたいなんだ。ま、たぶん適当に俺たちのにおいをかぎつけてくるさ」
 フギンらは最後尾を歩くウラルの異変に気づいていないようだ。立ち止まりたい、けれど同時に走り出したい。ふたつの思いがあいまって、結局ウラルは今まで通りの速さでただゆっくり歩いているしかない。
 うっそうと茂る木々が途切れ、光の差し込む場所が前に現れた。ぽかりと広がる草地、そこに二軒の隠れ家と、厩舎と、ムール禽舎。馬もムールもいないから空っぽではあるけれど。
「見えてきたな。さてっと、そこだそこだ。……あれ、ちょっと待て。何かいる」
 ぴたりとフギンが歩みを止め、前方に目を凝らした。シガルとナウトも立ち止まり、ぴたっと前を見つめる。シガルが「おお」と感嘆の声をあげ、さっきまでちょこまか動き回っていたナウトも驚きにぴたっと動きを止めた。ウラルも目を凝らして息を呑む。
「うお、珍しいな。イッペルスだ。すごい立派なツノしてるぜ。おい、誰か弓矢持ってないか?」
 隠れ家の玄関前に一頭の立派なイッペルスが座りこみ、こちらをまっすぐに見つめていた。人間を見つけたとみえ、ゆっくりと立ち上がる。赤茶の毛皮、黒いたてがみと尾、立派すぎる枝角。――アラーハだ。アラーハがなぜか人の姿にならず獣のままでいる。
 幸いに、というべきか誰も弓矢は持っていなかった。威風堂々たる姿に圧倒され、動かない四人をアラーハはじっと獣の姿で見つめている。それから一歩を踏み出した。
「お、おい、こっち来るぞ。普通逃げるだろ。なんでだよ」
 狼狽するフギンを押しのけ、ウラルはたまらず駆け出した。そうか、今の胸騒ぎ。胸騒ぎは。
「ウラル! 危ないぞ、おい、さがってろよ!」
 フギンは叫び終わると同時にあんぐり口を開けたろう。ウラルが巨大なイッペルスの胸に自分から飛びこんだのだから。その長い首を抱きしめる。アラーハは悲しげに鼻先をウラルにこすりつけた。無言だ。そのしぐさで全てがわかった。
「どうして。まさかよね、まさかそんなことが」
 アラーハは守護者争奪戦に帰ると言っていた。ほかの雄たちの挑戦を受けなければならないと。
「負けてしまったの、アラーハ……」
 人の姿で出てこられないはずだ。人に化ける力を失い、人の言葉も話せなくなってしまったのだから。何十年間も保持してきた守護者の椅子をほかのイッペルスに明け渡し、守護者の神通力を失ったアラーハは。
「あ、あのさ、ウラル、そいつ知ってるんなら紹介してくれないか?」
 我に返って振り返ると、フギン、シガル、ナウトの三人が遠巻きに見守っていた。
「今、アラーハって呼んだよな。それがこいつの名前? たしかにアラーハになんか似てるよな。にしてもイッペルス飼い慣らすって何したんだ? 絶対慣らせない生き物だって前にも言ったろ?」
 フギンがおっかなびっくり近づいてきて、アラーハの肩をぽんぽん叩いた。アラーハは無反応でウラルの肩に鼻先をもたれかけさせたままだ。ウラルは答えようとしたが、声にならない。
「ああ、そういや〈ゴウランラ〉の近くでもお前、たしか一頭連れてたよな。二頭も慣らしちまったのか。あっちの名前はなんて言うんだ? こいつがアラーハだから、まさかフギンって名づけてないよな?」
「あの時と同じイッペルスなの」
「そうか、同じやつなのか。あのとき仲良くなって一緒に連れてきた感じ?」
「あの時からじゃない。ずっと、ずっと一緒にいた……」
 ウラルは両手で顔を覆った。
 アラーハがそろそろと首を伸ばしてナウトのにおいをかぐ。ナウトはびっくり仰天、あわてて後ずさったが、アラーハが静かに見守っているとへっぴり腰で近づき鼻先にちょんと触れて手を引いた。それでもアラーハが動かないから少し安心したらしい。またゆっくり近づいてアラーハに触れ、今度はひたいをなでた。アラーハはされるがままになっている。が、シガルが触れようとすると首を跳ねあげて触らせなかった。
「ずっと一緒にいた? どういうことだ?」
「フギン、きっと信じてくれない」
「話してから決めるもんだろ、そういうのって。まさかこいつがあのアラーハって言い出すわけじゃないだろ?」
 そのまさかだ。
 ウラルは口に出さなかったが、顔色ではっきりそう言っていたらしい。フギンはアラーハを見つめ、ウラルを見つめ、それから引きつり笑いを漏らしてウラルの肩をぽんぽん叩く。シガルとナウトは顔を見合わせていた。
「あの、ウラル? こんなこと言いたかないんだけどな、金髪野郎に頭殴られてどうかしちまったのか? 早く家の中入って休んだ方がいいぜ。な?」
「だから信じてくれないって言ったのに」
「いくらアラーハが獣じみてたってな、あいつはれっきとした人間だろ? それがある日突然イッペルスになっちゃいましたー、ってな。ウラル、そんな真顔で冗談言うもんじゃないぜ。冗談ってのは笑うためにあるもんだ」
 ウラルはアラーハの首に手をやった。馬にするようにそっとなでる。
「アラーハ、どうしてこんなことになる前にみんなに言っておかなかったの?」
 フギンの目つきが険しくなった。
「おい、ウラル、しっかりしろよ。な?」
「フギン、今まで変だと思わなかった? 走る馬について走ってこれる人間がどこにいるの。アラーハ、あんなに大柄だったのに肉食べれないなんてどう考えてもおかしいじゃない。夏になっても毛皮を着たまま、秋になると姿を消す。ほかにも変なところ、たくさんあったでしょう?」
「ウラル、もう休めよ。横になるんだ」
「私、イッペルスを慣らす方法なんて知らない。アラーハはこの森の守護者だった。守護者は人間に化けられる……。聞いたこと、あるでしょ? アラーハは人に化けてずっとみんなと一緒にいたの。自分の正体を明かさずに」
 とたん、フギンがウラルの肩をひっつかんだ。
「いい加減にしろよ! それはおとぎ話だろ? んなばかなことがあってたまるか! おい、シガル、ナウト、行くぞ。ウラル、本当に横になれ。そのうちアラーハも帰ってくるさ。それで一件落着だ」
 フギンは犬にやるようにしっしっと手を振る。ウラルがかばうつもりで間に割り込むと、アラーハはそっとウラルの背を鼻先でつついた。ひどく悲しげな目、顔の側面にだらんと垂れた耳。フギンと一緒に行け、と言うようにぐいっとウラルの背を前に押すときびすを返し、ぱっと森の中へ姿をくらましてしまう。さよならだ、ウラル、と揺れたその目が語った気がした。
「アラーハ……」
 見送る間もなくフギンにむんずと手をとられ、ウラルは引きずられるように森の隠れ家へ連れていかれてしまった。
inserted by FC2 system