第二部‐第三部間章 2「心が追いつくまで」 上

 ウラルはそれから二、三日家の中でおとなしくしていた。できるだけ家から出ずにリビングでつくろい物や掃除に精を出し、ハーブ園や菜園の手入れのときはフギンやナウトを誘っていろいろ手伝ってもらった。さすがに森の一件でウラルも反省していたのだ。
 ウラルは今まで縫っていたシャツをひろげ、できばえを確かめた。
「はい、おまちどうさま」
 ウラルの隣に座っていたナウトがはにかみながらシャツを受け取る。もと物乞いのナウトが持っていた服は仕立て直しても雑巾にしかならないようなボロばかり、しかも背が伸び盛りですぐサイズがあわなくなる。そんなわけでフギンやシガルからお下がりのシャツをもらい、その生地でウラルが新しくシャツを作ってやっていたのだ。
「着てみて。きつくない?」
 ナウトはシャツをかぶり、ウラルに向かってこくこくうなずく。そんなナウトの頭の上にぽんと今回のシャツの持ち主、シガルが手を置いた。
「よかったな、ナウト」
 ナウトはシガルにもこくこくうなずいてみせる。
「すみませんね、ウラルさん。助かります」
「お財布の中身も助かるし、私もいい気晴らしになるから」
 ウラルはうーんと大きく伸びをした。朝から座りっぱなしだったお陰で少しばかり背中が痛い。
「そういえばシガル、フギンは? 今日は朝から見ないけど」
「ああ、厩舎にいるみたいですよ」
「馬は一頭もいないのに?」
「体を鍛えておられるみたいです。ダイオ将軍を助け出すために必要なことだから、と」
 利き腕を失った体をがむしゃらに鍛えるフギンの姿が目に浮かび、ウラルはうつむいた。ダイオの行方はまだわからない。けれど生きているならエヴァンスにあのまま囚われているだろうし、囚われているなら助け出さなければ。あのベンベル人騎士エヴァンスの手をかいくぐり、おそらくは傷で動きのとれないダイオをかばいながら逃げてこなければならない。それがフギンとシガルの二人でできるだろうか。
「シガルも騎士だったのよね。ダイオが生きていたら、フギンと二人で助け出せる?」
「たしかに騎士でしたが、伝令です。空からの投げ槍の腕は自慢できますが、地上で戦うのには慣れていません。しかも相手が相手でしょう、まともに戦うとなればまず勝ち目がない。十分に策を練らなければなりませんね」
 それなのにフギンは体を鍛えている。無茶をする気だ。下手をすればエヴァンスとの一騎打ちを覚悟しているのかもしれない。
 ウラルが今、ここを離れたら。ここを離れている間にダイオの行方がわかったら、フギンは止めるウラルがいないのをこれ幸いとして助けに行くだろう。そしてエヴァンスがちらとでも視界に入ったら、シガルが止めたとしてもひとりで突っ込んでいくに違いない。迷うことなく真っ向から。
 人の姿のアラーハがここにいたら、と切実に思った。フギンを逃がすことを第一に考えられ、しかも冷静沈着で腕の立つ大男。そのアラーハは、今ひとりで、いや一頭きりで森の中にいる。フギンに拒絶され、また自分からも拒絶して……。
 そうだ、とウラルはシガルを見つめた。フギンがアラーハに会ってくれないなら、シガルとナウトはどうだろう。そういえばシガルは森の守護者を気にするようなことを言っていた。シガルなら、実際にアラーハに会いウラルの説明を聞けばわかってくれるのではなかろうか。少なくともフギンよりは見込みがある。
「ね、森に行かない? この時期にしか採れない薬草があるから採りに行きたいの。私一人だったらフギンになんて言われるかわからないから。三人ならいいでしょう?」
「でも」
 シガルはちらりと窓から厩舎の方を見やる。ウラルは苦笑した。そういえばシガルは今日、朝からナウトと一緒にこのリビングにいる。もしやフギンに監視役を頼まれたのだろうか。
「前みたいにいきなり走り出したりはしないから。この家の近くだけ。今ならアケビも採れるわ。シャツ縫ってばかりだと背中が痛くなっちゃって」
 ウラルは立ち上がって薬草取り用のカゴを手に取った。中に袋やハサミ、手袋も入っている。
「フギンにもちゃんと言っていくから。ね?」
 シガルはまいったなとばかり肩をすくめた。
「わかりました、行きましょうか。ナウト、アケビだってさ」
「あけび?」
「そう、アケビ。紫の実で、熟れるとぱっくり裂ける。白い実が中から覗いてね、歯をむき出して笑ってるみたいに見える。甘くておいしいのよ」
 町育ちのナウトはどうやらアケビを見たことがないらしい。大きな目をくるくる回して、どんな姿の果物なのか想像をめぐらせているようだ。シガルがほほえんでその頭をなでた。その仕草は「兄ちゃん」というより「お父さん」だ。
 隠れ家を出て厩舎へ歩いていくと、荒い息をつきながら支柱を相手に木刀を構えるフギンがいた。上半身裸だ。もうかなり慣れたとはいえ、こう見せつけられてはそこにあるべき右腕が肩口からないのにぎょっとする。
「どこか行くのか?」
 フギンが木刀を下ろし、ウラルを見やった。
「三人で森に行ってくる。あの私がよく咳止めや熱さましの薬草を取りに行く草地、わかるでしょう? そろそろ行かなきゃだめになっちゃうから」
「わかった」
 意外とすんなり許可が出た。木刀を受け取り、かわりにすぐ近くにあったタオルを渡してやる。フギンはそれで汗をぬぐい、右肩を隠すようにタオルをひっかけた。
「シガル、夕方から槍の相手してくれ。支柱が相手じゃ練習にならねぇ」
 すっとシガルを見つめたフギンの目。夕方には戻れ、ウラルを頼むぞ。シガルは無言でうなずいた。
「じゃあ、行ってくるね」
「遠くへ行くんじゃないぞ」
「わかってる」
 シガルとナウトをうながしウラルはフギンに背を向ける。フギンはタオルを肩に引っかけたまま、じっとウラルを見つめていた。
 再び支柱の木と木刀がぶつかりあう音が聞こえ始めたのは、ウラルらが森に入りフギンの位置から姿がまったく見えなくなってからだった。それまでずっと、立ちつくしたままウラルらを見送ってくれていたようだ。
 ウラルは森の中で上を見あげた。
「ナウト、あれがアケビよ」
 高いところに巻きついたアケビのツルを指差す。ナウトが興味津津で上を見上げ、ぎょっと身をすくめた。たしかに初めてだと鈴なりのアケビは気味悪く見えるかもしれない。にたりと笑う紫色の何かに集団で見つめられているように見えるから。
「こりゃすごいな。こんなにたくさん」
 シガルが身軽に木へ登っていく。投げますよと一言、アケビが二つ落ちてきた。
「ほら、食べてみて。種が多いからこうして出すのよ」
 受け取った実を口に含み、苦味のある黒い種を口の中でこしとって手のひらに出す。ナウトは気味悪そうにウラルの手の上にある皮を見つめていたが、樹上でシガルもおいしそうに食べているところを見、えいやっとかぶりついた。とろりと甘いのにびっくりしたのだろう。目がまん丸になる。
「おいしいか?」
 樹上から降ってきた声にナウトはこくこくうなずいた。
「ナウト、ここまで登っておいで」
 ナウトはうなずき、ひょいと木に足をかけた。さすがは男の子、物怖じもせずするするシガルのところへたどりつくと、小動物を思わせるしぐさで手を伸ばし、自分でアケビをもいで食べ始める。よほど気に入ったのだろう。ぼろぼろ降ってくるアケビの種に苦笑しつつウラルは少し木から離れた。
「シガル、あの草地にいるね。その木から見えないところには行かないから」
「あ、待ってください。すぐに行きます」
 シガルがナイフを取り出し、アケビが六つも鈴なりになったツルを切り取る。ナイフをしまい、ナウトを連れてすぐさま降りてきた。
「ゆっくりしていていいのに」
「はぐれるわけにいきませんからね」
 真面目顔のシガルにウラルはため息をついた。
 草地へ歩いていき、薬草摘みの道具を広げる。ウラルはじめ村で育った娘はある程度、薬草の知識を持っているのが普通だ。母親や姉、叔母らとリンゴや家畜の世話をしながらその根元足元にはえる草を摘み、役に立つ草の扱い方を学んでいく。
 けれどウラルはその域を超え、薬草士に匹敵する知識を持っていた。去年一年でアラーハから教わったのだ。ジンらから預かった金を使いたがらない、けれど収入のないウラルに、これこれの草をこうして売ればいいと旅の間に教えてくれていたのだ。
 シガルとナウトに見分け方を教え、薬草摘みを手伝ってもらう。けれどナウトはすぐに飽きてしまったらしい。木立の中にアケビを見つけ、すっとんでいってしまった。
「ナウトを追いかけなくていいの?」
「寂しがりですからね。僕らが見えないところまでは行きませんよ、あの子は」
 言いつつその手は止まり、目は心配げにナウトの姿を追っている。ウラルも手を休め、集めた草に別種のものがまざっていないか検分した。
「シガル、前から聞こうと思ってたんだけどね。森の守護者のこと、いるって信じる?」
「ええ。ウラルさんも信じてらっしゃるようですね」
「会ったことがあるの」
「え、ウラルさんも?」
 予想外の答えにウラルは目を丸くした。シガルはしまったと言いたげに顔を歪める。
「も?」
「ちょっと言い間違っただけですよ。気にしないでください」
 いや、そうは聞こえなかった。
「よかったら話して。私は疑ったりしないから」
 押してみると、シガルはそっぽを向いてしまう。黙ってしばらく待ってみると、そうですね、ウラルさんならとしぶしぶ再び口を開いてくれた。
「僕は海の守護者に会ったことがあるんです」
「海の?」
 アラーハは森の守護者、地神に仕える獣だ。ほかにウラルはおとぎ話としてしか知らないが、崖の守護者、山の守護者、砂丘の守護者といろいろいるらしい。同じように海や川などの水辺にも魚や海鳥の守護者がいるといわれ、こちらは水神に仕えている。
「こっぴどい嵐の日、飛ばなきゃならないことがあって。軍船から伝書鳩が命からがら到着しましてね。ひどい伝染性の病気がはやりだした、けれど一刻も早く薬が必要なこの時に遭難してしまった。このままでは全員が死んでしまうと」
「伝令ってそんなことまでするの?」
 ああ、とシガルはほほえんだ。
「言い忘れましたね。僕は海軍出身なんです。けれど、ルダオ要塞が三年前に襲われた際、ムール伝令が至急国境に必要だということになりまして。フェイス将軍のもとへ異属になったんですよ」
 三年前ということは。あのジンの死んだ戦が二年半前、その直前老将軍カフスにウラルの家族の消息を聞いた際、「半年前の襲撃で亡くなった」と言われた。まさしくその襲撃ではなかろうか。父や兄、婚約者の顔が目に浮かび、ジンやイズン、リゼ、ネザらの顔も続いて浮かんで、ウラルは知らず知らずのうちに唇を噛み締めていた。
 ぽんと肩に手が置かれ、ウラルは我に返った。
「大丈夫ですか、ご気分が?」
 よほど暗い顔つきをしていたのだろう。シガルが心配そうに顔をのぞきこんでいた。
「心配しないで、あの戦のことを思い出しただけ。続けて」
 では、と申し訳なさそうにシガルはうなずく。
「話を戻しますね。誰もがムールを飛ばすのに反対しました。どんな海鳥だってあんなひどい乱流と豪雨と雷の中、飛べやしないと。けれど誰かが助けに行かなきゃならない状況で……。結局、僕が行きました。けれど案の定、乱流に翼をとられ高波に足をとられ、ついにムールの顔の真横に雷が落ちて目がくらみ、墜落しましてね。気がついたらムールともども海の中、けれどなぜかすぐに浮くんです。というより何かに持ち上げられている感じで」
 そんなひどい天気だったのか、と背筋が寒くなった。よくそれで無理にでも行こうという気になったものだ。
「はじめはムールがなんとか泳ごうとしているんだと思いました。けれど違った。ムールは雷のせいで気を失っていたんです。ぐったり目を閉じてね、そのムールの頭が海中に沈まないよう、何かが下からしっかり支えていたんですよ。よくよく見れば頭だけじゃない、ムールの全身をがっしり何かが支えている」
 シガルは右手を広げ、それを下から左手でぐっと支えてみせた。
「ぽかんとしているとね、声が聞こえたんです。『こんな大嵐の日になぜこんな無茶をした』と。『あなたは誰ですか。もしや水神さまでしょうか?』と尋ねれば、『わたしは水神に仕えてこのあたりの海をおさめるウミガメ守護者で、今このムールの下にいる』と答えが返ってきたんですよ」
 シガルは声をひそめ、顔を伏せる。水神に感謝し祈る表情にも、ウラルが否定するのをおそれる表情にも見えた。
「僕は必死で仲間の船が遭難したことを話しました。話を聞くとウミガメは、そのまま僕とムールを乗せ泳ぎだし、遭難した軍船のところまで連れていってくれたんです。とんでもない高波の中をですよ。そして軍船が沈まないよう嵐がおさまるまでそばにいてくれ、高波に翻弄され誰かが海に落ちると拾いあげて助けてくれました。そして、嵐がおさまると舵が生きていることを確かめ、ゆっくり去っていったんです。僕らは大声で感謝の言葉を叫び、水神の賛歌を口にしながら港へ戻ったんですよ。もっとも、その場にいなかった誰にこのことを話しても幻覚を見たことにされてしまいましたがね」
 たしかにウラルもアラーハのことを話すたびフギンに嫌な顔をされ、気違い扱いされて。たまったものではない。けれどシガルもそんな経験があるならウラルをかばってくれてもよかったろうに。そしてアラーハのことを信じてくれても。
「だから森の守護者がいてもおかしくないと思っています。けれど人に姿を変え、というくだりはちょっとさすがに。ウミガメ守護者は最後まで人の姿になりませんでしたし。僕がアラーハさんに会った限り、彼はたしかに変わっていましたが、れっきとした人間でしたよ。そんな、獣が化けたようには見えなかった。別に尻尾が出ているわけでもありませんでしたし」
 ウラルは思わず苦笑した。たしかに尻尾がひょっこり出ているわけではなかったけれど。
「毛皮と蹄、それにツノは隠せなかったみたいだけど。目、横に長い瞳孔も」
「え」
「気づかなかったのね。アラーハも隠してたし仕方ないけど」
「じょ、冗談でしょう?」
 シガルの声がうわずっている。
「あの毛皮、自前だったのよ。だからあんな暑い盛りでも脱げなかったの。汗だくになってたでしょう」
「ええ、たしかに汗だくでしたが。え、ウラルさん、冗談はよしてくださいよ」
 やっぱり簡単には信じてくれないか、とウラルはため息をついた。その海の守護者がシガルの前で人の姿になっていてくれたらよかったのに。
「う、ウラル姉ちゃんっ!」
 ナウトの悲鳴じみた声にあわてて振り返る。転げるようにウラルとシガルのほうへ駆けてくるナウト、その後ろに一頭の獣が立っていた。
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