第二部 第二章 3「とらわれて」 上

 ウラルは耳を澄ませていた。歌が聞こえる。何回か聞くうちに、それが歌ではなく、特殊な旋律をもった読経だということに気がついた。
 ベンベル人は、夜明けと、昼間と、日没前、日没後、そして、夜寝る前の一日五回、祈りの儀式を行うらしい。ウラルはベンベル人にとって異教徒だから祈りの場には入れてもらえないのだが、この歌のような経文は素直にきれいだと思う。何を言っているやらまったくわからないウラルにとっても、だ。
 読経が終わる。ウラルは放牧場の中にいる馬のひたいをなで、寝藁を干す作業にもどった。目と鼻がすうすうする。寝藁にしみこんだ糞尿が蒸発して、目にしみているのだ。
 リーグの馬とベンベルの馬は体格や性格が少しずつ違う。ベンベルの馬はすらりとした体型で、比較的気が荒かった。だが、鼻を鳴らしたり蹄で地面を叩いたりする「言葉」は、リーグの馬となんら変わりがない。この糞尿のにおいも同じだ。
「ウラルさん」
 祈りの儀式を終えたシャルトルが様子を見に来たようだ。
「あれ、ペルーダは房にはいったままですか? 午前のうちに日光浴をさせておかないと」
 ペルーダはここに飼われている一頭のゴーランの名、房とは寒暖差に弱いゴーランを入れておく小屋のことだ。
 シャルトルが困ったように肩をすくめる。
「まぁ、娘さんには人気のない動物ですからね、ゴーランは。本来門番の仕事ですから無理にとは言いませんが、そんなに嫌がったらペルーダが悲しみますよ?」
 そうなのだ。ウラルはゴーランが苦手だった。ゴーランの姿がちょっとでも目に入るだけで、足がガクガク震えだしてしまう。
 馬やゴーランの世話は門番の仕事だった。馬のそばにいれば馬好きの友人を思い出して少し気分が明るくなるので、少し仕事を手伝わせてくださいと言い出したのはウラルの方。けれどまさか、この乗用トカゲが馬に混じって一匹いるとは思いもしなかった。はじめて間近にこの姿を見たときには、思わず悲鳴をあげてシャルトルにしがみつく騒ぎになってしまったほどなのだ。
 ウラルも小さくため息をついた。たしかに、ゴーランは恐ろしい姿の動物だ。巨大なトカゲの姿に、鋭い牙。そしてぎょろりぎょろりと動く縦長の瞳孔をもった金の瞳。だが、ゴーランがもし、ごくごく普通のリーグの動物だったら、ウラルはこれほど恐ろしいとは思わなかっただろう。
 ゴーランを見るたび、戦場を思い出すのだ。はじめて〈スヴェル〉がリーグ軍に加勢したあの戦場。兵士を乗せ、けわしい岩場をすいすいと登っていくゴーランの一団。そして、ゴーランに苦しめられたという、〈ゴウランラ〉の要塞を。馬を見て馬好きの友人、つまりはフギンを思い出すよりよほど強い恐怖が胸を支配して、気分が明るくなるどころの話ではなくなってしまった。
 シャルトルがゴーランの房へ向かっていく。ほどなくして、滑車のついた檻をガラガラと押して外へ出てきた。檻の中にはむろん、ゴーランのペルーダがいる。体の奥に走る震えを必死にこらえながら、ウラルは馬の寝藁を干す作業に戻った。そんなウラルを尻目に、鼻歌を歌いながらシャルトルはペルーダの手入れを始めていた。
 馬とゴーランの手入れが終わったら、次は掃除だ。広い屋敷を端から端まで掃き清め、モップをかけていく。午前中に洗濯を終わらせておいたからいいものの、本当にウラルが来るまでどうしていたのやら。まさかミュシェが一人で家事を回していたのだろうか。
 シャルトルはエヴァンスの部下というだけではなく、どうやら秘書役でもあるらしい。ウラルが掃除をしている間は部屋にこもってエヴァンス宛の書類を読んでいる。だが、常に部屋のドアは半開きにされて、常に廊下の物音を聞けるようになっていた。まるで監視されているかのような。
 それにこの家に来て以来、家の敷地の外へは一度も出たことがない。そういえば前にウラルが外へ出たいと言ったとき、シャルトルは話題を巧みにすりかえていなかったか。ウラルを外へ出すのではなく、友人を招いてもいい、と。居心地の悪さを覚えながらごしごしと廊下をモップでふいていく。
 と、ウラルの腕が今朝いけたばかりの花瓶に当たった。
「まずい!」
 反射的に落ちかけた花瓶を受け止める。なんとか受け止められたが、転んでしまい、思いきり頭を床にぶつけた。花瓶に入っていた水が顔にかかる。
「どうしました?」
 シャルトルが飛んできてくれる。水浸しで花びらまみれになっているウラルを見て、あぜんとした顔をした。
「お怪我はありませんか?」
「あ、大丈夫みたいです。こっちの花瓶も」
 ウラルの頭ほどもある大きな花瓶をシャルトルに見せる。こんな大きな花瓶を胸に抱いたまま後ろへ倒れてしまったので、押しつぶされた胸が痛く、息をうまく吸えないが、とりあえず怪我らしい怪我はなさそうだった。
「そりゃあ、よかった」
 シャルトルがほっとしたように笑い出す。ウラルも笑った。なんだ、監視といってもこういう意味だってあるのだ。シャルトルとエヴァンス以外とはまともに言葉も通じない、ベンベル式に不慣れなウラルを見守ってくれているだけ。
「着替えてきてください。ここは、私が」
「でも、私のミスです」
「そんな水浸しの格好では風邪をひいてしまう。そうして一日二日、休まれるほうが僕にとっては困るんですよ」
 シャルトルが優しく笑う。ウラルはにっこりほほえんで礼を言い、廊下を走り出した。
 着替えて廊下の花をいけなおし、昼食を作ってからの空いた時間はミュシェ婦人の部屋に入りびたる。雑用をしたり、絵のモデルになったり、ときにはそこからキッチンへ移動して料理を教えてもらったりしていた。
「Snna diea iada touca i heryo.(椅子に腰かけて、花を持って)」
 ウラルは言われたようにした。絵筆をにぎりキャンパスに向かうミュシェの後ろには地図が壁を埋めつくさんばかりに張られている。そしてウラルの右手の壁にはこれまた壁を埋めつくさんばかりの絵がかけられていた。このヒュガルト町の市場の絵が多い。
「(この町の地図を描くためや、絵を売るために町を歩き回ってね、そのたび素敵な風景を見つけて描くのが楽しみなのよ)」
 はじめてこの部屋に来たとき、シャルトルの通訳でミュシェはそう言っていた。そもそも絵の趣味が高じてこの婦人は腕利きの地図職人になったのだ。
「(昨日ね、絵を売りに行ってきたの。言っていたでしょう? 七日に一度、売りに行くのよ)」
 ウラルは持っていた花から目をはなし、ミュシェを見た。ミュシェの言葉はベンベル語だが、ゆっくりとわかりやすく発音してくれるので、わかる単語をひろっていけば言っていることはなんとなくわかるようになっていた。
「(あなたの絵、すごく好評でね。みんな売り切れたわ)」
 ウラルはほほえんだ。後半部分はよくわからなかったが、悪いことではなさそうだ。
「(でね、最後のほうに絵を買っていった人がいたの。リーグ人の男の子。絵を見て、とても驚いていたわ。あなたの知り合いだって)」
 ベンベル語がよく聞き取れず、ウラルは首をかしげた。ミュシェは「(あなたの知りあい)」とゆっくり繰り返す。
「(あなたに会いたい、って言っていたわよ。似顔絵をスケッチしてきたの。見覚えある子?)」
 ミュシェはインクでざっくりと描いた絵を見せてくれた。十歳くらいのやせっぽちの少年。くるりとした大きな目、はにかみ笑いを浮かべた口元。
「ナウト!」
 おそらくフギンに言われてこの街を探し回ってくれていたのだろう。思わず笑顔になったウラルにミュシェが笑い返した。
「(シャルトルがちょうどいないときを見はからって、こっそりね。もっとしっかり描きこみたかったんだけど、シャルトルが帰ってきたとたん逃げるみたいにどこかへ行っちゃって。ナウトって子なの?)」
 あまりよく聞き取れなかったが、最後の質問はわかったのでうんうんうなずくと、ミュシェは満足げににっこりした。
「(じゃあ、今度またあの子が来たらウラルが喜んでたって伝えなきゃね。さてと、そろそろ夕飯を作りに行きましょうか。先に行っていてちょうだい。私は片付けてから行くからね)」
「Uose!(はい!)」
 持っていた花を花瓶にいけなおし、階段をくだってウラルはいそいそキッチンへ向かった。ナウトがそこまで来てくれているのだ、フギンがこの屋敷まで来るのも時間の問題だろう。フギンやナウトに会える。思ったよりずっと早く。
 捨て忘れていた生ゴミのバケツを手に取り外へ向かう。生ゴミは馬糞と一緒にしておくことになっていた。そうしてしばらくねかせ、肥料として売り払うのだ。あたりはもう薄暗い。ウラルは小走りに馬のところへ行こうとして、はたと足を止めた。
 庭園の隅で何かが動いた気がしたのだ。手入れの行き届いた形のいい木々のあたりで。門番の誰かだろうか、いや、あんなところに用事があるはずがない。泥棒だろうか。シャルトルを呼びに走ったほうがいいだろうか。
 まじまじと見つめるうち、もう一度人影が木立の間に姿を現した。黒装束の何者か。真っ黒なマントを着ていて、体格がわからない。人目を忍んでいるのは明らかだ。
「誰?」
人影は頭巾を取り、そっと顔に手をやった。人差し指を口に当てているらしい。「静かに」。頭巾を取ったその髪は褐色、リーグ人だ。顔立ちはまだ遠くてわからない。
 人影がこちらへ向かってきた。木立の間から足音を立てぬよう用心しながら走る姿が見え隠れする。やがてウラルから一番近い木まで来ると、そこから手招きした。褐色の髪と瞳、そのやさしい瞳には安堵の色。
「ウラル、やっと見つけた」
「フギン!」
「しーっ。静かに」
 言いつつ、フギンは駆け寄ったウラルを隻腕で抱きすくめた。
「ひどいことされてない? 思ったより早く会えたね」
「どうやってここまで来たの? ミュシェさん、西広場でナウトらしい男の子に会った、としか言ってなかったけど」
「そう。そのままご婦人のあとをつけたんだ。ナウトのお手柄」
 人なつっこい少年のようなフギン特有の笑い方をする。
「アラーハは? ダイオ卿はまだ一緒にいるの?」
「一緒にいるよ。あの二人は目立ちすぎるから来れなかったんだ。すぐに会えるよ。荷物をとって、またすぐここに戻ってこられる?」
 ウラルはうなずき、エヴァンスの家へ足を向けようとした。
「待って。誰か来た」
 フギンに肩をつかまれ、引き戻される。
「私だったら、怪しまれないから。大丈夫」
「まぁ、そうだけどさ」
 フギンがウラルの肩を離した。むこうからランタンの明かりが近づいてくる。
 エヴァンスとシャルトルだ。何かを話しながら門をくぐり、広い庭園を抜けていく。
「私、この屋敷のメイドをしてるんだけどね。あの背の高い人がご主人。もうひとりはその秘書の方で、私の面倒を見てくれてるの」
 フギンの反応を求めてウラルは振り返った。
 フギンは何も言わない。表情が一気に固くなり、にらみつけるような視線になった。
「どうしたの?」
「あいつ」
 しぼりだすような、うなり声のような口調。
「あの金髪の男、ベンベル人騎士だよな」
「そうだけど。知ってるの?」
 フギンがぶるぶると肩を震わせた。サーベルの柄に手をかける。
「あいつ、一年前の戦いに、参加してた」
「え?」
 たしかに高位騎士で、リーグにいるのだから、エヴァンスがあの戦いに参加していても不思議ではない。
「俺、目の前で、見てたんだ」
 フギンの顔は、蒼白だ。サーベルの金具がガチガチ鳴っている。
「あいつが、頭目を殺した。ものすごい斬り合いだったけど、最後に、頭目の胸を、あいつが剣で刺した」
 ウラルは目を見開いた。無意識のうちに漏れかけた悲鳴、フギンがあわててウラルの口を手でふさぐ。
「ウラル? 何をしているの?」
 真っ暗になっていた二人のまわりをランタンの明かりが照らし出した。ウラルが遅いのに心配したのだろう、ミュシェが来てしまったのだ。
「その人は誰?」
 言ってから、ミュシェはフギンの半分鞘から抜かれたサーベルに気づいて悲鳴をあげた。
「母さん? どうしたんですか!」
 庭園を歩いていたエヴァンスとシャルトルが騒ぎに気づいて走ってくる。
「来て!」
 フギンが怒鳴り、表通りへ走り出た。ウラルも続くが、エヴァンスに腕をつかまれる。
「監獄のリーグ人を逃がした男だ。追え!」
 シャルトルがふたりの門番に怒鳴る。ティアルースが徒歩で、もうひとりが馬でフギンを追った。
 フギンはウラルを待たなかった。ぱっと裏道に入り、姿をくらましてしまう。ウラルの居所がわかったから助け出すチャンスはいくらでもあると思ったのだろう。
「フギン・ヘリアンか」
 ウラルはぐっと唇を噛み、エヴァンスの顔をにらみつけた。鋭い瞳がいぶかしむようににらみ返してくる。
 こいつが、ジンの、仇。
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