第二部 第三章 1「宿屋にて」 下

 目が覚めると、もう昼すぎだった。部屋にはアラーハひとりだけ。窓枠に腰をかけ、外を見つめている。
 アラーハはウラルが目を覚ましたのに気づくと、やさしく笑いかけてくれた。
「よく寝ていたな。おはよう」
「フギンたちは?」
「下で昼飯をとっている」
「アラーハは行かなかったの?」
「お前を一人にするわけにはいかんさ。どちらにせよ酒場では肉料理がほとんどだ。そのへんの市場で生野菜を買って、毎日それを食っていた」
 アラーハにとっておきのサラダを作ってあげたいな、と思いながら、そっか、ウラルはうなずいた。
 顔を洗い、髪を整える。荷物はないので、服はエヴァンス邸でメイドをしていたとき、着ていた服の一着しかない。とりあえずエプロンをはずせば普通のワンピースだが、エヴァンスの家のものを着ているというだけで腹が立った。
「アラーハ、買い物に行かない?」
 アラーハは驚いたようにウラルを見、ウラルの服を見た。
「そうだな。俺も、腹が減った」
 ウラルはほほえんだ。アラーハとふたりで買い物なんて、初めてだ。
「フギンの上着、借りていいと思う?」
「下にいるから、出て行くとき言っておけばいいだろう」
 フギンの茶色いチョッキを着、ボタンをしっかり閉めた。エヴァンスらが探しているかもしれないのだ。いくら市場の雑踏の中といえど、こんな純白の服ではどうしたって目立つ。
 下への階段をおりる。狭い階段では、大柄すぎるアラーハの両肩がつっかえていた。アラーハは強引に体をななめにし、角の剣でごりごり壁をこすりながら、なんとか降りていく。
「買い物、行ってくる。フギン、チョッキ借りていい?」
 食事をかっこむのに忙しいフギンは、肉で口をいっぱいにしながら、行ってらっしゃい、ともごもご返事をした。
「気をつけるんだ。いつ、どこに追っ手がいるかわかったものではない。これを持っていけ」
 ダイオはさすが騎士とあって食べ方が優雅だ。だが、さすが派手好き。高そうな料理ばかりが机にならんでいく。
 持っていけ、と言ってウラルに渡したのはフギンの財布だ。高い料理を注文するくせに、監獄から出てきたばかりのダイオは一文無しなのだった。フギンのほうは〈ゴウランラ〉の戦闘直前にウラルが預かっていた金貨を返したから、それなりの金を持っている。
 苦笑しながら財布を受け取り、アラーハとふたりで「大鹿亭」の外に出た。細道をぬけ、表通りに出れば、そこがもう市場だ。このヒュガルト町は南北交易の主要都市だから、市場の品物はびっくりするほどいろいろなものがある。いくら戦争で疲弊したといっても、被害の大きかった北部へ南部から運ばれる食料や、東の港から持ち込まれる魚介が集まりそれなりのにぎわいを見せていた。
「ああ、おじさん! 今日は娘さんもいるのかい? いいニンジン、仕入れといたよ!」
 野菜売りのおやじの声に、アラーハが口元をほころばせた。おやじの店に行き、ニンジン数本とハーブを数種類買う。
「顔なじみ?」
「ああ。このごろはあの店で買うことが多い。店ごとに同じニンジンでも味が違って、おもしろいんだ」
 アラーハがニンジンを生のままかじった。皮も、葉っぱも生のまま、ぼりぼりと残さず食べてしまう。
「葉っぱ、苦くない?」
「いや。この店のニンジンは、葉っぱがうまい」
 ハーブも歩きながらバリバリ食べてしまった。アラーハの背が高すぎて目立つこともあり、通行人の好奇の視線が集まっている。
「俺、変か?」
 ぼそっとした呟きに、ウラルは思わず吹き出した。
「うん、ちょっと」
「そうか」
 憮然とした声に、また笑みが漏れた。
 服屋でワンピース二着と、男物の服をひとそろい買う。エヴァンスの白いワンピースを売り払い、着慣れたあまり良質でない綿の服を着ると、驚くほどほっとした。
「似あう?」
「ああ。よく似あう。それ、持ってやろうか」
 服をいれた皮袋をアラーハが背負ってくれる。別に重いものではないが、アラーハの心遣いがうれしかった。
「あれ? 何だろう」
 市場の端にある神殿、もちろんベンベル人のものではなく四大神の神殿の前に、黒山の人だかりができている。
「アラーハ、見える?」
「いや、遠すぎてわからない。行ってみるか」
 近づいてく。野次馬たちは騒ぎもせず、じっと立ちつくしているだけだ。おごそかな雰囲気とさえいえる。それが逆に、気味が悪かった。
「ベンベル人が警備している。少し、離れて見よう」
 ウラルには人だかりのせいで何が起こっているのか見えないが、飛びぬけて背の高いアラーハには見えるらしい。
「警備の中でリーグ人の男女が四組、ひらひらした服を着て、手をつないでいるな。見えるか?」
 アラーハがウラルを肩にかつぎあげた。
 視点が高くなり、人だかりの先が見える。ウラルは背筋に粟が立つ感覚をおぼえた。
 たしかに、ひらひらした豪華な服を着た男女あわせて八人のリーグ人が、ベンベル人の警備の中に立っている。男は頭の頂点の髪を独特の形に剃り、女はゆったりと結っている。この髪型は神官独特のものだ。手はつないでいるわけではなく、手かせで強引につなぎあわされている。
「ひどい。どうして」
 不自然なところはまだまだあった。リーグ人には、風神祭のときにまとめて結婚式をあげる風習がある。風神祭はもう少し先、ブドウのなる時期だ。それ以外の時期にあげると、風神の定めを破ったことになり、重い病をわずらってしまうと言われている。
 ベンベル人に小突かれ、神官たちが誓いのキスをした。
 結婚してはならないと定められている神官が、強引に結婚式をあげさせられているのだ。
「おろして、アラーハ。見たくない」
 吐き気をこらえながらアラーハとふたり、すぐにその場から離れる。ウラルの顔が青いのに気づいたアラーハが、おずおずと背をさすってくれた。
「なぁ、ウラル。聞こうと思っていたんだが」
 アラーハの口調が重々しい。
「ジンを殺したやつを、殺そうと思っているか?」
 とまどったような口調に、ウラルは驚いた。
「このままじゃ、みんな、気がおさまらないよ」
 ベンベル人は極悪非道の人種だ。さっきの強制結婚式といい、とてもじゃないが、許しておけない。当然、アラーハも息子を殺されて、エヴァンスをひどく憎んでいると思っていた。だが、アラーハの口調には、迷いがある。
「アラーハは、どうなの?」
「俺は、誰かを殺したり、殺されたりするのは、もうたくさんなんだ」
 アラーハがゆっくりとかぶりを振った。
「監獄のときは、マライを助けられなかった。そればかりか、お前が捕まってしまった。さいわい、お前は帰ってきたし、誰も死ななかったが、次こそ、誰かが取り返しもつかないことになるかもしれない」
 わずかに、その声が震える。
「ジンを殺したやつは、もちろん憎い。だが、ここで、こんな形で出会わなければ、おそらくは俺が一生を終えるまで、復讐しようとは思わなかったはずだ。目の前にいれば憎くなるが、殺さなければ殺されるとか、そんなものではない」
 アラーハが立ち止まる。
「フギンやダイオにも、今晩、同じことを言おうと思っている。だが、もし、二人が行くと言うのであれば」
 獣の目が、光った。
「俺は、森へ帰ろう」
 アラーハがウラルに向き直る。静かで堂々とした、その姿。
 ウラルはうつむく。アラーハの手が細かく震えているのが見えた。静かなのは見かけだけだ。だが、手が震えるほどの憎しみより、仲間を失うことをアラーハは恐れている。
「ウラル姉ちゃん! アラーハ!」
 前の方に、二人に向かって大きく手を振っている子どもがいる。
「ナウト!」
 飛びぬけて背が高く、目立つアラーハは格好の目印だ。ナウトがこっちへ駆けてくる。
「ウラル姉ちゃん、よかった!」
「来るな、ナウト!」
 アラーハが怒鳴るなり、すっとウラルの腰を抱くようにした。ウラルはびくっとなって、アラーハの顔を見返す。
「あの男」
 押し殺すような声に、ウラルはアラーハの険しい視線の先を見た。
 栗毛の男が、雑踏の中に立っている。その緑の目がかろうじて見える距離だ。
 シャルトル。
 アラーハがウラルを背負って逃げる構えをする。アラーハが本気で走れば、ついてこられる人間はいない。だが、ウラルとナウト、ふたりとなっては、背負う間に間合いをつめられる。
 シャルトルが平手を前に突き出し、首を左右に振って、「ストップ」の仕草をした。
 アラーハはウラルを胸に抱いたまま、きつい目つきでシャルトルをにらんでいる。シャルトルは静かにほほえみ、そのまま後ろを向いた。
 去っていく。
「何なんだ、あいつ」
 アラーハが緊張をとき、ウラルから離れる。
「あの人、誰なの?」
 ウラルは震えながらナウトを抱きしめた。
 シャルトルには、もしかするとテレパシー能力か何かがあるのかもしれない。シャルトルは一言も話さなかったが、ウラルには、シャルトルの思いがはっきりわかった。
(よかった。あなたは、そちらにいるほうが、幸せそうだ)
「ナウトが私の居場所、見つけてくれたんだって? ありがとう」
 強引に話を変えると、ナウトはおずおずとうなずいた。
「フギン兄ちゃんにも、ほめられたよ。もうあの人、怖くないや。いっぱいお金くれたもん」
「私の絵も買ってくれたんだって?」
「帰ってきた兄ちゃんに、変な顔されちゃった」
 物乞いの、十歳の子どもが女性の絵を壁にかけているのだ。それは、変な顔もされるだろう。
「ひとまず帰るぞ。ナウト、お前、今日は兄ちゃんが帰ってくる日か?」
「うん。帰ってくる日」
「じゃあ、とりあえず、今は俺たちと一緒に来い。あとで送ってやる。あの男に後でもつけられたら、大変だ」
 ナウトの表情が一気にこわばった。
「大丈夫だ。あの男の様子ではそんな気もないだろう。念のためだ」
 なだめるように言い、アラーハは周りを警戒しながら歩きだす。大股で歩いていくアラーハを、小走りになりながらウラルとナウトも追った。
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