第二部 第三章 2「月夜の広場」 下

     *

 フギンがもう一部屋、予約をいれておいてくれたので、ウラルは気兼ねなくベッドを使うことができるようになった。フギンとダイオ、ウラルとアラーハがそれぞれ同室だ。
 アラーハは帰ってきていなかった。ナウトを送りに行っただけにしては、あまりに遅い。
 窓から見える月を見ながらぼうっとしていると、やがて、がりがりと角の剣が階段の壁をこする音が聞こえてきた。
「お帰り。遅かったね」
「寝ていたか?」
「ううん。待ってた」
 アラーハが月明かりの中でほほえむのがわかった。
「散歩、行かないか」
「散歩? こんな時間に?」
 アラーハはうなずいて、また、階段を降りていった。ウラルもあとを追う。
「フギン、あれから何か、言っていたか?」
 フギンに突き飛ばされたことは伏せておくほうがよさそうだ。
「ちょっと怒ってたけど、何も」
 アラーハはそうか、とうなずき、それなりににぎわう「大鹿亭」を出て、夜の町をゆったりと歩いていく。
「いい風が吹くな、今日は。月もきれいだ」
 夏の終わりの夜風が吹く。月は満月に近い。
「ジンに出会った日も、こんな晩だった」
 アラーハが目を細めた。遠くを見ているように見えるが、実際に見ているのは昔の思い出なのだろう。
「ナウトを見て思い出したの?」
「ああ。子どもをおぶうのは久しぶりだった。ウラルの父親はどんな人だったんだ?」
「五歳くらいまでは一緒に暮らしていたんだけど、それからは、兵役に行ってしまって。よく覚えてないの」
 アラーハは質問したことを後悔でもしたのか、返事をしない。
「ね、もっと月がよく見えるところに行こうよ」
「いいな」
 月がよく見えて、座ってゆっくり話せる場所といえば、広場だ。ふたりでメインストリートをまっすぐ歩いてく。城門前の東広場がすぐそこだ。
 広場のベンチに座り、月を眺めた。
「誰もいないから、いいよな」
 アラーハの姿が、すーっとかげろうのようにぼやけた。
「この姿も、ひさしぶりだ」
 月光に枝角を光らせた、一頭の巨大な獣が立っている。すっとウラルの足元に寝そべった。それくらいで、ベンチに座ったウラルと目線の高さが同じになるのだ。
「誰か来たらどうするの?」
「幻覚を見たことにでもしてもらおう。あるいは、ごくごく普通のイッペルスが迷いこんできたか」
「うまく口裏をあわせなくちゃね」
「口裏をあわせるにも、俺は話せないことにしておかきゃな」
 ウラルの口元に笑みが広がった。アラーハも人に比べれば表情のとぼしいイッペルスの顔で、うっすらとほほえんでいる。
「ひとつ打ち明けてかまわないか?」
「何?」
 アラーハがウラルのペンダントに触れた。チュユルの花が描かれた真鍮の小さなコインも、月明かりに照らされている。
「ウラル、俺は、このまま帰らないでいようと思っている」
 ウラルの顔から笑みが消えた。
「フギンは止められそうにない。それに森が呼んでいる。守護者争奪戦にむけて、俺は、帰らなければ」
 夏の終わりの、夜風が吹く。
 アラーハが後ろの城壁を見やった。城壁の向こう側は麦畑が広がっている。さらにその向こうには、ヒュグル森が広がっているのだ。
「一緒に、このまま、行かないか」
 アラーハが立ちあがった。ゆっくりとウラルを見おろす。あまりにも巨大な、イッペルス。
 ウラルは立ちあがらなかった。答えも返せなかった。アラーハの表情はやわらかかったが、底光りのする目をしている。このまま本当に、フギンにもダイオにも別れを告げず、行く気なのだ。
「ごめん、あの何日か、考えさせて」
「今、決めてくれ」
 フギンと共に復讐に向かうか、アラーハと共に平穏へ帰るか。
 ウラルは胸元のペンダントをにぎりしめた。ジンならどうするだろう。ジンはどう思っているのだろう。
(ジンの願いを忘れたのか? ジンは平和を願っていたはずだ!)
(俺たちのために復讐してくれ。あいつを殺してくれ!)
 どちらが、ジンの気持ちなのだろう。
 ウラルは目を閉じた。アラーハの視線が痛い。
「ごめん、アラーハ」
 目を開ける。アラーハの目はどこまでも静かだった。
「エヴァンスの家の中を詳しく知っているのは、私だけでしょ。私が抜けたら、フギンとダイオが死ぬ率が、高くなっちゃう」
 アラーハの姿が、また、すうっとぼやけた。見慣れた狩人の姿になる。獣の皮のベストを着、蹄の靴をはいた、見あげるように背の高い男。普通の狩人なら弓を背負っているはずの場所に、角の剣をつるした壮年の男。
「わかった。送っていこう」
 アラーハがウラルに手を差し伸べる。ウラルはその手を取り、立ちあがった。
 二人でまた、メインロードを歩き、「大鹿亭」に戻る。
「すべてが終わったら、フギンとダイオも連れて、戻ってこい。俺は、森で待っている」
 ウラルはアラーハをだきしめ、その額にキスをした。
「ありがとう、アラーハ」
 アラーハがきびすを返した。闇の中に、その巨体が消えていく。また会えるとはわかっているのに、なぜかその後姿が寂しくて、ウラルはぎゅっと胸元のペンダントをにぎりしめた。
 まるで、もう、二度と会えないような気がしていた。
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