第二部 第三章 3「にぎりこぶし」 下

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 ごぉん、ごおぉん。日没前の祈りの時間を告げる鐘が鳴り始める。西に向かい、地面に体を投げ出したティアルースともう一人の門番。その前に、夕日を背にしてウラルは立つ。
 腹ばいに地面に寝そべり、祈りの最中だった二人がウラルを見つめ、驚いた様子で目を見開いた。
「ティアルースさん」
「ウラルさん、なぜここに。戻ってきてはいけない。早く。スー・エヴァンスに気づかれないうちに」
 早口のベンベル語だったのでちゃんと聞き取れたかはわからない。ウラルは目を伏せた。
「ごめんなさい。よくしていただいたのに」
 彼らの背後に忍び寄っていたダイオとフギンが襲いかかる。ダイオは二十年も戦場を駆けめぐってきた騎士。フギンは元盗賊で、片腕ではあるが実践経験豊富。門番たちはふたりに気づく間もなく槍と剣の柄で頭を殴られ、あっけなく昏倒した。気を失った二人にフギンとダイオが手際よくさるぐつわを噛ませ、後ろ手にしばって門の内側へ転がしておく。
 夜明け前と夜眠る前の祈りは、使用人もエヴァンスも一緒に二階の祈りの間で儀式をする。だが、正午と、日没前、日没後は、門番たちは仕事を離れられないので、門の前で祈る。祈りの間にいるのは、普段はエヴァンスとシャルトルの二人。シャルトルは今日いないので、エヴァンスはひとりで祈りの間で儀式を行っているはずだ。
 広い庭を突っ走る。エヴァンスの読経が聞こえてきた。深みあるテノールで、歌うように祈っている。
 フギンがぱっと壁のレンガのくぼみに手をかけ、体を持ちあげた。エヴァンスのいる祈りの間まで、ずるずると窓の外をよじ登っていく。
 ウラルとダイオは音をたてないようにドアを開け、屋敷の中に入った。ウラルがダイオを先導し、足音を忍ばせながら階段を駆けあがる。
 祈りの間の前に来た。
 ダイオがドアに耳をあて、中の様子をうかがう。ウラルに「ここで待っていろ」と身振りで指示をした。
 祈りの声が途絶える。
「何者だ」
 ダイオが勢いよくドアを蹴り破った。同時に、窓の外で待ち構えていたフギンが窓ガラスを叩き割る。
「頭目の仇だ、このゲス野郎!」
「主君の仇!」
 大きくフギンが槍を振りかぶる。エヴァンスが腰にはいていた長剣でそれを防いだ。大きくしなったシャムシール。
 エヴァンスの空いた左脇をダイオの剣が襲う。エヴァンスがぱっと後ろに跳び、それを避けた。
「お前は!」
 エヴァンスがダイオの顔を見て、短いベンベル語の叫びをあげる。
「我輩の顔に覚えがあるか」
 フギンはともかくとして、ダイオは一国の高位騎士。エヴァンスが顔を覚えていてもおかしくはない。
「まさか、こんなところでつながっていたとは。ウラルの尋ねたことはこういう意味か」
 リーグ語。さっきの一言にはまじっていた狼狽が、もう口調から消えている。ドアの陰にいたウラルとエヴァンスの目があった。青い目が煌々と燃えている。
「平和のうちに去るがいい。さもなくば我らが神のいかずちが、きさまらの脳天に落ちようぞ」
「賽は投げられた。後にひくわけにはいかぬ」
 ダイオが剣を構えた。
「お命、頂戴申す」
「みんなの仇だ。お前のせいで、何人の仲間が死んだと思ってるんだ!」
 フギンの鋭い突き。エヴァンスが体を開いてそれをかわしざま、フギンの喉笛めがけて剣を振る。フギンは素早く槍の柄をまわし、石突で剣をはじいた。だが、片腕だからだろうか。力が足りない。フギンの羽帽子が吹き飛ばされる。
 ダイオがエヴァンスの背後から襲いかかった。フギンの隙に切りこみかけていたエヴァンスが舌打ちをしながら、ダイオの剣を受ける。そのエヴァンスに、またフギンが襲いかかった。
「監獄に忍びこみ、リーグ人を脱走させたのち、逃げたのはウラルを含めずに三人だったという。あとの一人はどうした」
 ダイオとフギンは答えず、黙ったまま、エヴァンスに襲いかかる。
 ジンの黒マントを着たフギン。真紅のサーコートのダイオ。そして、群青のジャケットに身を固めたエヴァンス。息の乱れる音。武器の触れあう音。剣と剣、剣と槍の刃から火花が散る。
 フギンが大きく槍を振りかぶり、切りかかった。エヴァンスの腹を薄くそぐ。エヴァンスの眼光が鋭さを増した。
 エヴァンスが槍の穂先近くを足で踏みつける。そのままもう片方の足で槍の柄を蹴り折った。
 武器を失ったフギンがとっさに左腕の義手でエヴァンスの頭を殴りつける。エヴァンスはその義手をつかみ、ひねりあげ、そのままフギンの体を窓の方へ容赦なく突き飛ばした。
「ボウズ!」
 窓を突き破り、呪詛の声をあげながら、フギンは窓の外へ落ちていく。
「フギン!」
 ウラルも黙って見ていられなくなり、部屋の中へ踏みこんだ。来るな、とダイオが怒鳴る。エヴァンスが再び、ダイオに切りかかった。リーグ騎士とベンベル騎士の一騎打ち。赤と青の激突。ウラルが見る限り、ふたりは互角だ。
 ウラルはジンのアサミィをにぎりしめた。フギンは大丈夫なのだろうか。まさか、死んでしまったのでは……。
 目にもとまらない速さで打ちあわされるサーベルとシャムシール。二人ともが、腕に、顔に、肩に、わき腹に、どんどん傷をおっていく。
 先に、大きな傷を相手におわせたほうが、勝ちだ。
「火神よ、あなたの加護を与えてください!」
 アサミィをにぎりしめ、ウラルは叫ぶ。
 貧血を起こしたときのように頭がすーっとぼやけるようになり、周りの全ての音、光や、色が遠ざかった。
(行け、ウラル! エヴァンスに一瞬でも隙を作らせれば、ダイオは勝てるぞ!)
(俺たちのために復讐してくれ。あいつを殺してくれ!)
 耳の奥で、ジンの声が叫んだ。亡霊の声が、同時に頭の中で爆発する。
 ウラルはアサミィの鞘を抜いた。構える。
「ジンの、仇!」
 エヴァンスに切りかかる。
 突然の攻撃に、エヴァンスはぎょっとしたような表情をうかべた。ウラルがはじめて見た、エヴァンスの表情らしい表情だ。
 が、ひるんだのはエヴァンスばかりではなかった。ダイオも一瞬、動きを止める。我に返るのは、エヴァンスの方が一瞬、はやかった。
 エヴァンスの剣がダイオの腹をつらぬく。
 ダイオが口から血を吐いた。真紅のサーコートの腹が、もっと深い、ほとんど黒の赤に染められていく。
 血の海に、ダイオが沈んだ。
 気合と共にウラルのアサミィがエヴァンスの背後を襲う。入った、と思った瞬間、エヴァンスは体を開いてそれをよけ、かわしざまウラルの後頭部に手刀を叩きこんだ。
 気が遠くなる。全身から力が抜け、ウラルはダイオの隣に倒れこんだ。
 ダイオが取り落とした剣をとろうと、ゆっくりと手を伸ばすのがわかった。ダイオも気を失いかけているのだろう。ゆっくりと手を伸ばすのだが、遠近感がなくなっているのか、剣に届かない。
 頭を殴られたせいか視界が暗かった。まるで夜になったかのようだ。
 その暗い中、ダイオの枕元にジンが立っていた。
「フギンが死んでしまった。ダイオも、もうすぐ死んでしまう」
 ぞっとするような低い声。ジンとは思えない、暗い表情をしている。
 ジンはウラルの手元に転がっていた真鍮のアサミィを拾いあげた。
「すまん、ウラル」
 鋭く研がれた切っ先が、ウラルの喉元につきつけられる。
「復讐を果たせなかったのは、おまえのせいだ。俺もこんなことはしたくないが、悪く思わないでくれ」
 ぼんやりとした意識の中、ウラルはアサミィの柄をジンの手の上からにぎった。ジンの手は温かみがなく、まるで空気をにぎっているような形のない感触だった。
 ゆっくりと、自分で、アサミィを喉元に持っていく。ジンが薄ら笑いをうかべた。
「やめろ!」
 ぱっと、急に視界が明るくなった。光の中で「ジン」が顔をゆがめる。どす黒い、ジンとは似ても似つかない死者の顔。
「だまされるな、ウラル!」
 さっきまでとは打って変わって、力強い、本物のジンの声。喉もとのアサミィを蹴り飛ばされる感触がした。
 はっと我に返ると、エヴァンスが青ざめた顔でウラルを見下ろしている。アサミィを蹴り飛ばしたのは、エヴァンスだった。
 窓の砕ける音がする。石がいくつもエヴァンスにむかって投げられた。窓の外で待ち構えていたフギンが戻ってきたのだ。祈りの間は二階にあるといえど、一階は半地下だ。二階は決して高い場所ではない。大怪我はしなかったのだ。
 エヴァンスが剣を抜いてフギンを迎え撃とうとする。が、かろうじて意識を保っていたダイオがウラルのアサミィを取り、エヴァンスの足に切りつけた。エヴァンスが横転する。
「大丈夫か、ウラル!」
 フギンがウラルを肩にかつぎあげた。
「すまん、ダイオ!」
 瀕死のダイオを置いて、フギンは窓から外へ跳んだ。
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