第三部‐第四部間章 1「森の呼び声」 下

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 日中、ウラルの休息とエヴァンスの祈りの時間のほかはほぼ止まらずに駆け続けた。森が近づくにつれその呼び声が強くなっているのだろうか、アラーハは疲れているはずなのにぐんぐんスピードをあげていく。
 ウラルはへとへとだった。疲れきった足が時々痙攣をおこす。さすがのエヴァンスも疲れきってフラフラ川へ向かおうとする馬の扱いに手を焼いているようだ。
(もう少しで森だ。がんばれ、ウラル)
 アラーハが時々視線を送ってよこす。
「そろそろ日没の祈りの時間だ。止まってもらえないか」
 エヴァンスの声に心底ほっとした、その時だ。
 火薬のにおいがふっと鼻をかすり、ウラルはぎょっとしてそちらを見た。なぜこんな畑のど真ん中であの忌まわしいにおいがするのだろう? アラーハも気づいたらしくそちらを見、不意に今まで以上のスピードで駆け出した。
「アラーハ?」
 アラーハの目指す先に異様なものを見つけ、ウラルはぎょっと目を見開いた。
 ジャガイモ畑の一角が崩れ、水をたっぷり含んだ真っ黒い泥がむきだしになっている。その中に黒い小山があり、そこからにょっきりと短い木がはえていた。いや、木ではない、イッペルスの枝角だ。その周りには人、それもベンベル人らしい人の体がごろごろ転がっている。十数名はいた。うめいている者もいればぴくりともしない者もいる。
(ノアーハ! くそ、遅かったか!)
 絶望の響きが脳裏に轟き、ウラルはぎょっとアラーハを見た。今の声はジンではない。もう随分聞いていないなつかしい声、あの大男アラーハの声が。
 蹄の音が聞こえたのか、黒いイッペルスがかすかに頭をもたげた。その瞳にはいらだちと安堵、相反する二つの色。
(生きていたか……!)
 アラーハが見るからにほっとした様子でウラルを乗せたままノアーハに駆け寄った。ノアーハが四肢を動かすも、とても立ちあがる力はなさそうだ。
 ウラルは思わず喉元を押さえた。左の脇腹が大きくえぐれ、そこから血と腸独特の発酵臭が漏れている。火薬の傷らしく傷口の周りがこげていた。その上、あばらが折れて肺に刺さったのか口と鼻から血を吹いていて、ふいごのような呼吸音の中にごろごろ嫌な音が混じっている。
 これではとても助からない。目に力が残っているのが不思議なほどの重症だ。
(ノアーハ、人の姿になれ。森まで連れていく)
 アラーハがそっと鼻先でノアーハの額に触れた。ウラルが聞いた声と同じもの、アラーハの思念がそこからノアーハに流れこんでいく。
 守護者が森を離れて死ねば、森が滅びる。不意に〈ゴウランラ〉の戦場にアラーハが残らなかった理由を思い出し、ウラルは震えた。ノアーハがここで、森ではなくこのジャガイモ畑で死ねばヒュグル森が枯れ果てるのだろうか。
 ノアーハがぶるりと身をゆすり、毛皮をまとった大男の姿になった。アラーハによく似た、けれどアラーハの赤茶とは違い漆黒の毛皮をまとった若い男。人の姿になると傷の酷さが際立って見える。変身が負担になったのかアラーハの姿にほっとしたのか、目がどんよりと淀んできた。
「その男は、何者だ」
 そこらじゅうに転がったベンベル人たちに応急処置をほどこしていたエヴァンスが剣の柄に手をかけ、じっとノアーハをにらんでいる。いくら豪胆なエヴァンスとはいえ目の前で獣が男の姿になれば驚くほかがないらしい。
(ウラル、時間がない。こいつを俺の背に乗せてくれ)
 アラーハがウラルを鼻先でつつきせっついた。あわててノアーハの腕をとったが、ウラルでは到底運べそうにない。なにせエヴァンスよりも背が高い大男なのだ。しかも重症を負って体に力が入らないとなれば。
 ノアーハはもうぐったり目を閉じている。
「エヴァンス、お願い。この人をアラーハの背中に乗せるのを手伝って。知り合いなの。望む場所で死なせてあげたい」
 エヴァンスはじろりとノアーハを一瞥し、たしかに助かりそうにないなとばかり眉をひそめた。背中に差し入れられた男の腕に驚いたのかノアーハがかすかに目を開き、不意にぐるぐるうなりながらエヴァンスの胸倉をつかんだ。エヴァンスがとっさにノアーハの手首に手刀を叩きこむ。骨の折れる音が響き渡った。
(やめろ、ノアーハ!)
 アラーハの静止も聞かず、ぐるぐるうなりながらノアーハが再びイッペルスの姿になった。立ち上がりツノを振りかざそうとするもその力はなく、けれど血をしたたらせながら歯をむき出す口から、びったり後ろに伏せられた耳から、激しい怒りと憎しみの感情がほとばしる。
 ベンベル人は侵略者、この若き守護者の敵なのだ。
 エヴァンスが剣を抜き放つ。が、それを振るうまでもなくノアーハが横ざまに倒れた。
「……アラー、ハ、大、叔父……。森、を……やつらに……渡さない、で……」
 かすかな声が絶え絶えに聞こえてくる。今ので力を使い果たしたのか、その瞳から、全身から、命の灯がついに消えようとしていた。
 ノアーハの黒い体からふわりと翠の光が湧き上がる。ウラルは思わず目をしばたいた。ほじくり返されたジャガイモ畑の中にいるにもかかわらず、ヒュグル森の春のにおい、新緑のにおいとかすかな花の香りがする。
(許せ!)
 突如アラーハの後ろ足が跳ね上がり、ノアーハの角の付け根を蹴りつけた。その立派な枝角の一本が折れて飛ぶ。ノアーハの体を離れても翠の光はまだツノに宿ったままだ。
(ウラル、それを持って俺に乗れ!)
 ウラルが枝角をひっつかむと同時にアラーハがウラルの体をすくいあげる。腕にしっかり抱いた枝角から漏れる光がどんどん暗くなっていくのにぎょっとしつつ、森へ向けて全力疾走するアラーハのたてがみをつかんだ。
 この光が消えた時がノアーハの最期、そして森の終わり。
 アラーハがヒュグル森の最初の木の脇をすりぬけた瞬間、もう消える寸前だった翠の光がツノを離れ、ふうっとアラーハの体に吸いこまれた。
「間に合った、か」
 ちゃんと鼓膜を震わせる声がぼそりと響いた。
「ちゃんと声も出るらしいな。ウラル、また話せてよかった」
「アラーハ!」
 ウラルは思わずアラーハの太い首を抱きしめた。どうやら今の光を受け継いだことでアラーハは再び守護者になったらしい。
 アラーハはウラルの顔に鼻面をすりよせ、ぶるりと身をゆすった。アラーハの姿がかげろうのように薄くなったかと思うと、あのなつかしい狩人姿の大男が現れ、広い胸にウラルをかき抱く。
「俺はヒュグル森守護者、イッペルスのアラーハ! これより地神の命にてノアーハよりその任を引き継がん!」
 アラーハの大声、腹の底をゆるがす大音声が森に響き渡った。
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