第三部‐第四部間章 2「明かされたもの」 上

「〈聖域〉へ行かんとならん」
 アラーハはそう言って再びイッペルスの姿になり、ウラルを乗せて歩いていた。エヴァンスは倒れていたベンベル人の手当てのために残ったのか、追ってくる気配はない。
「ノアーハを埋葬しなくていいの?」
「イッペルスの死骸は土に埋めるべきものじゃない。いろいろな獣に食われ骨をかじられて森の一部になる、そういうものだ。たしかに森じゃなく畑に置いてきたのはしのびないがな。惜しいやつを亡くした」
 ウラルは光を失った枝角をぎゅっと抱きしめた。ジャガイモ畑に横たわった躯はベンベル人に切り刻まれるのだろうか、それとも畑の持ち主が冬の食料にでもするのだろうか。どちらにせよノアーハが望むであろう最期、森に還るという選択肢は迎えられそうにない。
「そういえばノアーハはずっとアラーハのこと『大叔父』って呼んでたけど、甥なの?」
「いや。弟の孫って何ていうんだ?」
「さぁ。そんなに歳が離れてるの?」
「そうだな、守護者の俺はイッペルスとしては随分長生きだ。曾孫も何頭か生まれている」
「アラーハの曾孫? イッペルスの奥さんいたの?」
 アラーハが笑った。
「何を言ってるんだ。イッペルスの守護者はヒュグル森最強のイッペルス、つまりはハーレムの主だぞ。この森のイッペルスはほとんど俺の血を引いている」
「ちょ、ちょっとまって、ハーレム?」
 なんとまぁ。俺にも若くてやんちゃな時代があったんだよ、と笑うアラーハにウラルはぽかんとするほかがない。ということはアラーハの義理の娘であるウラルにはイッペルスの義理の孫がわらわらいるということだろうか。頭が痛くなってきた。
「変だな。人の姿になったらお前に言いたいこと、こんなバカ話じゃないことが山ほどあったはずなんだが、何も思い浮かばんよ」
 ウラルはくすりと笑みを漏らした。
「私も同じこと思ってた」
「まぁいいか、おいおい思い出すさ。疲れたろう? 飯はちゃんと荷物に入ってるか?」
 荷物をさぐって硬く焼きしめたパンとチーズ、水を出す。
「俺はそこらの草でも食ってるよ。そんなに量は持ってきていないだろう? 水ももう少しいけば湧き水の出ている場所がある」
「えーっと、アラーハ? 座って食事にしない?」
 アラーハは一瞬黙り、苦笑した。
「すまん、このまま歩き続けてもいいか? 立ち止まる気になれんのだ。〈聖域〉が呼んでいる」
「ノアーハを助けるために走ってたんじゃないの?」
「もうあれほどの衝動はないさ。今あるのは守護者としての本能みたいなものだ」
 アラーハの背中の上で食事をとり、そのうなじに突っ伏してウラルは眠った。疲れていたから随分長く寝ていたはずだ。気がつけばアラーハは人の姿になっており、夜明けの薄明かりの中をウラルをおぶって歩いていた。
「何度かお前が落ちかけたもんだからな。もうすぐ着くぞ」
 アラーハの広い背中は居心地がいい。人外だからなのか、はたまたアラーハの性格か。ウラルは幼子に戻った気分で目を覚ましてからも長いことうつらうつらしていた。
 しばらく人の姿になれない間にアラーハは老けたらしい。黒かった髪は半分ほど白くなり、顔のシワも増えている。それでも筋骨隆々の堂々たる体は不思議に変わっていなかった。
 大神殿の柱のごとく間隔を置いてそびえ立つ巨木の森、腰まで届く下草を踏みしだきながらアラーハは進む。ウラルも来たことがないヒュグル森の最深部だ。
「歩いている間に思い出したんだ。俺はずっとお前に謝りたかった」
 ぽつりとアラーハがこぼすのに、ウラルはようやくはっきり目を覚まして首をかしげた。
「なにを?」
「まずは俺の正体をフギンに明かしていなかったことだな。あれは本当に申し訳なかった。それから、お前が俺を必要としている時に人語が話せない状態だったことだ。〈墓守〉になったんだろう? 俺が相談に乗ってやれれば、お前はこんな苦しまずに済んだかもしれない」
 ウラルはふうっと息をついた。
「私もずっと聞きたかった。あの人は誰なの?」
 アラーハは黙りこんだ。
「教えられない?」
「俺の口から言っていいんだろうか。だが、もうお前も察しがついてるんじゃないか?」
 察しなんてついてない、と答えようとした口をウラルは閉ざした。
 無意識に埋もれていた答えが意識にのぼってくる。
「〈守護者〉の主人は地神と水神。それなら〈墓守〉の主人は誰だ?」
 誇り高きイッペルスのアラーハが敬うのは守護者の主人、地神だけ。そのアラーハが〈ジン〉をも敬うのはなぜ?
「〈墓所〉、つまり『死後の世界』にお前を呼び、お前の心の中からジンの姿を借りて現れる。そんなことができるお方は、この世に一人しかおられないんだよ。逆に言えば一人だけおられる」
 あの夕暮れの丘が初めて現れた時、まだジンが生きていた時。あの墓にいたのは、誰だった?
「まさか……」
 アラーハがうなずいた。立ち止まり、ウラルを背からおろす。
「さ、着いたぞ。ここが〈聖域〉だ」
 ウラルは驚いて前を向いた。
 花の香りが鼻をかする。見てみれば金色の百合がぽつり、ぽつりと木の根元に咲いていた。ウラルはペンダントを手のひらに乗せ、じっと模様を見つめる。〈聖域〉にしか咲かないという地神の花、八枚花弁の金百合チュユル。
「彼らが見えるか?」
 アラーハが前を指す。巨木と深い下草の間から何頭かのイッペルスが興味深そうにこちらを見ていた。一頭、二頭、三頭――数える間にもどんどん増えていく巨大な枝角をかかげたイッペルスたち。アラーハと同じ鹿毛、あるいはノアーハと同じ黒鹿毛、それに栗毛、神秘的な純白のイッペルスもいる。
「見えるようだな。彼らが見えるならお前が〈聖域〉に入ることを地神がお許しになったということだ。彼らは俺の父祖、代々の守護者たちだ」
「代々の守護者って、みんな死んでるんじゃあ……」
「守護者死すのち風神のもとへ還らず。つまり俺たち守護者は人間やほかの動物のように風神によって『心の中の世界』へ還らない。俺たちは務めを終えたら地神によって〈聖域〉へ還り、若い守護者に知恵を授け、森を守り続けるんだ」
 巨木の陰にぽつり、ぽつりとイッペルスの骨が転がっている。
「〈守護者〉もまた〈墓守〉、ここが俺たちの〈墓所〉だ」
「アラーハも死んだらここに来るの?」
「ああ。お前はここに入る資格があるから、来てもらえればまた会える」
「ノアーハは? ここにいる?」
「いや、ここに来るには四年以上守護者を務めなきゃならん。ノアーハは任期一年だったからな」
 アラーハがウラルの手を引いた。ウラルの足が最初のチュユルの葉をかすめる。ふうっと水面に体をつけたような感覚と共にむっとするほどの森の香りがウラルを押し包んだ。青葉と花と霧、ヒュグル森の春のにおい。そこにふっと貴石の丘と同じ不自然なほど静かな、墓所の気配が漂っている。
「みんな、紹介が遅れたが〈風神の墓守〉ウラルだ」
 もはや目の前には何十頭ものイッペルスが押し合いへし合い集まっていた。その中からぴょんとツノのないイッペルスが飛び出し、ウラルらの前へ小走りに駆けてきた。
「彼女は俺の先代、雌イッペルスのエレーンだ」
『初めまして、ウラル。ここに人が来たのは何十年ぶりかしら』
 エレーンは小動物のように耳をぴくぴくさせた。ウラルよりははるかに大きい獣なのだが、ほかのイッペルスよりは小さく華奢でかわいらしい。
『〈風神の墓守〉が現れたということは〈戦場の悪魔〉はどうしたの?』
「彼女の主人が鎮めた。が、かわりに〈火神の墓守〉が現れた。彼女の主人は荒ぶる〈火神の墓守〉を鎮めようとしていて、俺たちの主人がこれに協力することになった」
『〈聖樹〉へ連れていくの?』
「そのつもりだ」
 さあっと道が拓けた。先に立って歩くエレーンに続き、ウラルとアラーハは守護者たちに見守られながら〈聖域〉の中心部へと進んでいく。
 巨樹があった。周りはすべて巨樹だが、そのどの樹よりも抜きんでた大木だ。遠くから見れば木、近くで見ればもう苔むした岩壁にしか見えない。その周りには多くの苔むしたイッペルスの頭蓋骨が並んでいた。
 木にはところどころに裂け目があって、中がきらきら光っている。どうやら中は大きな空洞になっていて、どこからか光がさしているようだ。その最も大きな裂け目、観音開きの扉ほどもある裂け目の前にウラルとアラーハは立った。
 うろの中は花園、金色の百合が咲き乱れる大広間だ。エレーンが一歩後ろに下がる。アラーハが中へ入った。ウラルも続く。
「アラーハ」
 呼びかけに振り返ったアラーハは、今まで見たことがないほど穏やかな顔でほほえんだ。〈聖域〉に入ってからアラーハは驚くほど安らいで見える。風呂あがりのようなほっこりした、穏やかな顔。
「そこに立ってくれ。ちょいと失礼するぞ」
 アラーハが視界から消えたと思うと、背後からやんわりと抱きしめられた。
「何をするの?」
 相手がアラーハだから不安はないが、まさか聖樹の中で愛の告白というわけではないだろう。身をよじってアラーハの顔を見ようとすれば、かすかに笑う気配と共に大きな手がウラルの目をふさいだ。
「お前をお前の主人のところに導く。目を閉じて俺の体にもたれかかってくれ。力を抜いて。そうだ」
 アラーハの腕は優しくウラルを包みこみ、触れているところから暖かな光のようなものがゆるゆると流れこんでくる。アラーハが人ではなくイッペルスでもなく、陽だまりのようなものに変わってしまった気がした。このヒュグル森の奥地にはえる大樹の根元で、木漏れ日の中のんびり昼寝をしているような居心地のよさ。
 眠たくなり、ウラルは自然にアラーハの胸へ身を預けた。かすかな獣脂のにおいと太陽のにおい。耳に当たる毛皮がくすぐったかった。
「よし、目を開けてくれ。俺もすぐに行く」
 耳元でささやかれ、ウラルは驚いて身じろぎした。
「すぐに行くって、アラーハ?」
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