第三部‐第四部間章 2「明かされたもの」 下

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 ウラルはぼんやりと目を開けた。優しい緑の光が目の前でちらちら踊る。〈聖樹〉のうろの中にできた窪みか、あるいは張り出したところか。ウラルはほかより一段高くなっているところに横たえられていた。
 頭が重い。体も筋肉痛でぎしぎしきしむ。起き上がりたくなくて、首だけを動かして辺りを見てみれば、すぐそばにアラーハが横たわっていた。チュユルの花に埋もれるようにして両手両足を投げ出し、仰向けになって眠っている。
 こんな無防備なアラーハを見るのは初めてだった。どんな時でも警戒しながら途切れ途切れに眠り、物音ひとつで飛び起きるアラーハとは到底思えない。地神と会っているのだろうか。どうやら心がまだ戻ってきていないようだ。
 急にさっき感じた恐怖と不安が戻ってきて、ウラルは横たわったまま自分の体を抱いた。風神が一瞬にしてジンに変わるさまが、そして燃えるファイアオパールの棺が目の奥に蘇る。
――俺たち四大神は全員が二重人格だ。
――火神の「狂気」の人格が〈戦場の悪魔〉だ。
「ウラル、戻ってきてるか?」
 降ってきた声に我に返る。いつの間にかアラーハが目を覚まし、ウラルを覗きこんでいた。アラーハの体に染みついたのだろう、チュユルがむっと香る。
「アラーハ……」
「そんな不安げな顔をするな。そんなにショックだったのか?」
 体を起こしたウラルの頭をアラーハの大きな手がなでる。ウラルは両手で顔を覆った。
「何が不安なのか私にもよくわからない。でも今は……」
「大丈夫だ、時間がたてばゆっくり染みこんでくる。今は無理をしなくていいんだ」
「アラーハは守護者になったとき、不安は感じなかったの?」
「俺にとっては守護者になるために戦うのが当たり前だったからな。なれたときは、ただただ嬉しかった。そこから不安がなかったわけじゃないが、この通り〈聖域〉には先代たちがいるし、ほかの森にはほかの種類の守護者がいる。俺が仕えているのが安定した地神だからというのもあるだろうが、お前のような不安は感じたことがないよ」
 けれど、ウラルの不安を少しでも理解しようとしてくれているのはわかる。アラーハが言葉を話せるのがこんな大きなことだったとは。
 ウラルはチュユルの紋章が刻まれたペンダントを手のひらに乗せた。そこにそっと唇を押し当てる。
「きれいなところね、ここ」
 少し落ち着きを取り戻してあたりを見回すと、アラーハはほっとした様子でほほえんだ。
「お前の〈墓所〉もきれいだった」
 アラーハにうながされて立ちあがる。〈聖樹〉を出たところにはエレーンをはじめ、たくさんのイッペルス守護者たちが待っていた。夢の中に迷いこんだ気分でぼんやり歩いていけば、ウラルの指先、足先を、あるいは鼻先、口元をイッペルスたちがかすめていく。かれらの体は透き通っていて、触れてもちょっと風が吹いた程度にしか感じられなかった。興味しんしんでのぞきこんでいるのか、あるいは祝福してくれているのか。こんな大きな獣に至近距離で囲まれているのに不思議と嫌な感じはしない。
「そうだ、アラーハ。この中に私以外の〈墓守〉を知っている守護者はいない?」
 アラーハが首をかしげて隣のエレーンを見やる。
『直接知っているかはわからないけど、年代がかぶっている守護者は何頭かいるはずだわ。クレーセ!』
 少し離れたところにいた漆黒のイッペルスが顔をあげた。
『いかにも、俺は騎士アレントが〈火神の墓守〉となった時代の守護者だ。だが国境は遠いし、俺は誰かさんと違って森をほとんど離れなかったからな。〈墓守〉についてはほとんど知らん。知っているならシラーグじゃないか?』
 クレーセの視線の先で純白のイッペルスがウラルを見つめている。
『ええ、僕はクレーセとアラーハ、ちょうど中間の年代の守護者です。横暴な王が国を治めていた時代でした。崩御とともにその名は抹消され記録も全て焼かれたというので、あなたは知らない歴史でしょう。王は戦いを好み、コーリラ国へ攻め込んでは、さらってきたコーリラの美女の血で入浴をたしなんだといいます。これを嘆いた風神が〈墓所の悪魔〉と化した時代がありました』
 ウラルは思わず喉もとを押さえた。
「〈墓所の悪魔〉が現れると、どうなるんですか?」
『〈墓所の悪魔〉が〈反転〉する、あるいは〈墓守〉を介した火神の力を受けない限り決して治らない、おそろしい病が流行します。僕は地神の命で〈火神の墓守〉をお助けしました。ちょうどアラーハがあなたを助けているように』
 ウラルはアラーハを振り返った。アラーハもまたウラルを見つめている。
「最後はどうなりましたか? ちゃんと王は斃れて、〈墓所の悪魔〉は〈反転〉したんですよね?」
 ええ、とシラーグはうなずいた。何か言いたげに口を開き、けれどすぐに何も言わないまま悲しげに口を閉ざしてしまう。
「何かあったんですか?」
『こんなことをあなたに言うのは酷かもしれない。けれど僕がここで言わなければ、おそらくあなたにはもう聞くチャンスがないんでしょう。ええ、暴君は〈悪魔〉の病を得て崩御し、〈悪魔〉は〈神〉に戻りました。そしてその後、〈墓所の悪魔〉の依代となっていた〈墓守〉の娘は狂死したんです』
「狂死?」
『飲まず食わず眠りもせず。一言も話さず、何日も何日も途切れることなく涙を流し、衰弱しきって死んでいきました』
「そんな……」
 さっき〈墓所〉で感じた不安がまた蘇ってきて、ウラルは震え始めた。アラーハの太い腕がウラルの肩を抱く。
「まさか、フギンもそんなことになるんじゃ……」
 一度〈悪魔〉を身に宿せば、依代になった人の精神は破壊されてしまうのではないだろうか。フギンも同じ〈墓守〉だ。今は火神が体を乗っ取っているが、フギンが戻ってくれば同じように狂い死ぬのではないだろうか。
「おそらくそれは事故だ。フギンはちゃんと戻ってくる」
「もしそうだったら? それでフギンが戻ってこられないから、火神がフギンの体を乗っ取ってるんじゃないの?」
 アラーハの顔がこわばった。シラーグ、エレーンと顔を見合わせ、再びウラルに向き直る。
「仮にそうだとしても、神々は必ず何か策を講じてくださるはずだ。ひとまず今はフギンを追おう。火神に直接尋ねるほかないだろう」
 アラーハの声に力なくうなずくことしかできない。もしフギンが狂死するようなことがあれば、それはウラルの責任なのだ。ウラルがあの場で突き放してしまったから。宿へ戻らなかったから……。
 不意に隣でエレーンが身をゆすり、人間の娘に変身した。
『随分しんみりしちゃったわね。わからないことを暗い顔で話していてもしょうがないわ』
 アラーハとそっくりの毛皮の服を着た、ウラルと同じ年頃の娘。華奢な手がウラルの頭をなでるが、手の感触はなく、ただふわふわと風が吹きつけるような感じがあるだけだ。
「変身できたの?」
『ええ、この姿になるのは何十年ぶりかしら。本当はおばあさんなんだけどね、一度死んでここに来ると守護者になった当時の姿に戻るみたい』
 エレーンが後ろを振り返る。集まっていた守護者たちが一斉に人の姿に変身した。そろいもそろって筋骨隆々の大男ばかり、女はエレーンだけだ。
『私は唯一の雌イッペルス守護者なの。前の守護者が事故で死んだあと、地神が私に守護者になれとおっしゃったのよ。滅多にないことなんだけどね』
 林立する大男たちにどぎまぎしているウラルにエレーンがいたずらっぽくウインクする。
『おかげさまで私が死ぬまで誰も守護者争いを挑めなくてね。私の死後は荒れたわねぇ、一年か二年で守護者が交代する時期が十数年も続いちゃって。そこを勝ち抜いたのが森一番の暴れ者、アラーハだったというわけ』
「エレーン」
 アラーハが苦笑まじりの声を出したが、エレーンに話を途中で切る気はなさそうだ。
『そりゃあもう凄かったわねぇ、秋になったらどんな雄イッペルスでも突っかかって叩きのめして。この森のイッペルスのほとんどがアラーハの血を引いてることからもわかるでしょう? とんでもない暴れ者だったの。でもジン君が来てから変わったわね。本当に丸くなった』
「エレーンはジンを知っているの?」
『直接は知らないけど、アラーハからたくさん話を聞いてる。昨日のように覚えてるわ、アラーハが困り果てた顔で、小さな男の子が迷いこんできたって相談しに来たときのこと』
 アラーハは黙って苦笑している。
『最初は邪険にしてたアラーハも、一年もたつころには立派な養父になったな。あれには俺たちも驚いた。あのやんちゃ坊主がなぁ』
 黒づくめの精悍な大男、神話時代の守護者クレーセが低い声で笑っている。本当になぁ、とその場にいた守護者たちがアラーハを小突き始めた。
「さて、ウラル。エヴァンスがどうやらお前を探しているみたいだ」
 さすがに恥ずかしかったのか、アラーハが強引に話題を変えた。いきなりエヴァンスの名前が出たのにウラルは驚き肩をこわばらせた。
「あの男のことだから帰り道くらいは把握しているのかもしれないが、俺の基準からすると迷っているとしか考えられん動きをしている」
「え、どうしてわかるの?」
「ああ、話していなかったか。〈聖域〉にいれば森の守護者は森にいる全ての生き物が大体どこにいるか把握できるんだ。特に人間に対しては感度が高い」
 うそでしょ、とウラルは目を見開いたが、アラーハはただ苦笑するだけだ。
「地神は地面に足の触れている生き物全てを把握しておられるからな。守護者は〈聖域〉にいればそのお力を貸していただけるというわけだ」
 隠れ里の長老の力のようなものかしら、とウラルは首をかしげる。あの時、長老は遠見の鏡に村人全ての居場所を映し出していた。
 アラーハが不意ににやりと笑った。
「ついでにいえば話しかけることもできる。エヴァンスを迷わせて殺す絶好のチャンスだが、どうする?」
 次はウラルが苦笑する番だった。
「そんな嬉しそうな顔して。私の返事くらいわかってるくせに」
「わかった、適当に誘導しておこう」
 アラーハは適当な巨木の根元に腰をおろし、頭をうなだれた。
『静かにしていてあげてね。今話しかけると、いくら彼でも混乱してしまうから』
 エレーンがウラルの耳元でささやく。ウラルはうなずき、また心と体を切り離してしまったアラーハを見守った。
(エヴァンス、聞こえるか)
 ふっとアラーハの声が耳をかすめる。鼓膜の震えない声。エレーンを見てみれば「大丈夫よ」と言いたげなウインクが返ってきた。耳をぴくぴくさせているところを見ると、エレーンをはじめとした守護者たちにもこの声は聞こえているようだ。
(誰だ)
 エヴァンスの声まで聞こえてくるとは思わなかった。アラーハの声に比べれば小さく、けれどはっきりと聞こえてくる。
(ウラルのことなら心配いらない。方向がわかるなら森の隠れ家へ向かえ。夜にはウラルを連れていく)
(……ウラルの言っていた『精霊』か?)
(違うが、似たようなものだと思ってくれていい。樹形や獣道はあてにするな、この森は迷いやすいからな。太陽と星、それから馬の勘を信用するといい)
 エヴァンスが何かを言い返す声がふぅっと遠ざかった、と思ったとたんアラーハが顔をあげた。口元には笑みがある。
「どうしたの? にやにやしちゃって」
「にっくき男の命運をこの手に握っていると思うとな」
 冗談めかした口調に思わずふきだした。
『ジン君を殺した人?』
「ああ、そうだ」
『本当に穏やかになったな、アラーハ。なぜ殺さない?』
 クレーセの問いに、アラーハの口元がふっとゆるんだ。
「ウラルが止めるからな」
 アラーハの大きな手のひらがウラルの頭の上に載せられる。どっしりとした重さと共に「ありがとうな」と言いたげな暖かなものが流れこんできた。
「ウラル、そろそろ行くか。ぐずぐずしていると真っ暗になる。ほかに聞いておきたいことはないか?」
 ウラルはうなずき、アラーハに手を取られて立ちあがった。
『アラーハをよろしくね。いつまたやんちゃ坊主に逆戻りするかわからないから』
『今度こそハッピーエンドになることを心から祈っています。僕らにできることがあれば遠慮なく言ってください』
 エレーンとシラーグの声にうなずき、獣の姿に戻ったアラーハの背をまたぐ。一度は人の姿になっていた守護者たちがイッペルスの姿に戻った。
 巨木の間を泳ぐように駆け始める。アラーハと共に〈聖域〉の境界をまたぐと同時に、隣を駆けていたエレーンの姿が、見送りに来てくれた大勢の守護者の姿が消え失せた。
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