第三部‐第四部間章 3「俺は守護者だ」 上

 深夜の森にノックの音が響いた。家に明かりはついているが、人が出てくる気配はない。隠れ家に入ったウラルにアラーハが続く。二階にあがれば暖炉の前にエヴァンスが立っていた。
 明かりもついていたしいるだろうとは思っていたが、実際ここにいるのにはやはり驚いてしまう。まさかこの隠れ家にエヴァンスを招くことになるとは。
 エヴァンスが口を開く。金の髪が暖炉の炎に照らされ揺らめいた。
「昼間の声の主か」
 鋭い声。「ああ」と短く答えるアラーハの声も低かった。
「ウラル、紹介してもらえるか」
「ウラルの父だ」
 ウラルが答える前にアラーハが名乗った。名前は言わない。「名前を伏せてエヴァンスと話してみたい」とウラルもしばらく名前で呼ばないよう言われていた。
 エヴァンスは無表情のまま黙ってそこに立っている。けれどさすがに驚いたのか、心なしかまばたきが増えていた。
「見ての通り血はつながっていないがな。俺とウラルはしばらく二人で旅をしていたことがある。そのときお互いの関係を説明するのが面倒だから、父と娘ということにしていたんだ。以来、俺はウラルのことを実の娘のように思っているし、ウラルも実の父のように慕ってくれている」
 エヴァンスの視線がウラルに向く。無言の問いかけにウラルはうなずいてみせた。
 お茶でもいれたほうがいいだろうか。二人の雰囲気はぴりりと険しい。だが、ウラルはここから離れたくなかった。台所は部屋の隅。そこで湯を沸かし、軽食の準備をしていても二人の話は十分聞こえるが、今は二人のそばにいたかった。
「ちなみに、俺にはウラルのほかにも息子がいてな。こちらも血はつながっていないんだが」
 アラーハはしばらく言葉を続けなかった。自分が「息子」の話を持ち出したのを忘れてしまったかのように、黙って暖炉を見つめている。
 やっぱりお茶をいれたほうがいいかもしれない。ウラルがやっと「お茶いれる?」と声を出そうとした、その「お茶」と「俺の」とアラーハが言い出した言葉が重なった。
「俺の息子の名は、ジンだ」
 あわてて口をつぐんだウラルに構わずアラーハが続ける。瞬間、ばりりと空気が変質した。
 アラーハの様子がおかしい。止めなければ。だが動けない。
 エヴァンスが深く息を吸い、ぴりりと背筋を伸ばしてアラーハの目を見据えた。
「……息子の仇討ちに来たわけではなさそうだ」
「ああ。憎んではいるが、もうお前を殺したいとは思わない」
 びっしり鳥肌がたった腕をさすりながらウラルは二人を見つめた。
 これは殺意ではない。殺意に似た別のものだ。けれどそれは憎しみでも怒りでもなく――いや、憎しみや怒りなのかもしれない。アラーハの内に渦巻く多くの感情、悲しみや祈りや、あるいはやっとエヴァンスと話せる喜びや……。部屋に充満しきってもまだ足りないほどの感情の波。
「俺はジンを十の歳から育ててきた。二十六年、共にいた」
 ごとりと暖炉の中の薪がくずれ、アラーハの瞳孔が赤く光る。
「エヴァンス。ずっとお前と話せたら一番に言おうと思っていた。ジンの最期を、お前の口から聞かせてくれ」
 一度強く輝いた熾火が落ち着き、部屋が暗く沈む。さすがのエヴァンスも迫力に押されたようで、アラーハから目をそらし暖炉の炎を見つめた。
「それを聞くために、わたしをここへ来させたのか」
「森で迷っていたんだろう? 見殺しにしようかとも思ったんだが、ウラルに止められてな」
 エヴァンスがかすかに苦笑した。本当に迷っていたらしい。
「どこから見ていた」
「森の奥だ」
「ウラルも一緒にいたのか」
「ああ」
 青い目が鋭さを帯びた。
「お前は何者だ? ウラルの父、ジンの父、それはわかった。それ以外にお前は何者だ? 名を聞かせてもらおう」
「この話が終われば明かす」
 エヴァンスはウラルを見たが、ウラルが目をそらすとそれ以上あえて尋ねようとはしなかった。ため息。
「道案内の礼にさっきの質問に答えたいところだが、わたしはあの戦で大勢のリーグ人を斬った。わたしはその大多数の名を知らない」
「黒いマントを着た義勇軍の大将だ。歳のころはお前と同じ、背格好もよく似ている。フギンからはお前と激戦になった末、斬られたと聞いている」
 沈黙がおりる。当時を思い出すようにエヴァンスが目を細めた。腰につるした剣の鞘を握り、離す。今まで不思議と意識しなかったが、おそらくこの剣がジンの命を奪ったのだろう。
「この家と、隣の家の中はひととおり見させてもらった。隣の家にルダオ要塞周辺の地図があったな。ジンが指揮をとったのはルダオ要塞近くの別の要塞だな? 山の中腹にある、周りの森に山ほど罠がしかけられていた」
「その通りだ」
「あの要塞のことはよく覚えている。その前に襲撃したルダオ要塞より死人が出たからな。後から敵が千人たらずだったと知って驚いたものだ。何人かと切り結んだ。たしかに、敵の大将らしき男とも剣を交えた。たった一人で打ちかかってきて、しかも若かったら、戦っている最中はただの将軍だろうと思っていたが……。あの男を倒してから一気に崩れたことといい、今の話といい、あれがジンだったのだろうな。マントは着ていなかったが、黒い皮よろいをつけて、黒い馬に乗っていた」
 アラーハが肯定のうなずきを返した。
 そうだ、黒マントはウラルが持っている。ジンが戦いのときに着ているはずがない。
「わたしから見れば彼は愚将だった。わたしなら勝ち目もないのに斥候を殺して敵を挑発などしない。少々時間がかかっても正規軍が出てくるのを待って挟み撃ちにするだろう。その方がわたしたちも打撃を受けたはずだ。要塞での戦いでも相手はこちらを甘く見すぎていた。もう少し、特にゴーランの力を知っていれば戦いは長引いただろう」
 アラーハは口を挟まず、黙ってエヴァンスの言葉を待っている。
「だが、大将としてではなく一人の男としては脅威だった。同じような服装の一団の中にいたにもかかわらず、大将であるわたしにまっすぐ襲いかかってきた。こちらへ斬りかかってくる者をおそろしいと感じたのは久しぶりだ。わたしが斬られていてもまったく不思議はなかった」
「だが、ジンは敗れた」
「そうだ。わたしがこの剣で、あの男の胸を貫いた」
 アラーハが目を閉じた。固く固く目を閉じ、かすかなうなり声を喉から漏らした。
「アラーハ……」
 思わず呼んでしまってから、ウラルはしまったとエヴァンスを振り返った。
 アラーハが目を開き、驚くほど穏やかな顔でウラルを見つめた。
「ウラル、いい。名前を伏せて聞きたいことはもう聞いた」
「まさか」
 低い声。ノアーハの変身が頭に浮かんだに違いない、さすがに顔色を変えたエヴァンスにアラーハは静かな笑みを向けた。
「そうだ、俺はアラーハだ。こんなことは起こるまいと思っていたが、地神に感謝するほかがないな。座って茶でも飲みながら話そう。酒のほうがいいか?」
 アラーハはヤカンに水をくみ暖炉の上につるすと、どさりとソファーに腰かけた。今までずっと立ち話だったのだ。エヴァンスはその場に立ちつくしたまま、険の消えた顔つきでアラーハを見つめている。
 急に膝から力が抜けて、ウラルはその場にへたりこんだ。
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