第三部‐第四部間章 3「俺は守護者だ」 中

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「(いや、ちょっと待ってくださいスー・エヴァンス。あなた冗談言えるお人でしたか?)」
 屋敷の入り口でシャルトルはすっかりパニックになっていた。真夜中に主君がウラルともども突然消えたかと思えば、指示通りに屋敷へ戻っても音沙汰なし。やっと帰ってきたと思えばとんでもない大男を伴っていて、しかもそれがあのアラーハだと真顔で言われるのだから混乱して当然だ。だからといって「あなた冗談言えるお人でしたか」はないと思うのだが。
「(わたしもさすがに驚いた。まさかウラルを捕らえたとき監獄で大暴れしていたあの男と、アラーハが同一人物だったとはな。しかもウラルの父親なのだそうだ)」
「(ウラルの父親? 本当にしばらくお会いしないうちに冗談がうまくなりましたね、スー・エヴァンス。まさかウラルさんと結婚する気になったから父親の許可をもらいに行ってきた、なんて言わないでしょうね? あの夜、僕が寝ている間にウラルさんと何があったんです?)」
「(シャルトル、お前は本気で私が冗談を言っていると思いたいらしいな)」
 笑いを押し殺しているウラルの横にはティアルースがあっけに取られた様子で立っている。ベンベル語がわからないアラーハも困り顔で立ちつくしていた。門番はティアルースともう一人しかいない。残る一人はミュシェと買い物に行っているようだ。
 昨晩、あれからエヴァンスは拍子抜けするほどあっさりアラーハのことを信じた。「初めに目があった時からこの男と戦ったことがあると思っていた」とも言っていたし、対峙した者だけがわかる気迫というものがあるのだろう。それに、エヴァンスにとってここは常識の通じぬ異国。「リーグにはそんなこともあるのだろう」と納得してくれたようだ。
「シャルトル、お前とはこの姿でも一度会っているだろうに。変身してみせるのが一番か」
 ウラルのたどたどしい通訳を聞いたアラーハが苦笑し、人が来ていないのを確かめるとイッペルスの姿になった。
 シャルトルの顔から血の気が引く。悲鳴すら上げられなかったようだ。二人の門番が即座に剣を抜き放ち主君を守るように立ちふさがった。
「(化物!)」
「(お前たちにかなう相手ではない。剣をおろして下がれ!)」
 ティアルースが打ちかかる。寸前、エヴァンスの怒声が飛び、ティアルースは危ういところで踏みとどまった。
「ベンベル人なら驚かないというわけじゃなさそうだな。エヴァンスを基準にした俺がバカだった」
 苦笑のつもりか鼻を鳴らしたアラーハを、驚いたことにティアルースが今まで見たことないほど苛烈な視線でにらみつけた。
「(森の化物。獣に変身する人間。俺の友人はお前に重症をおわされた)」
 エヴァンスが眉をひそめ、アラーハに通訳して「心当たりはあるか」と尋ねた。
「それは俺の甥、ヒュグル森の守護者だった獣だ。三日前に死んだそいつに代わって今は俺が守護者を務めている」
 アラーハが人間の姿に戻る。険しい顔、鋭い眼光。大柄な自分より頭ひとつ大きな男、いや森の主から見下ろすように睨まれ、ティアルースが息を呑んだ。
「お前に森の木を切ろうとする友人がいるなら伝えてくれないか。森の木を片っ端から切るのはやめてくれ。お前たちの国ではどうだったか知らないが、この国の森は人間のものじゃない。地神のものだ。地神の命を受けて俺たち〈守護者〉が管理しているものだ。もしお前たちがこのまま森を好き勝手にしようとするなら、俺のほうも強硬手段をとらせてもらう」
 ティアルースの顔から萎縮が怒りに突き飛ばされ失せるのがわかった。
「(今まで何人も殺しておいて何を言う)」
 アラーハが唇の端に薄い笑みをひらめかせる。アラーハもまたノアーハの死に様が目の奥に蘇ったのかもしれない。
「俺は今までの若い守護者とは違う。老獪な獣をなめないでくれ。ある一定のところを踏み越えたら、俺は霧をおこしてお前たちを迷わせる。心配するな、最初はちゃんと誘導して帰してやる。だが、もし森で火事が起こったら森に立ち入るな。焦げた木々のさらに奥へ進んだ者は、もう二度と帰さない」
 淡々とした声にウラルの方が震えあがった。守護者の力はどうやらウラルが思っている以上に強大らしい。
「(ティアルース、その通りに伝えてやれ)」
 アラーハの言葉をベンベル語に翻訳した後、続けたエヴァンスにティアルースが抗議の声をあげた。
「(異教の悪魔に屈するおつもりですか、スー・エヴァンス!)」
「(そんなつもりはない、我らが神は偉大だ。だがこの男に力があるのも確かだ、立ち向かうには十分な準備と力がいる。お前たちも覚えているだろう。こやつはウラルが監獄で捕まった時、南門で暴れていた男だ。五十人がかりで火薬を持ち出してもろくな傷を負わせられなかった怪人だ)」
 ぎょっと門番二人が顔を見合わせた。彼らもあの場にいたらしい。
「アラーハ、あの時そんな大変なことになってたの?」
「なにがだ?」
 ベンベル語を解さないアラーハは首をちょっとかしげるだけ。いくらアラーハでもまさか真正面から戦ったわけではないだろうが……。
「(この国にはこの男のためだけにそんな労力を裂く余裕はない。ならば今は捨て置くべきだろう。騎士権を剥奪された今のわたしに命令は下せぬ、お前から噂の形で広めるしかあるまい)」
 ティアルースががっくりと肩を落とし、ようやく了解の返事をして引き下がった。
 これで満足かと言いたげにエヴァンスがアラーハを見る。アラーハがうなずき、ウラルを振り返った。
「帰るか。エヴァンス、俺はいろいろと用事があるし、ウラルも疲れている。出発は何日か待ってもらっても構わないか?」
「このままウラルを連れて逃げるつもりだとばかり思っていたぞ」
 エヴァンスが薄く笑う。アラーハも軽く笑って応じた。
「俺とウラルは森の隠れ家にいる。用があるなら訪ねてくれて構わない」
 アラーハがきびすを返す。ウラルも軽く会釈して門を出た。
 そういえばミュシェに会い損ねたな、とウラルはエヴァンスの屋敷の隣の小ぢんまりした家を見あげた。ミュシェがアラーハを見たらどんな顔をしただろう。「今日は巨人族の彼も一緒なのね」とウラルに笑いかけてくれただろうか。
「市場で野菜でも買って帰るか。サラダを作ってくれ」
 よろこんで、と答えようとしてウラルは首をかしげた。微笑を浮かべたアラーハ、その優しい目にかげりがあった。
「どうかしたの?」
 アラーハが足を止めた。悲しげな目でウラルを見、次の瞬間、ウラルはアラーハの大柄な体に包みこまれていた。
「アラーハ?」
「お前はいつもお見通しだな」
 抱擁は一瞬だった。けれど今までにないほど力強かった。まっすぐ覗きこんだアラーハの目は悲しい色を帯びている。
「ウラル。俺は四日後、ほかの雄イッペルスから挑戦を受けようと思っている」
「それって、まさか」
「守護者は地神の許しを受ければ森に霧をおこすことができる。雷を落として火事を起こすこともできる。だが、そうするためには、守護者が〈聖域〉にいる必要があるんだ」
「守護者をおりるつもりなの?」
 それはすなわち、人の姿を失い、人の言葉を失うということだ。
「俺を倒せるほど強い雄がいれば、そうするつもりだ。そして今やつらに言ったことを実行させる。だが、もし俺を負かせるほどのイッペルスがいなければ」
 アラーハの大きな手がくしゃりとウラルの頭をなでた。
「俺は、森に残るつもりだ。いくらさんざん森をほっぽらかして旅に出ていた俺でも、さすがに今、森を離れることはできん。エヴァンスがうまく脅してくれたようだが、やつらは森へ入ってくるだろう。やつらには地神への畏敬がない」
 アラーハはもう、今にも泣き出しそうな顔をしていた。死んだジンを前にしても見せなかった顔だ。アラーハがこんな顔をするのかとウラルは素直に驚き、それからじわりと胸に沁みてきた悲しみに顔をゆがめた。
 ジンが死んだときも、その後も動乱も。ずっと一緒にいて、大きな体で守ってくれたアラーハ。
 ウラルは無意識のうちに精一杯の笑みを作っていた。
「アラーハ、娘離れがそんなに悲しい? 娘はいつか嫁いで父親のもとから去っていくものよ、別に私はエヴァンスに嫁ぐわけじゃないけど。私もお父さん離れするから。ね?」
 アラーハは一瞬きょとんとし、それから低い声で寂しげに笑った。
「止められるもんだとばかり思っていたが。そうだな。それにまだ結果が決まったわけじゃない。たくさん野菜を買って帰って、たくさん話をしよう。どちらにせよお前とはまたしばらく話せなくなる」
 ウラルはうなずき、また無理に笑みを浮かべてみせた。アラーハはもう一度ぎゅっとウラルを抱きしめ、それから市場へ向かってゆっくりゆっくり歩き始めた。
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