第三部‐第四部間章 3「俺は守護者だ」 下

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 翌日にはエヴァンス、シャルトルに伴われてミュシェが隠れ家を訪ねてきた。きっと笑顔で訪ねてくれると思っていたが、予想に反してミュシェの顔は硬かった。
「(ウラル、元気そうで本当によかったわ)」
 画材カバンをシャルトルにあずけ、ミュシェはそっとウラルの手を取った。
「(こんなに酷いことになるなんて。私、あなたたちが憎しみあっていても最後にはきっとうまくいくと思っていたの。あなたがスー・エヴァンスを憎んでいることは知っていたけれど、あなたにナイフが握れるとは思えなかったから。なのに、あなたたちが本当に殺しあうことになるなんて。ああ神様、この二人が何をしたっていうんでしょう)」
「ムソセ・ミュシェ(ミュシェさん)」
「(後悔だけはしないでください、なんてよく私も言えたものだわ。スー・エヴァンスに与えられた裁きを知る前だから言えたわけなんだけど。あなたにとっては取るべき道なんてほとんどなかったんでしょう? あれからも、その前も。ずっとずっと)」
 思わず口を閉ざし目を伏せたウラルの肩に、アラーハがそっと手を置いた。
「玄関で立ち話もなんだ。あがってもらったらどうだ?」
 ミュシェは画材カバンの中にクロッキー帳を入れてきていた。ウラルの姿を木炭や水彩で軽く描写した習作をたくさん綴じたもの、ウラルがエヴァンスの家でメイドをしていたときのものだ。まずは熱に浮かされベッドに横たわるウラル、警戒心から目を光らせるウラル、それからシャルトルと並んで笑うウラル、花を持ってはにかむウラル、窓からどこか遠くを寂しげに見つめるウラル。アラーハが興味しんしんでウラルの肩ごしに覗き込んでいる。
 エヴァンスとシャルトルはウラルが閉じ込められていた地下室から抜け出す寸前に描いた絵を見ていた。ウラルが慣れない筆で描いたジンの、リゼの、サイフォスの、マライの死に様。あまりにつたなくて、もはや何が描いてあるのかウラル自身にもわからない。ただかろうじて人が刺されたり、首をつられたりしていることだけがわかる、黒を基調にした何枚かの絵。
「(ウラル、あなたには絵心があるわ)」
 ミュシェは部屋の隅にイーゼルを立て、四人の様子を木炭でひたすらデッサンしていた。
「(またあなたの絵を見せて。あなたに何があったのか描いてみせて)」
 三人が帰った後もウラルはもらった絵を胸に抱き、アラーハと一緒に長いこと眺めていた。

     ***

「アラーハ。こうしてちゃんとお別れできるって、貴重なことよね」
「どうしたんだ、やぶからぼうに」
「ジンもお別れできたようで、できてないし」
「ああ」
「サイフォスやリゼ、マライ、ネザとも」
「そうだな」
「もっとみんなと話をしたかった。もっと一緒に過ごしたかった」
「……」
「ごめん。ちょっと心細くなって」
「すまない」
「アラーハは死ぬわけじゃない、それが救い。私は大丈夫。だからめいいっぱい戦ってきて」
「本当にすまない……」

     ****

 イッペルスは吼えた。待たせた、と声を張りあげたようだ。馬のいななきやシカの求愛歌は似ても似つかない声。かつて彼がエヴァンスに向けた怒りのうなり声とも、オオカミの遠吠えとも違う。大太鼓の音色さながらだ。どろろぅうぅ、と低い威厳をともなった吠え声が巨樹の間を吹きすさぶ。
 受けた雄の一団はどよめきに震えた。足をすくませる者、畏怖に肩を震わせる者、武者震いに足を踏み鳴らす者。
 アラーハは王なのだ。地神の祝福を受け、三十年もこの森を統べた守護者。堂々と七頭の雄を見返すアラーハの姿は威厳にあふれている。
 アラーハがツノを下げ、鋭く前に突き出したケンカヅノを雄たちに向けた。応えるように、一斉に雄のツノが下がる。いきりたった一頭が打ちかかってきた。二頭のツノががっきとからむ。アラーハが足に力をこめると、雄も応えて力を強めた。アラーハが不意に、すっと力を抜く。たたらを踏んだ雄に討ちかかり、一気に押す。
 勝敗がついた。まずは一頭。アラーハは負けを覚悟するようなことを言っていたが、今の彼にそんな様子は微塵もない。おのれを誇示するかのように尾を高く上げ、二十四にも枝分かれした巨大なツノを堂々とかかげている。
 来い、とばかりにツノを下げる。二頭目が踊りかかった、直後、アラーハに跳ね飛ばされていた。迎え撃ったアラーハが深く身を沈め、相手の腹の下に枝角をさしこむや否やおそろしい勢いで枝角を振ったのだ。前にエヴァンスを馬ごとひっくり返したことがあったが、この力はこんな戦いの中で培われたに違いない。
 三頭目、四頭目。アラーハは次々と挑戦者を退けていく。が、アラーハも年だ。今までそうは見えなかったが、やはり老いはアラーハに忍び寄っていた。息を切らし始めたアラーハに五頭目が打ちかかる。これも難なく退けたが、六頭目は苦戦した。相手はアラーハに負けず劣らず大柄なイッペルスだ。がっきと互いのツノをからませ、互いに一歩もゆずらぬ力比べ。なんとか勝ったものの、アラーハはもう見るからにフラフラだった。
 七頭目、最後の一頭がアラーハに打ちかかった。足をもつらせつつアラーハが応戦する。ぱっと敏捷に飛びのく若いイッペルス、アラーハが後ろ足で立ちあがり、体重をかけてツノを振り下ろした。相手が受ける。アラーハが押す。力比べになる。若いイッペルスがふりほどき、アラーハの側面から再び打ちかかる。アラーハの蹴りが飛ぶ。激しい蹴りあいになる。ぐうう、と人間とも獣ともつかぬ声でアラーハがうめく。
 じわりじわりと、しかし確実にアラーハは押されていた。相手はその若さからは考えられぬほど落ち着いて、慎重に、疲れきったアラーハを攻め立てる。これが一頭目の挑戦者ならアラーハは難なく退けただろう、しかし状況が悪かった。
 尖った枝角で腹を何箇所も傷つけられ、これ以上ないほど息をきらせて、とうとうアラーハは挑戦者に背を向けた。負けを認めたのだ。
 挑戦者のイッペルスは傲然と六頭のイッペルスを振り返った。立派な枝角を下げる。守護者に勝った挑戦者は、他の挑戦者と戦う。これを全て打ち倒して初めて守護者となるのだ。もしこの挑戦者がどこかで負けた場合、一晩おいて疲れを癒し、守護者とこの挑戦者の二頭で再び争うことになる。
 若いイッペルスはさっきまでの慎重さはどこへやら、信じられぬほどの勢いでほかのイッペルスに打ちかかった。この挑戦者はアラーハほどの怪力ではないが、状況判断に優れているらしい。緩急をつけ、相手の苦手とするペースで的確に打ち倒す。
 アラーハは四肢を折り、息を整えながら、じっとその若いイッペルスに目を注いでいた。負けてくれと祈っているのか、あるいはこのイッペルスなら森を任せても安心だと思っているのか。
 そしてとうとう、挑戦者がその場のイッペルス全てを打ち負かした。
 ヒュグル森守護者の座を譲るときが来た。アラーハは立ちあがり、そっと自分のツノを相手のツノに打ち合わせた。翠の光が、アラーハの思念が、枝角から枝角へと受け継がれる。
 ゆらり、と挑戦者の姿がぼやけ、アラーハよりはやや小柄な、若い、けれど同じ赤茶の毛皮をまとった大男が姿を現した。
「俺はヒュグル森守護者、イッペルスのウズーム。これより地神の命にてアラーハよりその任を引き継がん!」
 頼んだぞ、と言いたげにアラーハがウズームを見つめた。ウズームはアラーハに向けて静かに、深く頭を垂れ、〈聖域〉のある方へと去っていった。
 離れたところから見ていたウラルにアラーハがゆっくり、ゆっくりと歩み寄る。
――地神がウズームに力を与えた。あいつになら森を任せられる。
 再び言葉を失い人の姿を失ったアラーハの長い首を、ウラルはぎゅっと抱きしめた。疲れきったアラーハはその場にくずおれ、けれど穏やかな面持ちで、ウラルの肩にぐったりと頭をもたれかけた。
――地神がお前と一緒に行けと言ってくださった。これで心置きなく一緒に行けるな。行こう、南へ。

(第三部‐第四部間章 完  第四部へつづく)
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