第三部 第二章 2「布に覆われた顔の下」 中

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 予言が当たってしまった。猫背で蛇顔の軍医ネザはもう、この世にいない。
 ある程度近況報告を交わした後、夜が更けきらないうちにイズンは「疲れているでしょう、話はまた明日でもできますよ」と寝床の準備を整えてくれた。野宿しながら森の中を突っ切ってきたのだ、疲れていないはずがないのだが、ウラルは眠れず寝返りばかり打っていた。
 あの戦のとき。
 伝令として飛び回っていたイズンは敵の攻撃を受け、落馬して頭を強く打ち、気を失った。意識を取り戻したときには救護テントに運びこまれ、ネザの治療を受けている最中だったという。イズンが目を開けたのに気づいたネザが何かを話しかけようとした瞬間、爆音が鳴り響き、目の前が真っ白になった。ベンベル人が爆弾を投げこんだのだ。
 そのまま再び長いこと気を失っていたようで、戦いが終わった後に駆けつけた〈エルディタラ〉の面々に頬を叩かれて意識を取り戻した。右の肩と顔にひどい痛みがあり、痛みのない部分は何か重いものにのしかかられて苦しかった。
 その「重いもの」が、変わり果てたネザだったという。イズンを守ろうとしたのか、あるいは単に爆風でなぎ倒されたところがイズンの体の上だったのかは定かではないが、ネザが盾になってくれたお陰でイズンは奇跡的な軽症で生還できたのだ。
 その後は〈エルディタラ〉の世話になり、無事回復した後にヒュグル森の隠れ家へ向かったが、ウラルとはすれ違いになってしまった。シガルに教えられてジンのケルンに向かったイズンは、そこで自分の命を救ってくれたネザの故郷へ、この隠れ里へ向かおうと決めたそうだ。
 隠れ里には少し立ち寄り、またすぐ旅立つ予定だった。が、この村の長老、預言者である老婆に「探し人は半年後にこの村を訪れる。それまでここにいなさい」と言われた。半信半疑ながらも言葉に甘えてネザの家を借り、子どもたちに字を教えたり、本の複写をしたりしながら暮らしていたのだそうだ。
 預言者の老婆。この村の長老なら夜が明けてから挨拶に行った方がいい。そのときに予言のこと、あの丘の夢のことを尋ねてみようとウラルは思った。この「まじない師村」ならきっと誰か知っているだろう。
 眠れないなと思いつつ、しばらくとろとろと眠っていたらしい。気がつけば夜明けを迎えていた。
 ウラルはベッドから起き上がり、ぼんやりと部屋を見渡した。ネザはどうも三人家族だったようだ。ちょうどベッドは三つあり、ウラルが使っていない二つのベッドでフギンとイズンがそれぞれ寝息をたてている。
 イズンは眠るときは顔の布をはずすようだ。ずっと隠していた顔の右側があらわになっていた。端正な左半分と、赤黒いごつごつした石のマスクでおおわれたかのような左半分。その傷ついた左半分の顔はぼんやりとした闇の中に沈んでいたので怖いとは思わなかったが、悲しかった。フギンの腕を見たときの悲しさと同質のもの。
 ウラルは二人を起こさないよう足音をそばだて外へ出た。井戸へ向かい、冷たい水で顔を洗う。タオルで顔をふきながらアラーハの姿を探したが、どうも草を食みにどこかへ行っているようだ。
 アラーハは見当たらなかったが、かわりに家の前の道を歩いてくる小柄な人影が目に入った。どうやら朝の散歩中のおばあさんらしい。
「おはようございます」
 声をかけてみると、その老婆は顔を上げた。めしいているのだろうか、目を閉じていたが声でウラルの位置ははっきりわかったようだ。こちらを向いて微笑した。
「おやおや、年寄りなみに早起きの子がいるようだね」
 親しみのこもった口調にウラルもほほえんだ。
「はじめまして、イズンの友人のウラルと申します。昨日は蹄の音をたてて申し訳ありませんでした。起こしてしまいませんでしたか?」
「大丈夫だよ、むしろ昨日は蹄の音がしなければむしろ不安だったろうから。イズン君もさぞかし喜んだろう。半年、おまえさんらを待ちわびていたんだからねぇ。ひとまず隠れ里へようこそ。おまえさんらが来るのは不思議なくらいよーく見えた。三人で来たんだね?」
 ウラルは目をしばたいた。どうやらこの老婆はイズンが言っていた預言者の一人らしい。来るのが見えたのはすごいが、人数が。
「いえ、二人なんですが。私と、もうひとりフギンという男の人と」
 老婆が目を閉じたまま顔をしかめる。
「じゃあ、そこにいるのは誰だね? 地神に守られた人の気配がするけれど」
 老婆が閉じた目をウラルの後ろに向けた。ウラルも肩越しに振り返ってみれば、木立の中に潜んでいたアラーハが観念したように出てくるところだ。どうやら草を食みに行っていたのではなく、人の気配を感じて身を隠していたらしい。
「なんとまぁ、人ではなく獣だったのかい。これじゃあ三人とはいわないわけだ」
 老婆は愉快そうに笑ったが、ウラルはぽかんと口を開けるしかなかった。そこまでわかるとは、これは本当に只者ではない。アラーハも困っているとみえ、ウラルの後ろで老婆をじっと見つめている。
 と、家のドアが開き、顔の布を整えながらイズンが出てきた。
「おや、長老。おはようございます。後で挨拶にうかがおうと思ったんですが」
「そうかね。じゃあ、朝食をとったら来るがええ。その子にもその子の連れにもあまり時間はないようだからねぇ。お茶でもいれて待っていよう」
 老婆はくるりときびすを返し、ゆっくりゆっくり道を歩いていった。
「イズン、今の方が長老? イズンに半年後に私たちが来るって言った?」
「そうですよ。びっくりしたでしょう、いろいろと」
 ウラルは老婆の後姿を目で追いながらぼんやりうなずいた。
「いろいろ言い当てられちゃって。私たちには時間がないってどういうことだろう。できればゆっくりしたいんだけど」
「まぁ、とりあえず朝ごはんにしましょう」
 うながされ、イズンと二人で朝食の準備を始めた。
「なんか、台所に誰かが立っているのってほっとしますね」
「そう? イズン、料理ちゃんとできるのね。もっと汚いのを想像してた」
 きれいに整頓され、必要なものがちゃんとそろったキッチンはとても男の一人暮らしとは思えない。イズンは照れ笑いしながら卵を焼いていた。
 食事の気配を感じたのだろう、フギンが遅ればせながらむっくり起きあがり、キッチンのウラルとイズンを見てにかりと笑った。
「おはよ。あー、夢じゃなかったんだ。イズンだイズンだ」
 よっぽどイズンに再会できたのが嬉しいらしい。幸せそうな笑顔にイズンも笑って顔を洗ってくるよう勧めた。
 三人でおしゃべりしながら朝食をとり、三人は外へ出た。出会う人ごとに自己紹介をし、昨晩うるさくしてしまったことを詫びながら長老の家へと向かう。さすがまじない師だらけの村だけあって、薬草のにおいをぷんぷんさせている人やら刺青を体じゅうにいれた人やら、普通の町や村ではかなり目立つであろう格好をした人が多かった。家も家で、窓際にずらりとすだれのように薬草がかけてあるのはむしろ普通、動物の骨がさがっていたり、呪物らしきものや水晶のきれいな彫り物が値札つきで並べてあったりしている。
 そんな家々の一角にあった長老の家は案外と簡素だった。ドアは開け放たれており、暗がりの中にちょこんと座った老婆と、いれたてのお茶が置かれているのが見える。
「待っていたよ、お入り」
 お邪魔します、と一歩室内に入ってウラルは驚いた。外からは見えないドアの横の壁に大きな鏡がかけてあったのだ。普通の鏡ではなく、なめらかな黒曜石でできた真っ黒な鏡だ。
「遠見の鏡だよ」
 老婆が見透かしたように言ったので、ウラルは驚いて鏡から老婆に視線を移した。この人はめしいているはずなのに、どうしてウラルが鏡を見ていることに気づいたのだろう。
「私はめしいているがね、目でない別の感覚でお前さんが見えるんだよ。なにも感じようとしなければ視界は真っ暗だ、けれど見ようと思えば光の点のようなものが見えてね。おまえさんの居所がわかる。さ、お座り。さっきの獣は連れてこなかったのだね? イズン君の家の周りを手持ち無沙汰そうに歩いているようだが」
 そんなことができるのかとウラルはしげしげ老婆を見つめた。フギンも声が出ない様子でじぃっと老婆を見つめている。
「アラーハは人の多いところを嫌うので。それに、イッペルスを村の中に連れこんで、村の皆さんを驚かすのも」
「なるほど、あれはイッペルスかい。人にいっかな慣れぬ雄々しい獣。今の時期ならさぞかし立派な枝角をしているのだろうねぇ。こういうとき、このめしいた目が嫌になる。セテーダン町でイッペルスに乗った地神の娘が出たと噂になっているが、お前さんのことだね?」
「わけあって街中でアラーハに乗らなければならなくなって。地神の娘なんて。恐れ多いばかりです」
「そうだろうとも。あの獣は間違いなく地神の息子、けれどお前さんは風神の娘だ」
 どうやら信仰のことを言っているようだ。アラーハは守護者の地位を失ったといえど地神をあがめているだろうし、ウラルもリーグの女の一員として女と病人の守護神、風神を信望している。
 老婆が急にふっと笑った。
「これ、フギン君とやら。そんなつまらなそうな顔をするんじゃないよ。せっかちな子とみえるね」
 は、はいっと急にフギンが居住まいを正した。本当にさっきからうさんくさげに老婆を見ていたのだ。老婆はやれやれと肩をすくめた。
「せっかちな子にはとっとと情報を与えて送り返すとしようかね。なにも気長な女同士の話に無理やり鼻先をつっこませるこたぁない。本題に入ろう。さっきウラルさんにはちらりと言ったが、お前さんらには時間がない。その時間をなくさせている人間が、今日の昼にはこの村へ来るようだ」
 フギンとイズンが体をこわばらせ、互いに顔を見合わせた。
「この国で生まれ四大神の加護を受けた者は多かれ少なかれ光として見えるものだ。人であれ獣であれね。けれど、四大神の加護を受けていない、わたしのめしいた目の裏側より暗い点がこちらへ向かってくる。ベンベル人だね」
 急激にフギンの顔が険しくなった。
「本当か、婆さん」
「信じるか信じないかはお前さんの自由、けれど私には見えている。ひとまずイズン君の家の地下室に隠れてやりすごして、先へ行ったのを確かめてからこの村を出るのがいいだろう。尋ね人で来る者には、お探しの人はここへ立ち寄り、すぐに先へ行ってしまったと答えるのがこの村のならわし。漏れる心配はしなくていい」
 フギンがイズンを見つめた。イズンは肯定の意をこめてうなずいてみせる。
「さ、せっかち者にあげられる情報はこれだけだよ。さ、行った行った」
 急につっけんどんになった長老の口調にフギンがむっとした顔になった。けれど情報をくれ、しかもかくまってくれることになったのだ。
「ありがとう、婆さん」
 ただ礼を言うと、さ、帰るぞとばかりフギンは立ちあがった。
「あ、フギン、ちょっと待って。私、この方にちょっと相談したいことがあって」
「え。なんだよ、相談って」
 フギンの視線が居心地悪くてウラルは目をそむけた。
「せっかちでない子はいてもいいんだよ。せっかち者は早く帰れとはそういう意味さ」
 老婆が穏やかに言ってくれた。けれどフギンはウラルに問いかける目を向けたままだ。
「結局、ダイオ、イズン、ネザ、三人が生きているかそうでないか、全員当たったでしょう。気味が悪くて。長老に相談に乗っていただきたいの」
 それか、とフギンが壁にかかった大鏡を見つめる。
「でも、昼にはやつらが来るんだぞ。早く帰って身を隠した方がいい」
「その心配はない。ベンベル人が来る前には十分な余裕を持って彼女を帰すからね」
 老婆はおかしそうに笑った。そうだった、この老女がいるからには逃げ遅れる心配はないのだ。
「でもなぁ」
「お前さんが渋ってどうするんだね、相談したいと言っているのは彼女なのに。それとも、彼女と一緒にここで残るか出て行くかで迷っているのかい?」
「まぁ、そりゃもっともだけどさ」
 フギンはため息をついた。
「わかった、それでウラルの気が済むんなら。イズンと二人で適当に旅装かき集めたり、なんだかんだしながら待ってる。早く帰って来るんだぞ。で、帰ったらここでどんな話したか教えてくれよ。せっかち者の俺が飽きない程度にかいつまんでさ」
「ありがとう、心配ばかりかけてごめんね」
 ずっと黙って話を聞いていたイズンがほほえんだ。
「では長老、ありがとうございました。失礼します」
「イズン君、村を出て行くときには言いなさいね。みな寂しがるだろうから」
 イズンの笑みが寂しげになった。
「ええ、もちろんです」
 イズンはどうやらウラルらと一緒に来る気でいるようだ。老婆も目を閉ざしたまま寂しげな顔をして、さぁ行った行ったと二人を追い立てた。
 二人が出て行き、ウラルは預言者の老婆と二人きりで小さな家に取り残された。
「さ、もう少し近くへおいで。話をちゃんと聞かせてもらおう」
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