第三部 第二章 3「人の心、獣の心」 上

 イズンは何事もなかったかのような顔でフギンの馬ディアンに乗り、帰ってきた。かたわらにはアラーハがいる。いるのだが。
「アラーハ、どうかしたの?」
 アラーハは目をぎらつかせ、家のドアのあたりにしきりに鼻を近づけては耳を伏せ、いらいらと地面を踏み鳴らしていた。相当機嫌が悪そうだ。
「考えるまでもない。あいつの匂いが残ってるんだろ」
 フギンが旅装のチェックをしながらぶっきらぼうに答えた。イズンがあつらえてくれた荷物をフギンとウラルそれぞれが持つ分に分け、それぞれ丁寧にリュックに詰めこんでいく。
 ウラルはそっとアラーハの首筋に手を添えた。アラーハの毛はものの見事に逆立ち、一本一本がウラルの手に突き刺さってくるほどだ。
「アラーハ、落ち着いて。ね? エヴァンスはもうここにいないし、私もフギンも無事だから。怒ったって仕方ない。わかるでしょう?」
 アラーハがやっとうなるのをやめ、ぎらぎらした目でウラルを見つめる。ウラルがじっと見返し、首をなでていると、アラーハの目からゆっくりと鋭さが失せていくのがわかった。
「アラーハもよっぽど恨んでいるみたいですね。あのベンベル人に出くわすたび、いつもこうなんですか?」
「ううん、こんなのは初めて。たぶん、セテーダン町で私がエヴァンスに殺されかけて、アラーハに間一髪で助けてもらったあの一件のせいだと思う。私まで殺させてたまるかって。それに、人の心を失いつつあるのも、からんでる」
 アラーハは首をうなだれている。オオカミ守護者に教えてもらった人の心でんでんの話はもうイズンに伝えてあった。いくらアラーハがエヴァンスを憎んでおり、娘のように思っているウラルを殺されかけたとはいえ、人だったころのアラーハはこれほどの怒り方はしなかったはずだ。もっと静かに、冷静に、じっとエヴァンスをにらんでいるだけに違いない。それでも怒っている度合い自体は変わらないのかもしれないが……。
 フギンがポンと軽く荷物を叩き、立ちあがった。
「あとはウラル、自分で適当に詰めてくれな。あとはお前の服とかそのへんだけだから。なぁ、イズン、本当に一緒に来ないのか?」
「え、イズン、来ないの?」
 てっきり来るものだと思っていたが、そういえばフギンが用意している荷物はウラルとフギンの二人分だけだ。イズンも「ええ」と悲しげにうなずいた。
「この家をほっぽりだして行くわけにもいきませんから。頼まれていた写本を片づけて、きちんと掃除をしていかないと」
「それくらい。終わるまで待つよ、私たち」
「早く身を隠さないとやつらに見つかってしまうでしょう。ひとところにとどまっては危ない」
 たしかにそうだ。寂しかったが、ウラルらは行かないわけにいかない。
「じゃあ、またしばらく会えなくなるね」
 イズンは笑った。
「そんな深刻そうな顔をしないでください、すぐに僕も後を追って隠れ家へ向かいますから。向こうでまた会えますよ」
 うん、とウラルはしょんぼりうなずいた。せっかくこうしてまた会えたのに。
「二人とも、本当に道中お気をつけて。あのベンベル人二人は本当に只者ではなさそうですし」
「そうだな。もしあいつらをまき損ねて、足止め食らって遅くなるようならダイオに詫びといてくれよ。絶対、ちゃんと帰るから」
「思うんですが、ダイオ将軍は体調万全、しかも〈エルディタラ〉から何人か応援に来ているんでしょう? もうむしろ引き連れて帰ってきて、返り討ちにするというのは」
「あー、それもありか」
「じゃあ、もし僕が先に隠れ家へ着いたらそういう可能性もあるということで、伝えておきますね」
 フギンはうなずき、「怖いのは待ち伏せだな」と続けた。
「ここを通ったのはばれた。やつらは俺らが先へ行ったと思いこんで、俺たちが行くであろう町へ行こうとするだろう。普通ならそれでいい。反対方向へとっとと逃げちまえばいいんだけど、やつらの追跡は本当にやばいんだ。勘が鋭すぎるのか、あるいは、なにか俺たちの痕跡でも追っているのか。俺たちより先行してると知ったら容赦なしだろう」
「たしかに、よそ者がこれほど早くこの隠れ里に来るのはちょっと不自然ですね。一度来たことがあるならともかく、来たことのあるはずがないベンベル人が」
「ベンベル人って、リーグ人にはない能力でももってるのかしら」
 ウラルもため息をついた。
「ウラル、お前あのベンベル人どもと一緒に暮らしてたんだろ。なにかそれらしい力でも持ってなかったか?」
「そんなの。髪と目の色が薄くて骨格も少し違って、地下に住んでて、ゴーランに乗ってて。リーグ人と違うといわれて、ぱっと思いつくのはそれくらい。そんな特殊能力らしいものなんて、持ってなかった」
「地下室ならリーグ人も作りますよ、たまにはね」
 イズンが微笑しながらコンコンとかかとで床を叩く。それから表情を引き締め外を見やった。
「ベンベル人の能力でないなら、ゴーランかもしれませんね」
「ゴーラン? あのトカゲが?」
「ええ。そこに止まっている間、ちろちろ頻繁に舌を出し入れしたり、馬とアラーハのいたあたりをうろついたりしていましたから。妙だと思ったんです」
「猟犬みたいにゴーランを使って俺たちを追っかけてきた? そりゃ無理だろ。トカゲだぜ? あんなあるのかないのかわからないような鼻で?」
「ヘビは鼻ではなく舌でにおいを感じるそうです。トカゲやゴーランも同じだと思いますよ。精度はさすがに犬より劣るでしょうが、たしかなことは言えません。もしかすると犬なみか、あるいは犬以上の嗅覚をもっているのかも」
「でもよ、仮にそれだとしても森の中とか人がめったに通らない場所ならともかく、人の多い場所も通ってるんだぜ。そんなところじゃ、どんなすぐれた猟犬でも一人を追うなんざ無理だ」
「そこは人の目じゃないですか。城壁警護のベンベル人への聞きこみで」
 まさかと思ったが、実際イズンから情報を得てエヴァンスらが遠ざかっていくときゴーランの足音が妙な感じに止まっているのだ。もしあのときウラルらのにおいをゴーランがかいで、それが原因で足を止めていたのだとしたら。
「あくまで仮説ですが、用心に越したことはないでしょう」
 そこまで真面目な顔で言い、イズンはふっと笑った。
「猟犬から逃げるウサギの手を使ってみたらどうです?」
「ウサギ?」
 目をぱちくりさせるウラルにイズンの笑みが深くなる。
「たとえば、森の中で木の間をぐるぐる駆けてみる。たどった経路がぐちゃぐちゃになった糸玉みたいになるように駆けて、追ってくる猟犬を混乱させるんですよ。あるいは川の中を歩いてみる。流れる水ににおいは残りませんし、足跡もぷっつり途切れます。それに僕らは人間なんだから、服を適当に木にこすりつけたり、あるいは靴を交換してみてもある程度の効果はあるでしょう。相手がにおいを頼りにしているならね」
「試す価値はありそうだ」
 フギンがぎろっとドアの方をにらみ、けれどそこにいたアラーハとまともに目があってしまったようで、気まずそうに視線をそらした。
「イズン、靴、交換してくれよ」
「サイズが合いますかね」
 二人はその場で靴をぬぎ、はきかえた。
「うん、よさそうだ。ウラルも靴はきかえれればいいんだけど、さすがに合わないだろうな」
 言ってフギンはにやりとする。
「イズン、お前、水虫じゃないだろうなぁ?」
「フギンこそ。相当臭いですよ、この靴」
 二人は顔を見合わせて大笑いした。ウラルもつられてひとしきり笑ってから、アラーハも多少は緊張が解けたかな、とドアのあたりを振り返る。アラーハはこちらにわき腹を向け、じっと暮れる森の方を見つめていた。ウラルの視線に気づいて振り返った目はいつもの穏やかさを取り戻している。
 風が強くなってきた。風下の森の中にちらりと金の髪が見えた気がしたが、エヴァンスを恐れるあまりの錯覚だったらしい。まばたきをした一瞬の間に見えなくなった。
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