第三部 第二章 3「人の心、獣の心」 下

     **

 夜明け時、小屋の中からエヴァンスとシャルトルの二人分の読経が聞こえてきた。アラーハは四肢を折り、目をらんらんと輝かせて小屋を見つめている。
 ウラルとフギンは小屋の近くまで荷物を移動させ、休みをとっていた。エヴァンスはアラーハがいる限りこちらを襲えないし、何か行動を起こすにしろその前にアラーハが暴れるはずだから警戒の必要なく眠れたのだが、安心して眠れるかどうかは別問題だ。フギンはよく眠っていたが、ウラルは何度も浅い眠りから目を覚まし、そっとアラーハの様子をうかがっていた。
 一晩たってもアラーハの殺気に変わりはない。おそらくウラルがここを離れて次の村へ行ったとしても、エヴァンスがここにいるかぎりアラーハもここに居座り続けるだろう。あの〈ゴウランラ〉の戦場跡でエヴァンスに再会したとき、ウラルとフギンが逃げる時間を稼ぐため、それでも手加減しながら殺さぬように戦ったアラーハはもういない。これだけの憎しみを抑えてよくそんなことができたものだ。
「どうだ、なにか動きあったか?」
 起きだしてきてウラルの隣に並んだフギンに首を振ってみせた。
 夜の間、動きらしい動きはなかった。あるとすれば行方不明になっていたエヴァンスの馬が主人のところへ足を引き引き帰ってきたくらい。アラーハの姿をみとめておろおろし、ウラルらを警戒して蹴るぞ噛むぞと脅しをかける神経質な馬を捕まえ、アラーハにひっくり返されたとき負ったらしい捻挫を手当てしてやり、今はディアンの隣で休ませている。手当てをしたのはフギンだ。仇のものでも馬は馬、馬好きフギンには馬まで憎む道理がないらしい。
「このまま何日もにらみあいが続くのかな」
「いや、多分違うだろ。あいつ食い物は草でいいし、飲み物は雨どいの下の水でいいだろ。いくらでも居座ってられるけど、ベンベル人どもは違う。あの小屋の中になにか食い物があるにしても、水をくみにも行けないし限界があるさ。早いうち、今日明日には逃げるなり反撃するなりするんじゃないかな。俺だったらそうする」
「その一日二日であの二人を巻こう、今がチャンスだなんて言わないよね?」
 フギンの口が「あ」と言いたげに開くのに、ウラルは不安になってフギンの目を見返した。
「考えてもみなかった。ああ、でもそうだよなぁ」
 フギンならとうに考慮していると思っていたのだが。言わなければよかったと思いつつ、ここにいさせてと目で訴える。どうあっても今のアラーハから目を離したくなかった。フギンが苦笑する。
「わかったわかった、離れないからそんな目で見るなよ。俺だってやつがくたばるなら見届けたいし」
 フギンの了解を無事に得てアラーハをじっと見守った。

     ***

 しばらくは何の動きもなかった。状況が動き出したのは、この日の昼だった。
 この晩夏、木陰にいるとまだましだが、日なたの温度は半端ではない。アラーハは小屋から一番近い木陰に場所を移し、ウラルらも木陰で涼をとっていた。小屋の中にいるエヴァンスらは窓も開けられずかなり蒸し暑い目にあっていたはずだが、それでもまだ陰にいるだけましだったろう。
 一人、いや一頭だけ木陰に入れなかった生き物がいた。屋根の上のゴーランだ。変温動物なだけにこれは命にかかわる重大事。どんどん少なくなっていく日陰を追いかけて巨大トカゲは必死に逃げ、最後には唯一日中でも影になる雨どいの下の壁に貼りついていたのだが、これを目ざとく見つけたアラーハが打って出た。十分に鼻先の届く位置に貼りついていたゴーランを攻撃し、日なたに追い上げてしまったのだ。前門の直射日光、後門のアラーハ。命の危機にさらされたゴーランは必死の声をあげ始めた。
「ゴーランって鳴くのね」
「トカゲのくせしてカエルみたいな鳴き声なんだなぁ。ウシガエルみたいだ」
 ウラルとフギンは暢気にかまえていたのだが、わざわざベンベル本国から連れてきた貴重な家畜が死にかけているのを前にしてはベンベル人たちも動かざるを得なかったらしい。
 武装したシャルトルが水の入ったバケツと、小屋の中にあったらしい大ぶりの鉈を手に外へ出てきた。二人もアラーハが狙うのはエヴァンス一人だとわかっていたのだろう。シャルトルが鉈でアラーハを牽制しながら、ゴーランをなんとか森に逃げこめるようにしてやろうと。
 が、アラーハは容赦がなかった。迷うそぶりもなくシャルトルに襲いかかり、急所の鼻先を狙って振り下ろされる鉈をかいくぐって蹴り倒す。うつぶせに倒れたシャルトルの背、心臓の真裏を前足の蹄で押さえ、じろりと小屋のドアを見やった。
「本当に獣のやることじゃねぇ。人質をとりやがった」
 シャルトルがかすかに身動きし、悔しげなうめきを漏らした。アラーハの力と体重だ。踏みつければ、シャルトルの心臓くらいやすやすと踏み潰せるはずだ。
「Yamasner.(化け物が)」
 低い声とともにドアが開いた。その奥から見える鋼の切っ先。
「Iu see znna yoo kure muu.(よほどわたしの命が欲しいらしいな)」
 アラーハがシャルトルを放しドアへ突進する。エヴァンスは小屋の奥へ飛んで体当たりをかわした。ドアへぶつかったアラーハが木っ端を撒き散らしながら横へ跳ぶ。瞬間、アラーハのいた場所を銀の閃光が薙いだ。
 が、エヴァンスはドアより外へ出ようとしない。狭すぎてアラーハが入ってこれないのを利用、体当たりのときに剣を使う、あるいは弓で狙うだけだ。まともに戦っては勝てないと思ったらしい。
 アラーハはエヴァンスの意図をすぐに悟った。くるりと振り返るなり、まだダメージでうまく身動きの取れないシャルトルに襲いかかるしぐさを見せたのだ。
「栗毛をおとりにして、金髪男をおびき寄せてやがる……」
 当然エヴァンスは見殺しにできない。アラーハの思うつぼだった。エヴァンスが小屋を離れるなりアラーハは急旋回、小屋のドアの前に立ちふさがって退路を絶つ。
 馬は足を捻挫してフギンにつながれ、ゴーランはアラーハがトラウマになった上に暑さにへばって森の中へ逃げこんでいる。ベンベル人二人は小屋の中へ逃げこめず、森の中の追走劇に持ちこむこともできない。真正面からの戦いを余儀なくされていた。
 アラーハは最初のころほど怒りをあらわにせず、平静の顔で、ただ耳だけを伏せている。シャルトルをはじめに人質にとったときからアラーハは無表情になっていた。うなり声はやみ、けれどその目が。
 死ね。
「止め、なく、ちゃ」
 真っ青になって立ち上がったウラルを怪訝そうにフギンが見やった。
「殺させちゃいけない。止めなくちゃ」
「いや、おいちょっと待て。なんで止めるんだよ」
 引っつかまれた手を振り払う。
「フギン、耐えられるの? アラーハが、あのアラーハが憎しみで人を殺すのを目の前にできるの?」
「だって、相手は奴だぞ?」
「私は耐えられない。アラーハが嫌がってたの、こうなることを一番恐れてたのを知ってるから。人のアラーハがここにいたら、絶対に自分を止めるはず」
「だからってな、お前あの中に素手でつっこむ気か? 冷静になれよ」
 それでも振り切って行こうとすると、さすがにフギンの顔色が変わった。
「待て、とりあえず待ってくれ」
 待たずに一歩踏み出すウラルの襟首をフギンがひっつかむ。
「どうしてもってなら俺が行く。とりあえずお前は行くな!」
 耳元で怒鳴られ、ウラルはぎょっとフギンを振り返った。突然の大声と内容とに、何がなんだかわからずぽかんとなる。
「フギンが?」
「やっと待ったな。俺が行っちゃ悪いのかよ」
 ウラルが捨て身で行くよりはいいだろうが。
「フギンがエヴァンスを守るの? アラーハから?」
「あのな、お前が言い出したことだろ。嫌だってなら最初から行かないけど。俺だって嫌だしさ」
 まさかフギンがそんなことを言い出すとは思わなかった。
「いいの?」
「とりあえずやつを止めて、金髪野郎から引き離す。それでいいな? そこからの説得はお前やれよ。俺には無理だ」
 行ってくる、とフギンが戦いの中へ向かっていく。シャルトルがぎょっと振り返った。
「てめぇの主人を助けてやろうってんだ、感謝して後ろに下がりやがれ!」
 一喝するフギンに何がなんだかわからないという顔をしつつ、けれど迫力に押されたのだろう。シャルトルが弓を下ろす。
「アラーハ」
 フギンの呼びかけにウラルは耳を疑った。フギンがこの姿のアラーハを。
 それでも耳すら向けず、ただひたすらにエヴァンスを襲い続けるアラーハにフギンは追いすがり、たてがみをひっつかむと地を蹴った。棒高跳びのように綺麗に足を跳ね上げ巨獣の背に飛び乗るやいなや、首を跳ね上げたアラーハのツノをひっつかむ。さすがにぎょっとしたようでアラーハは暴れたが、フギンは頑として離れなかった。
「チビのころから暴れ馬に乗ってるんだ、なめるんじゃねぇぞ!」
 が、フギンは背中にしがみついているだけだ。馬具があるわけでもなく、アラーハの動きを制御できるわけではない。アラーハも一瞬驚きはしたが、やがてフギンを背に乗せたまま再びエヴァンスに向け突進の構えを見せた。だっと駆け出したその瞬間。
 ぐらりとアラーハがよろめいた。フギンが渾身の力をこめアラーハのツノをひねったのだ。不意をつかれたアラーハはバランスを崩し。
 轟音と共に倒れた。
「ウラル、今だ!」
 派手に舞い上がった土ぼこりの中からフギンの声が聞こえた、と思った刹那、空気がうなった。切り裂かれた土ぼこり、そこからフギンの体が弧を描いて飛んでくる。
「フギン!」
 フギンは倒れ伏し、うめきながら腹を押さえている。アラーハに枝角で殴り飛ばされたようだ。反射的にアラーハの方を見れば、アラーハは既に立ちあがっていた。こちらをちらとも見ない。ただ大角をかかげエヴァンスをねめつけている。
「くそ、転ばしたくらいじゃ駄目だったか……」
 かすかにうめき、フギンは気を失った。フギン、フギンと呼びかけながら軽く揺さぶったが気づく様子はない。震えながらフギンの手をとって脈を確かめ、まぶたをこじあけ怪我の具合を確かめる。フギンの腹はひどいアザになっているが、吐いてもいないし、危ない状態ではなさそうだ。
 顔を上げる。何事もなかったかのようにアラーハはエヴァンスを襲い続け、エヴァンスはシャルトルの援護を受けながら応戦している。たださっきまでと違うのが、アラーハの腰の辺りに矢が一本、深々と刺さっていた。それに首のあたりに浅いが長い傷跡がある。フギンが作った隙で攻撃を加えたのだ。そのせいでアラーハの動きが少しにぶっている。形勢逆転しかかっていた。
 ウラルは唇を噛んだ。なにもウラルはアラーハを不利にしたかったわけではない。ただ、アラーハを止めたかった。エヴァンスを殺させたくなかった。それだけなのに。
「止めなきゃ」
 気を失っているフギンに心の中で謝り、ウラルはポケットから犬笛を取り出した。
 小さな笛に思いきり息を吹き込む。アラーハがびくりと動きを止める。シャルトルが間髪いれずに矢を放つ。ウラルがその前に両手を広げて立ちふさがる。
 矢が、ウラルの二の腕に突き立った。
「ウラルさん……」
 呆然と後ろでシャルトルが呟くのを耳にしながら、痛みをこらえてアラーハと向かい合う。否、向かい合おうとしたが矢の痛みは予想以上だった。立っていられなくなり膝を折る。
 目の前にいたのに、アラーハにはウラルが見えていなかったらしい。いや、見えてはいるが木や石と同じただの障害物としてしか映っていなかったのだろう。アラーハは何もなかったようにエヴァンスに突進する。アラーハとエヴァンスの間にうずくまるウラルを無視して。
 迫る蹄に踏みにじられる寸前、ぱっと体が浮遊した。
「なぜ割って入った。さがっていろ!」
 エヴァンスがとっさにウラルを小脇に抱えて横に跳んだのだ。
 アラーハは少し離れたところで頭を下げ、再び突進の構えを見せている。応戦しようと剣を構えたエヴァンスとの間に、ウラルは再び立ちふさがった。右の二の腕に矢をつきたてたまま。大きく両腕を広げて。
「アラーハ」
 アラーハの熱い鼻息。突進の機会をうかがう黒い蹄。空を切り裂き振るわれる尾。無表情の顔。びったりと後ろに伏せられた耳。らんらんと光る目。
 エヴァンスに向けられた強烈な怒気を、殺気を、ウラルが真っ向から受け止める。
「何をする。どけ!」
 エヴァンスの上ずった声も耳に入らない。ウラルの腰をかかえ横に突き飛ばそうとするエヴァンスの腕。足を踏ん張ってこらえるウラル。
 もみあう二人にお構いなしに、アラーハが地を蹴った。
 やめて、アラーハ。
 やめて!
 エヴァンスが舌打ちとともにウラルの足を払い、小脇に抱えて横へ跳ぶ。アラーハの枝角が容赦なく追いすがる。
 強烈な一撃をエヴァンスは紙一重で避けた。エヴァンスも騎士、だてに死線はくぐっていない。
 だが、ウラルは。

     ****

 気を失っていたのはわずかな間、けれどウラルにはそれがわからなかった。時間の感覚を失っていたのだ。
 誰かの腕に抱かれている。ウラルの頬にはその左胸が押しつけられており、心臓の音がよく聞こえた。疾走する馬の蹄音のような、激しく力強い心音。それにまじって本物の馬の足音に近いカポ、カポという音や、獣のうなり声が聞こえていたのだが、ウラルは気づかなかった。
 誰に抱かれているのだろう、とウラルはぼんやり思い、ああ、これはジンの腕だ、と思い出して納得した。硬い剣ダコのできた、あたたかで大きな手。広く厚い胸板。
 目を開けると、思ったとおりジンの顔があった。前方を鋭い目でにらみすえている。その首筋やひたいにはじっとり汗がうかんでいた。
「ジン」
 嬉しくなって呼びかける。ジンがはっとウラルの顔をのぞきこみ、慌てたように前を向いた。真っ青な顔、激しくなる心音。何にそんなに焦っているのだろう、とウラルは顔を少し傾けてその視線の先を見やる。
 顔を傾けた拍子に頭がひどく痛み、ウラルはうめいた。一瞬白くなる視界、あがる息。けれどその視界が元に戻ってみれば、なんということはない、そこにいたのは獣の姿のアラーハだった。
「なんだ、アラーハじゃない。ジン、アラーハをあんなに怒らせるなんて何をしたの? だめよ、ちゃんと謝らなきゃ……」
 普段のウラルなら明るい声が出たはずだ。それなのになぜか、かすかなかすれ声しか出ない。なぜなのか、ウラルにはわからなかった。考える力も残されていなかった。
 ウラルを横抱きにした男の袖はウラルの血でぐっしょり湿っている。二の腕の矢傷と、側頭部の傷からの血で。そう、ウラルはアラーハの巨大な枝角で頭、右耳の上のあたりを横殴りにされていたのだ。打撲傷というにはあまりに重い、ツノでえぐれた傷跡から血が絶え間なく流れ落ちていく。
 ふいにアラーハのうなり声がやんだ。伏せられた耳がおきあがり、ウラルの口元にぴたりと向けられる。不思議そうに耳を動かすアラーハ、まばたき数回分の間。
 うめき声、うなり声ではなく痛みにうめくような苦しげな声がアラーハの喉から漏れた。
 我に返ったアラーハはウラルを抱いた男がよける間もない素早さで一直線にウラルのそばへ駆け寄った。ウラルの口元に、側頭部に、右肩にあわてて鼻先を寄せ傷の程度をさぐる。さっきまで憎い仇の姿しか目に入っていなかったアラーハだが、もうウラルしか目に入っていない。一瞬にして怒気も殺気も失せていた。
 ウラルはほほえんだ。アラーハのひたいをなでようと手に力をこめたが、指先がぴくりと動いただけだった。
「許して、もらえた? よかった、ね、ジン……。……ねぇ、どうして、あんなに、怒ってた、の……アラーハ……?」
 安堵すると同時にまぶたが重くなった。じわりじわりと闇がウラルを覆っていく。ひどい頭痛がしていたが、心は穏やかだ。ジンがそばにいてくれる。ウラルをこうして抱いていてくれる。ウラルは目を閉ざした。全身の力が抜け落ちていく。
 ウラルを覗きこんでいたアラーハが顔を上げた。言葉を発せない口に代わり、目にめいいっぱいの感情をこめて。
 助けてくれ。
 ウラルを、助けてくれ……!
inserted by FC2 system