第三部 第二章 4「仇にまで祈られて」 上

 なにか苦い水を飲まされた気がした。
 まぶたをこじあけられ、ランプの光をあてられた気がした。
 側頭部に痛みを感じ、ひどくうめいた気がした。
 誰かが怒鳴る声を聞き、ついでしっかりと手をにぎられた気がした。
「ジン、そばにいて」
 のぞきこんだジンの目が青く見えた気がした。
「……ああ、ここにいる」
 優しく髪をなでられる感触に安心した気がした。

     *

 ウラルは丘に立っていた。
 ジンがいる。前と同じように水晶の棺に腰かけ、夕日を眺めていた。ジンの視線の先でふたの開いたイズンの棺と、ふたの閉まったネザの棺が金色の光を反射していた。
 黙ってジンの後ろに立つと、ジンの手がぽんぽんと水晶をたたいた。ジンの隣に、ジンの棺に腰かける。
「さっき、来てくれた?」
 話しかけると、ジンは「いいや」と首を振った。
「俺はもう、現実にはいない。俺は俺の世界にいる。わかっているだろう、ウラル?」
 やっぱり、とウラルは目を伏せた。
「あれはエヴァンスだ。エヴァンスと俺は体格が似ているからな。背丈も、肩幅も、胸の厚さも、腕の太さも。俺とエヴァンスと、ついでにサイフォスもあわせて三人で同じ服を着て並んだらなかなか見ものになったろうな。三人そろって声まで似ている」
 サイフォスもジンと体格が似ていた。殺され森の中で首をつられていたサイフォスをおろすとき、はじめて気づいたのだ。よく覚えている。
「ウラル、アラーハを止めてくれてありがとうな。だが、あんまりにも無茶が過ぎる。もっと自分を大切にするんだ。もしお前が自分の手にかかって死んだとなれば、アラーハはどうなると思う? 発狂しかねんぞ」
「でも、あれ以外にどうすればよかったの? あのままエヴァンスかアラーハのどちらかが死ぬまで放っておくなんて、私にはできなかった。アラーハなら私は殴らないと思ってたんだけど」
「フギンもやられてしまったしな」
 ウラルはぎょっとフギンの棺を見た。ファイヤオパールの棺は空っぽだ。アラーハのアレキサンドライトの棺、エヴァンスのサファイアの棺、シャルトルのペリドットの棺もそれぞれ空で、持ち主が死にかけたときに現れるという人影もない。
「お前を除いて、みんな無事だ」
「私、そんなにひどいの?」
「死にはしないが、あの戦いに慣れた連中がそろって青ざめるくらいには」
 怒りで我を失った巨獣の前に立ちはだかったのだ。ツノの一撃をまともに食らえば即死はまぬがれなかっただろうから、命があっただけよかったと思うしかないだろう。
 ジンが立ち上がった。
「お前が起きられるようになるにはまだ時間がかかる。少し歩かないか」
 うなずき、手をとられて立ちあがる。ジンの手は生前と同じくあたたかで、やはりエヴァンスの手に似ていた。
「やっぱりここ、私の夢の中なのね。ね、ジン、墓守って知ってる? 夢の中にお墓を持つ人をそう呼ぶんだって」
「ああ、お前は墓守だ」
「フギンとアラーハも?」
「アラーハはそうだ。フギンも、まぁ似たようなものだな」
 フギンが「似たようなもの」なのは、墓ではなく戦場の夢を見ているからだろうか。
 それにしても、アラーハも墓の夢を見ていたとは。そういえば隠れ家で「北へ行かなきゃならない」と強い直感に見舞われたとき、アラーハは何か言いたげにしていた。あれはもしや、墓守と関係があるのではないだろうか。
「墓守って、何なの?」
 ジンの足が止まった。
「この墓を心に持つ人だ、という説明では物足りなさそうだな」
「うん。だから聞いてるの」
 すぐに何らかの答えが返ってくると思っていたが、ジンはうつむき何かを考えるそぶりを見せた。
「すぐに答えられないようなことなの?」
「ああ。申し訳ないんだが」
「複雑だからどう説明しようか考えてるの? それとも単純に話せないこと?」
「後者だな、説明しようと思えば一言で済むんだが。もうしばらく待ってくれないか?」
「じゃあ、いくつか質問するから、答えられるところだけ答えて」
 ジンは苦笑しながらもうなずいてくれた。
「墓守は予言をすることがあるの?」
「ああ。ただし、お前もわかっている通り未来が見えるわけじゃない。この墓所から読み取れることだけに限られるが、予言は予言だな。知らないことを知る」
「じゃあ、ふたつめ。私、前にここであなたに会ってから、妙な直感をすごく感じるの。北へ行かなきゃ、とか。それも墓守と関係しているの?」
「それは、そうだな。墓守だからといえるだろう。ここから見ている俺の心がお前に伝染していたんだ。すまんな。ちなみに、アラーハをどうしても止めなきゃならんとお前が思ったのもそれだよ。ただ、あんな無茶に出るとは思っていなかった」
 そうだったんだとジンの目をのぞきこみ、ウラルはほほえんだ。
「じゃあ私が急な直感に襲われたら、それはジンがそう言っていると思えばいいのね」
 ジンも微笑を返してくれる。
「そうだな。ただ、無茶はくれぐれもするなよ。ほかには?」
「今のところはこれだけ。ほかはまた、次に会うときに。ごめんね、遺言もあまりちゃんと実行できなくて。少しずつ伝えていくから」
 ああ、とジンは寂しげにうなずいた。
 お墓参りにつきあって、と二人で墓地をそぞろ歩く。時々立ち止まっては花、そこらじゅうに咲く青いナタ草をつんだ。
 この墓地はいつも夕方だ。ナタ草は時間によって赤、橙、黄、黄緑、緑、水色、青、紫の八色に色を変えるにもかかわらず、このところいつも夕方の色、青いナタ草ばかりをつんでいる。ジンの無骨な手にも青い花は思いのほか似合っていた。
 途中、両親と兄の棺が見つかった。病死した母は看取ったが、父と兄はリーグの老騎士カフスに死んだと聞かされただけで遺骨も戻ってきていない。まだどこかで生きているような気はしていたが、二人の棺のふたはぴっちりと閉まっていた。
 棺のふたに刻まれた家族の名前を指でなぞるウラルの後ろで、ジンはぼんやりと棺を、〈スヴェル〉のメンバーたちの棺の群れを見つめている。
 ここには本当にたくさんの棺があった。ウラルが一度だけしか話をしたことがない人も、顔だけ知っていて名前は知らなかった人も。ふたの開いた棺の群れをのぞきこんでみれば、〈エルディタラ〉のメンバーたちだった。あの二重人格一歩手前なムニン団長やロク騎手のマルクの棺もある。このふたが閉まりませんようにとウラルは心から祈った。
「それは誰の棺だ?」
 ジンに声をかけられたのは、小さな黄水晶の棺の前でウラルがぼんやりたたずんでいる時だった。
「ジン、私と初めて会ったとき、私、陶芸窯の中で赤ちゃん抱いてたよね。あの子」
 ジンが手に持っていたナタ草をそっと棺の前に置いた。
「アラーハがエヴァンスを殺そうとするのを私は必死に止めたけど、私も人殺しなのよね……」
 ジンの大きな手がウラルの肩に乗せられた。それきり何も言わないジン、ウラルもまた黙ったまま黄水晶に透ける小さな影を見つめていた。
「ウラル」
 長い追悼の後、ジンが口を開く。
「そろそろ帰ってやれ。フギンが心配している」
 忘れていた。ウラルは瀕死の重傷を負って気を失っているのだ。
「帰ったらその棺の持ち主のことをフギンに聞いてみるといい。知っているはずだ」
 ジンがすぐそばの棺を指す。
 ウラルは首をかしげた。今までここになかった棺だ。乳白色の石、そのところどころが青くぼんやりと光っている。ブルームーンストーンの棺がフギンのファイヤオパールの棺とマライのタイガーズアイの棺にはさまれる形で出現していた。
「近々、お前が知り合いになる相手だ」
 空っぽの棺にたてかけられたふたには、メイル、と刻まれていた。
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