第三部 第二章 4「仇にまで祈られて」 中

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 ウラルはぼんやりと目を開いた。視界は薄暗い。日没後か夜明け時か。薄青い光が粗造りの部屋を照らしていた。
 顔を動かし部屋を見渡そうとしたとたん目の前に火花が散った。頭に走る激痛にまた気を失いそうになり、ウラルはうめいた。
 そのうめき声を聞きつけたのだろう。すぐそばで何かが身じろぎする気配がした。ウラルの横たわるベッドのわきの窓が外側から開かれる。冷たい空気と共に大きな獣の鼻面がすべりこんできた。
「アラーハ」
 痛みをこらえて無事な左手を差し伸べる。アラーハはそれに鼻面をすりよせ、ウラルの顔に鼻先を近づけて、よかった、と言いたげに長いまつげを伏せた。すまなかった、と言ったかったのかもしれない。
「気がついたのか?」
 アラーハとは反対側から椅子を引く音と共に男の声がする。ウラルは驚いて反射的にそちらを振り返ろうとし、痛みにうめいた。
「ずいぶん痛むようだな。待ちなさい、すぐに痛み止めを持ってくる」
 男の足音が頭にひどく響く。声ですぐエヴァンスだとはわかったから振り返らなくてよかったのだが。目を閉じて必死に痛みをこらえていると、エヴァンスがかたわらに来る気配がした。
 頭を持ち上げるぞ、と声をかけられかすかにうなずく。薬を飲むのに最低限必要な程度に慣れた手つきで顔を傾けてくれた。うまく起こしてくれたのだが、それでも振り向くだけで激痛が走る頭だ。痛いものは痛い。歯を食いしばって痛みをこらえ、薬を飲むどころではないウラルをエヴァンスは辛抱強く待ってくれ、痛みが引き余裕が出てくるのを見計らってうまく薬を飲ませてくれた。
「これでだいぶ楽になるはずだ。ゆっくり横になっていなさい」
 薬を飲み終え、再び枕に頭をつけるところで走った激痛にぐったりしているウラルの髪をエヴァンスはそっとなでる。覚えのある感触にウラルはぼんやり目を開いた。おずおずとした、けれど思いのほか優しいしぐさ。青い目と薄い唇には笑みさえ浮かんで。
「ありがとう、エヴァンス……」
 エヴァンスの目が不思議そうにウラルを見、次の瞬間、いつもの冷たさと鋭さを帯びた。
「ようやくはっきり目が覚めたようだな」
 声もいたわりに満ちた穏やかなものから、普段の鋭いものに変わっている。ウラルは目だけで小さくうなずき、エヴァンスの変化を素直に寂しく思った。
 エヴァンスはジンのふりをしていたのだ。エヴァンスにジンを重ね、安堵して笑うウラルに「俺は違う」と言えなかったのだろうか。
「ジンと呼んで、返事をしてくれましたね」
「ジンとは誰だ」
「私の大切な人です。死んでしまったんですが」
 そうか、とエヴァンスは短く答えてそっぽを向いた。
 即効性の薬なのだろう。痛みがだいぶ楽になり、余裕が出てきた。シャルトルとフギンのものらしい二人分の寝息。どうやら今は夕暮れ時ではなく夜明け時らしい。
 窓から鼻先をのぞかせているアラーハに目をやり、ウラルははっと息をのんだ。エヴァンスとアラーハが至近距離にいる。アラーハは枝角が邪魔でそれ以上入ってこれないのだが、それでも十分に鼻先の届く位置。噛みつくぐらいはできる。
 それでもアラーハは耳も伏せず目も穏やかなまま、静かにウラルを見下ろしているだけだ。そのアラーハの耳の横では血止め草の束が逆さに吊り下げられている。
「この獣とは休戦状態だ。あの片腕の男とも」
 見透かしたようにエヴァンスが答えてくれた。
「互いの武器は袋に入れ、鎖で縛りあげてこのベッドの下にある。鍵はお前の枕の下だ。包丁や薪割り用の斧はそのままだから、いざとなればどうしようもないが、ひとまず武器をとらないことはわたしもシャルトルも示したつもりだ。わたしたちから攻撃はしない。安心して休むがいい」
「私を殺さなくていいんですか?」
 エヴァンスは苦笑する。
「命の恩は命で返す。そうするべきだと我らが神は説いておられる」
 おごそかに言い、それに、と続けた。
「それに、お前を殺す気が失せたというのが本当のところだ。なぜわたしを助けた」
「あなたこそ。なぜ私を」
「お前に助けられたからだ」
 だから理由を聞いている、とばかりエヴァンスは顎をしゃくった。
「あなたを助けたかったわけじゃない。ただ、アラーハがあなたを殺すのに耐えられなかった。アラーハを止めたかった。それだけです」
 ほう、とエヴァンスの目が細くなる。
「ついでで仇の命をかばうのか。自分の命を捨ててまで」
「大切な人が、目の前で人殺しをするのを黙って見ていられますか?」
 言ってから目の前の男が人殺しに慣れていることを思い出したが、エヴァンスはそうだなと真面目な顔でウラルの顔をのぞきこみ、それきり何も言わなかった。
「少し話しすぎたようだ。休んでいなさい。何か欲しいものは」
 首を振るとエヴァンスはうなずき、ウラルのベッド脇から離れかけて立ち止まった。
「そうだ、これを返しておこう」
 エヴァンスは机に置いてあった金色の短剣を取り、ウラルの布団ごしの胸の上に置いた。
「シャルトルからお前の大切なものだと聞いている。刃は、つぶさせてもらったぞ」
 ジンの形見のアサミィを無事な左手でぎゅっとにぎりしめる。片手で苦労して刃をわずかに抜いてみれば、言われた通り金槌かなにかで丁寧に刃がつぶされていた。
 エヴァンスが少し離れたところの床で眠っているらしいシャルトルを起こしている。すぐにシャルトルは飛び起き、目を開けているウラルを認めて笑顔になった。
「ウラルさん、よかった! お加減はいかがですか?」
 息せきって尋ねてから、自分は今までウラルの命をつけ狙っていたことを思い出したのだろう。シャルトルは気まずそうな顔になり、居心地悪げに目を伏せた。
「だいぶ楽です。痛み止めを飲ませてもらったので」
 答えてほほえむと、シャルトルはほっとした様子で再び笑顔を見せた。
 エヴァンスはシャルトルを起こしてそのままフギンの横にひざまずいている。ウラルが目を覚ましたのを知らせてやろうと思ったらしい。が、エヴァンスがフギンの肩に手をかけたその瞬間。
 フギンの左こぶしがエヴァンスの顔のあったところを薙いだ。エヴァンスは顔をのけぞらせて避けている。
「何しやがる」
 フギンの声はいかにも不機嫌だった。休戦状態だろうが同じ部屋で寝起きしていようがフギンはフギンだ。
「ごあいさつだな。ウラルが目を覚ましたぞ」
 だが、この一言に眠気も不機嫌さも吹っ飛んだらしい。「ウラルが」と呟くなりウラルのベッド脇に駆け寄ってきた。
「よかった。バカ野郎、心配させやがって」
 ごめん、ごめんねと謝るしかない。本当に死ぬほど心配していたに違いなかった。
「お前の意識は戻らないし、このベンベル人ども追い出そうとしたんだけどさ、てんで出て行こうとしないし。ウラルの世話をするなら両手がいるだろ、だと! そりゃそうだけどさ。なんとかなるしお前らがいない方がウラルのためだって言っても、追いかける相手がここにいるのにどこへ行けというんだって。なんか俺、妙に納得しちまって言い返すチャンス逃してさ」
 まくしたてながらフギンは嫌そうにベンベル人二人をにらむ。
「お前がちゃんと回復して、この小屋を出れるようになるまで居座るってさ。どうするよ。お前、出ていけって言ってくれよ」
 え、とエヴァンスとシャルトルを見てみれば、二人は顔を見合わせ苦笑していた。
「そういうことだ」
 こともなげに言い放つエヴァンスに、フギンの目元がびくりとひきつった。
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