第三部 第三章 1「暗雲きたる」 上

 ウラルはベッドに横たわっていた。久々の自分の、森の隠れ家にあるウラルの部屋の布団。カビまみれを覚悟していたが、この隠れ家にとどまっている〈エルディタラ〉の誰かが定期的に干してくれていたようだ。あるいは誰かがこの部屋を使っていたのかもしれない。ウラルがこの部屋を使っていたときとさして変わらない、懐かしい暖かさだった。
 今の今まで眠っていたのだが、なんとはなしの居心地の悪さを感じて目が覚めた。具合も悪いことだしもう少し眠っていたくて、ウラルは目を閉じたまま寝返りを打つ。
「わ、起きちまったか」
「だから言ったじゃないの! ドア閉めて!」
「寝返り打っただけかも」
「いいから閉める!」
 押し殺した怒鳴り声が聞こえ、ウラルは今度こそはっきり目を覚ました。ぱたんとドアの閉まる音がする。
 ウラルは横になったまま閉まったドアをきょとんと見つめた。ひそひそ声の主たちはまだドアの前でなにやら言い争っているようだ。聞き覚えのある声が三、四人分。いや、もっといる。
「〈エルディタラ〉の人たち?」
 ぴたっとドアの前の話し声がやんだ。体を起こし黙ってドアを見つめていれば、そろりそろりとドアが細く開く。その隙間から縦一列に何人かの顔がのぞいた。一番上はシガル、間に三人の顔をはさんで一番下がナウトだ。
 思わず目をしばたき笑みを漏らすと、今度こそ本格的にドアが開いてわらわら人が部屋に入ってきた。さらに、さっきの覗きこみには参加していなかった数人がリビングから来る足音もする。いったい何人集まっているのやら。
「ごめんごめん、起こすつもりはなかったんだ。ただウラルが帰ってきたって聞いてさ、どうしても顔が見たくなっちまって」
 へらへら笑いながらマルクが言う。だから止めたのにと言いたげにシガルが肩をすくめたが、シガルも人のことは言えないのだろう。シガルのかわりに姉さまがたの一人がぺしりとマルクの頭をひっぱたいた。いや、姉さま「がた」とは言えなさそうだ。ウラルのほかに女は彼女だけだった。
「なに笑ってんのよ、ウラルの顔色見なさい。とっとと出る!」
 名前はセラ。〈ゴウランラ〉の要塞で初めて会い、〈エルディタラ〉目前では森の中まで迎えに来てくれた。そのほかにもなにかと付き合いがある。
「でもよ、ウラルだぜ? ほんっと久しぶりなんだからちょっと話くらい」
「いい加減にしなさい、あんた蹴られたいの?」
 言うや否やセラのほっそりした足がうなりをあげてマルクの尻を蹴りつけた。
「この暴力女! オトコオンナ! いいじゃんか少しくらいウラルと話させてくれたって!」
 再びセラの足がうなった。あっという間にマルクを部屋から蹴り出し、きろりと腕組みしながら部屋に入りこんだ男らをねめつける。男らは「おっかねー」とばかりに肩をすくめ、「じゃ、この怖い姉ちゃんが出て行った後でな」とこそこそ部屋を出ていった。
「これでよし。具合どう、ちょっとはまし? 帰ってくるなり倒れちゃったって聞いて心配してたのよ。なのにあの男どもときたら」
 まったく美人なのにすごみがある。セラの視線の先、ドアの向こうでマルクが尻をさすりながら飛び上がるのが見えた気がした。
 そうなのだ、森の隠れ家に帰ってくるなりウラルは倒れた。もともと具合の悪いところに、慣れないロクに長時間乗っていたものだから揺れに酷く酔ってしまった。誰に会う余裕もなくこの部屋に転がりこみ、気を失うように眠りに落ちて、起きてみればこの大歓迎というわけだ。
「とりあえずあなたは絶対安静! どうしたっていうのよ、こんな酷い怪我こしらえて。頭を打ったときって本当に怖いからとにかく休むこと! わかったわね? 男どもの方は私がなんとかするから。何か欲しいものあったら言って。包帯かえる? お粥作ったら食べられる?」
「セラ、私は大丈夫だから。寝たらすっきりした。マルクも居てくれたって大丈夫だったのに」
「なに言ってんのよ、あなた自分がどんな顔色してるかわかって言ってる? 鏡もってきてあげましょうか? なのにあんなスケコマシを部屋の中に入れても大丈夫なんてどうかしてる。あなたが寝間着でベッドに横たわってるの見て喜んでる男よ? まったく男って生き物はなんであんななのかしらね、そろいもそろって! えっと、傷薬はこれで、包帯はこれっと」
 ウラルは軽く笑った。これがセラ流の優しさだ。ありがたく手当てをしてもらい、無茶しすぎだと叱られるのと心配されるのを繰り返しながら作ってもらったお粥を食べる。
「ね、セラ、お願いがあるの」
「なに?」
「ダイオに会いたい。呼んできてもらっていい? スケコマシじゃないんだからいいでしょう?」
 ドアの向こうで笑い声があがった。まさかウラルの口から「スケコマシ」などという言葉が出てくるとは思わなかったのだろう。相変わらずこの部屋は壁が薄いのだ。
「なにいやらしい笑い声あげてんのよ!」
 セラが目を吊り上げて部屋の外に出るなり、派手な平手打ちの音が何度も響いた。
「はー、すっきりした。ナウト、ダイオ将軍呼んできて。ウラルが話したがってるって」
 大慌てで階段を下りる軽い足音、わざとらしく手をさすりながら戻ってくるセラ。ドアの隙間から顔を押さえて悶絶するマルクの姿がちらりと見えた。その横では頬に見事な紅葉をくっつけたシガルが困ったように笑っている。
「セラ、まさかとは思うけどダイオにまでこんな振る舞いしてないよね?」
「してないわよ、紳士だし。私だってだめな相手はわきまえてるわ」
「シガルはひっぱたくのに?」
「あの人はだめなの?」
「騎士さまよ、一応」
 「一応」のところでドアの向こうからかすかに苦笑の気配が伝わってきた。セラがふんと鼻を鳴らす。
「威厳の問題ね、たぶん。シガルにもダイオ将軍みたいな威厳があったら殴らないわよそりゃあ」
「じゃあイズンさんはどうなんです? あの人も殴らないみたいですが」
 ドアの向こうからの質問にセラは軽く鼻を鳴らした。
「たしかに威厳があるって感じじゃないわね。要は私の直感よ、直感。理由なんて考えるだけ無駄だわ。食べ物の好みとおんなじ。イズンはだめ、あなたはオーケー。頑丈で性懲りのないマルクは半殺しでも良し」
 マルクのブーイングが騒がしく返ってきた。シガルはおやおやと肩をすくめているのだろう。気分で殴られてはたまったものではないだろうに。
 やがてナウトとダイオの足音が階下から聞こえてきた。階段ののぼりきったところでダイオの太い笑い声。
「あのご婦人だな。そろいもそろって見事な紅葉だ。さて、ウラルはどこにいる?」
「こちらでーす!」
 セラが席を立ってドアを開けた。開け放たれたドアの向こうから相変わらずの派手な格好をしたダイオが顔をのぞかせる。貧血の体には見ているだけで頭がくらくらしてくるほどの赤づくめ。
 セラはダイオと、一緒に来たらしいイズンだけを部屋に招き入れ、ぴしゃりとドアを閉ざした。これに乗じて入りこもうとしていたらしいマルクがドアに腕を挟まれて苦痛の声をあげる。顔をしかめるマルクにセラはドアの隙間から蹴りを入れ、次こそぴったりとドアを閉じた。
「よくぞ戻った、ウラル」
 ウラルはよろよろと立ちあがった。座っていなさいとダイオがウラルの肩を押さえる。ウラルはその手をとって自分の頬に押し当てた。やっと会えた。
「帰りが遅くなって本当にごめんなさい。フギンも謝っていました」
「そんなことはいい。横になっていなくて大丈夫か?」
 大丈夫、とウラルは笑った。セラがベッド脇から咎める視線を送ってよこす。イズンの顔も心配そうだ。よほど酷い顔をしているらしい。
「その怪我はどうした? エヴァンスにやられたのか」
「ちょっと妙なことになってしまって」
 エヴァンスに襲われたことからアラーハの暴走のくだりを話そうとして、ウラルは黙りこんだ。ダイオはまだアラーハが人でなくイッペルスという獣だと知らない。そこから話さなければならないだろうが、信じてくれるだろうか。しかもダイオはよりにもよって一番人間らしかったときのアラーハしか知らないのだ。
 ウラルはそこまでぼんやり思ってから、そうだ、とダイオと話している間に静かに部屋に入っていたイズンを振り返った。アラーハのことを確実に信じてくれる人がいた。
「この怪我はエヴァンスにやられたんじゃない、事故なの。アラーハが」
 イズンの方を見ながら言ったのだが、その隣でダイオが怪訝そうな顔をした。
「おや、アラーハはフギンと一緒にいるのか? この森で何度かアラーハらしき男を見ているんだが」
「え?」
「この暑いのに毛皮を着こんでいる人間などそうはいない。もっとも本当にあの御仁ならばこそこそ隠れずに出てくるだろうから、妙だと思ったがな」
 ウラルはイズンを見上げた。イズンが肯定の視線を返してくれる。イズンがいてくれて本当によかった。間違いない、この森の新しい守護者だ。
「知り合いか」
「ううん、でも心当たりはある」
 ダイオは答えを求める目をしている。そのままはぐらかそうとしていたウラルは苦笑して居住まいを正した。相手は幾度も死線をかいくぐってきた将軍、警戒心が強いのは当然かもしれない。
「大丈夫。たしかに怪しい人かもしれないけど、悪い人じゃないと思うから。アラーハのお仲間」
「紹介してもらうことはできないか?」
「私もまだ会ったことがないの。でもアラーハが帰ってきたら」
 でも獣の姿のアラーハでは。イズンを見る。
「彼も人語は話せるでしょうから大丈夫ですよ。ただし、アラーハ以上に偏屈なのは間違いないでしょうね。アラーハの前ならともかく、我々の前に出てくれるかどうか。とりあえず話を戻しましょうか。僕らもシガルからあらかた話は聞きましたが、ウラル、その怪我はアラーハに?」
 ダイオが不満げな目でイズンを見たが、これ以上押しても二人は答えないと判断したらしい。「つらかったら遠慮なく言いなさい」とウラルに優しい目を向けた。
「なんと説明したらいいか」
 ウラルは休み休み、乞われるままにいきさつを語った。
 ウラルの情報にダイオとイズンが満足したころ、セラが割って入って二人を部屋の外へ追い出し、ウラルに横になっているよう指示して出て行った。聞き耳を立てていたマルクがまたも尻を蹴飛ばされる音、笑い声、そして平手打ち連打の音。
「マームさん、生きてるよね。元気かな……」
 蘇ってきた思い出に悲しい笑みを浮かべ、ウラルはドアの向こう、マームとサイフォスの部屋だった所を見つめた。セラとマームは似ている。マームも〈スヴェル〉の男らの台所を一手に引き受ける肝っ玉母さんだった。
 ふと、誰かに呼ばれたような気がして、ウラルはそちらを振り返った。
「ジンね?」
 あの墓からの声に耳を澄ます。
「次は南西? マームさんに会いに行けばいいの?」
 南からの呼び声は、今はまだ強くない。
「私の体が癒えてから、ね」
 ふぅっと呼び声が消えた。
「そうだ、ムーンストーンの棺の人のことを聞かないと。メイルさんだったっけ。無事に帰ってくるかしら、フギン……」
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