第三部 第三章 4「悪魔の狂気、守人の祈り」 下

 不意に明るくなった視界に目をしばたく。ジンが消えると同時に朝が来ていた。首や腰が少し痛い。自分の体を見下ろしてみれば誰がかけてくれたのか毛布があり、首の下にはクッションが置いてある。近くのテーブルには眠る前に渡されたミルクが手付かずで残っていた。ソファーに座ったまま眠りこんでいたらしい。
 ウラルはミルクを飲み干して立ちあがり、ドアノブを回した。鍵はかかっていないようだ。部屋の外へ出ようとすると窓から鼻を鳴らす音がした。アラーハが窓から心配げな顔をのぞかせている。
「顔を洗いに行くだけ。大丈夫、だいぶ落ち着いたから」
 アラーハがうなずき、窓から顔を引っこめた。ウラルは部屋の外に出て適当にベンベル人を捕まえ、下手なベンベル語でトイレの場所を聞いた。相手は話したら呪われるとでも思っているのか、おろおろ視線をさまよわせながら身振り手振りで教えた後、大慌てで逃げていった。
「逃げてもいいのかしら」
 ウラルはのんびりと身だしなみを整えた。終わって出てくると、ドアの前にむっつりとエヴァンスが立っていた。さっきの男かアラーハかに呼ばれて来たらしい。
「エヴァンス、櫛を貸してくれない?」
 エヴァンスはあっけにとられたらしい。無表情のまま黙っている。
「そんなに髪が長いんだから持ってるでしょ? 荷物、宿に全部置きっぱなしで」
「ああ」
 エヴァンスに渡された櫛は何かの骨で作られたらしい真っ白な、無骨なものだった。持っているだろうとは思っていたが、実際こうして見せてもらうと妙な気がする。ウラルは礼を言って髪をくしけずった。
「昨日のお前が嘘のようだな」
 エヴァンスがまじまじとウラルを見ている。ウラルは苦笑して櫛を返した。
「嘘だったらよかったんだけど」
「落ち着いたなら教えてもらおう。昨日のあれは何だ?」
 いつもの鋭い視線がウラルを貫く。こちらが弱っているときには不思議なほど優しいのに、やっぱりエヴァンスはエヴァンスだ。
「私は狂ってしまったの。フギンも。狂人の話だからあなたが理解できるとは思えない。それでも話したほうがいい?」
「今のお前はそう見えないな」
「今も。というより、あなたに会ったあたりから少しずつ狂い始めていたみたい」
「とりあえず昨日と違ってまともに話は通じるようだ。聞かせてもらおう」
「そうね、昨日よりはまともよ。どこから話したらいいんだろう」
「あの男となにがあった?」
 問われるままにウラルは語った。が、まるで答えにならない。当たり前だ、ウラル自身もよくわからないことを誰かに説明するのが無謀なのだ。
 説明なかばで黙りこんでしまったウラルにエヴァンスはため息をついた。
「とりあえずあの男には正真正銘の悪魔が憑いていて、殺し損ねたわたしをもう一度襲ってくるというわけだな?」
「それを私に憑いている正体不明の精霊が祓ってくれる、そういうことみたい」
「まるでおとぎ話だな」
「おとぎ話で終わらせてくれる?」
 エヴァンスは無表情で黙りこんだ。
「いいの。私の作り話で終わってくれればどれだけいいかと思ってる」
「ばかにしているわけじゃない。ただ、突飛に過ぎるな」
 わかってる、とウラルは笑った。信じてもらいたいわけじゃないし、私も話せば話すほどばかばかしく思えてくるの。
 エヴァンスはウラルの目をじっと見つめた。狂気の色を探すかのように。ウラルがほほえんでみせると、ついっと視線がそらされた。
「だが、あの男がもう一度襲ってくることは十分考えられるな。用心しておこう」
 少しは信じると言いたいらしい。エヴァンスは「遅くなったが朝食を運ばせよう」といつもの無機質な声で続け、きびすを返した。

     *

 昼過ぎにはベンベル兵が宿の荷物を持ってきてくれた。ご丁寧に食べかけのサンドイッチと空っぽのビール瓶まで入っている。
 ウラルの荷物のみならずフギンの荷物もまるごとウラルの元に戻ってきた。フギンはいつもベルトにつけているポケットとサーベル、それに馬のディアン以外は何も持っていかなかったようだ。町の外にたった一人、荷物もなしに血まみれの服で、どうやって夜を過ごしたのだろう。
 腐るようなものが入っていないかのチェックのためにウラルがフギンの荷物を開けると、一番上には真っ黒なマントが無造作に丸められて入っていた。
「取りに行った者いわく、ベッドの上に大きく広げて置いてあったそうだ」
 フギンがジンへの嫉妬から眺めていたのか、あるいはいずれ宿へ帰っていただろうウラルに見せつけるためのものだったのか。
 マントを膝に置き、ウラルはかぎ裂きや裾のほつれを丁寧につくろっていった。夢に現れるジンも毎回必ず身につけているこの黒マント。ウラルが最後にジンに会ったとき体にかけてくれたもの。ジンの腕。胸。ポケットに入っていたアサミィの重さ。ウラルは胸のペンダントをそっと握り、ベルトに挟みこんだアサミィをなでた。
 ふと、窓を軽く叩く音にウラルは顔をあげた。
「ウラル姉ちゃん! 助けに来たよ!」
 小声で叫ぶ声にあわてて振り返れば、アラーハの巨体に隠れるようにしてナウトが立っていた。行方不明になったウラルらをダイオは探してくれていたのだろう。昨日あれだけ派手に目立ったことだし、アラーハという格好の目印がここにいるのだから探す手間もかからなかったはずだ。だからといってここまで堂々と入ってくるとは!
「ま、僕なら少々入りこんでも『子どもが遊んでるんだろう』で済ませてくれるだろうし、いざとなったらアラーハが僕ひとりくらい逃がしてくれるだろうってことでさ。それに外にマルク兄ちゃんたちもいるからちゃんと助けてくれるよ。フギン兄ちゃんは?」
「フギンはここにはいないの。町の外にいるはず」
「離れ離れだったんだ。わかった、じゃあ早く探さなきゃ」
 ナウトが窓越しに手を差し伸べる。ウラルはその手をとって窓枠を乗り越え、ナウトをぎゅっと抱きしめた。
「ナウト、ありがとう。立派な騎士ね。でも」
 ナウトが意外そうに目をしばたいた。
「私はもう少しここにいるつもりなの。この通りひどい仕打ちはされていないし、見張りもついていないから心配しないで。その気になればアラーハに暴れてもらって逃げることもできるし。知りたいことがあるの」
「姉ちゃん、みんな心配してるよ」
「本当にごめん。でもフギンを取り返すにはこれしかないみたいで」
 ゆらりと建物の脇、ナウトの真後ろ、ウラルの正面からエヴァンスが現れた。立ち聞きしていたらしい。アラーハがナウトをかばって立ちふさがる。
 その時だ。
 門の方からベンベル語の悲鳴があがった。漆黒の馬、赤い男。ただ一本の腕にはベンベル式のシャムシール。利き腕を失ったフギンが両手使いの重い剣を振り回す。門のところで待機していたらしいダイオやマルクが唖然とした様子で、けれどフギンに加勢しようと思ったのか、あるいはウラルとナウトを守ろうとしたのか、飛び出してきた。
「お前の話の通りだな、ウラル」
 エヴァンスが剣に手をやる。やっとその存在に気づいたナウトがぎょっと身を引いた。
「わたしの命が欲しいか、悪魔憑き!」
(ウラル、二人を戦わせるな! エヴァンスの手を押さえるんだ。剣を抜かないように)
 声にぎょっと胸元のペンダントを握り締める。胸の奥でジンが笑う気配がした。
(ああ、そうだ。俺はお前の中のジン――ジンならお前が本気で嫌がることを無理強いはしない。俺の指示通りに動いてくれ。すまんが最後のところだけは口を借りるぞ)
 ウラルはうなずいてエヴァンスの前に立ちはだかり、その手元を押さえた。
「剣を抜かないで。戦わないで。私の言う通りにして」
(フギンと目を合わせるんだ。怖いだろうが我慢してくれ。視線を通して俺が守る。目が合っている間はやつの方から攻撃してこない)
 フギンが剣を振りかぶる。エヴァンスがウラルの腕を振りきって剣を抜く。
「さっき言ってた『精霊』が助けてくれてるから。戦わないで、エヴァンス」
 ウラルはフギンの目を見据えた。光のない虹彩、どこにも合っていない焦点。開ききった瞳孔、その奥の闇。
(目をそらすな。そのまま間合いを詰めてくれ)
 フギンが剣をおろした。まるで死人の目だ。まるで。まるで……。
 ジン。サイフォス。リゼ。ネザ。父。兄。フェイス将軍。カフス将軍。欠けていった仲間の面差しが次々と重なる。その声が。殺せ。ベンベル人を殺せ!
 そうだ、〈戦場の悪魔〉は、この戦で死んでいった男らの集まりだ! ジンさえ〈悪魔〉の一人なのだ! ほら見ろベンベル人のキャンプに蜂の巣を投げ込ませて襲撃した後のジンの面差しが透けている!
(ウラル、そうだ。お前が見ているのは幻だが、真実でもある)
 わなわな震えている肩に大きな手のひらが置かれている。エヴァンスの手だ。自分の後ろに下がれと言っている。
(目をそらすな。終わらせてやろう)
 ウラルは肩に置かれた手をそっと握り、離すと、一歩を踏み出した。
 亡霊の目の前へ。ウラルの口がひとりでに動く。突風がウラルの言葉をかき消した。
「何を言ったの?」
(やつの真実の名だ)
 ふっとフギンの顔から険が消えた。まぶたが閉ざされる。壮絶な死に顔から安らかな死に顔へ――そして頬に赤みが戻り、固く刻まれたシワにみずみずしさと弾力が戻り、生気が宿った。死者が生き返ったかのようだ。
 閉ざされた眼が開かれる。爛々とよく光る目がウラルを見つめた。だが。
「あなたは、誰」
 〈戦場の悪魔〉とは違う。けれどフギンでもない。体の震えが止まらない。
「敏い娘だ。礼を申そう、お前の内に宿る者にも」
 ぐいと血塗れの顔を手でぬぐい、フギンの姿をした男はエヴァンスをねめつけた。
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