第四部 プロローグ 「大いなる壁」 

「こんなことになってるなんて。三年前はこんなじゃなかったのに……」
 丘の上からの景色にウラルは息を呑んだ。
 アラス地区を流れるフェラスルト川の土手に大量の土嚢が積まれている。そして大勢のリーグ人が鞭打たれ働かされていた。おそらく大半は戦で捕虜にされたリーグ国軍の兵士だろう。
「あの壁が完成したときが、リーグの終わりだ」
「どういうこと?」
「ベンベルの常套手段だ。あの壁で南部の一部をリーグ国全体から分離する。そしてそこに圧力をかけ、恨みをあおる。そしてその恨みを比較的楽な暮らしをしている北部に向けさせる」
 あまりに淡々とした声だった。思わず振り返れば、青い目は普段以上に冷え冷えとした光を放っている。
「内乱を起こすってこと?」
「そうだ。だが、それだけでは少数かつ疲弊した南部が負ける。そこで我々ベンベル人が影から手を下す。まずは麻薬を栽培させて疲労をごまかす。それから改宗を迫り、改宗した者には減税する。子どもを教会に差し出させ、その子どもを洗脳していく。むろん北部の反撃もある程度妨害する。そして南部が勢力を拡大していくにつれ、そのいわば洗脳地域を拡大していく」
 エヴァンスが乾いた声で話しながらウラルの隣に立った。
「数年後には、リーグは完全にベンベル国に変わる」
 びゅおう、と崖の下から風が吹き上げる。風は風神の眼だ。風を通してこの世界を見守る女神はエヴァンスに抗議したのかもしれない。
「そんなことをしてベンベルはたくさん国を滅ぼしてきたの?」
「わたしが関わったのはリーグとコーリラだけだが、ベンベル国が滅ぼしてきた国は両手で足りないだろうな。お前にはまだ実感がないかもしれないが、リーグ王国はもう存在しない。王や大臣も既に処刑されている」
 「そんな」と言いかけ、けれどウラルは口をつぐんだ。エヴァンスに言ったところで仕方のないことだ。エヴァンスは予定を話しているだけ。過去あったことを話しているだけ。いくら一国の騎士といえど変える権限は彼にない。変えられるとすれば――。
 火神はおそらくフギンの記憶を頼りに〈ジュルコンラ〉へ向かったはずだ。けれど一度ジンに連れられ行った記憶を頼りに、アラーハの案内も受けて〈ジュルコンラ〉へ向かったのだが、そこはベンベル人が占拠していた。エヴァンスがベンベル人に事情を問いただしたがそこの責任者は何も知らず、近所の住民に尋ねてみれば「一年ほど前、ベンベル人が来る前に総出で南へ向かった」と答えが返ってきた。
 〈ジュルコンラ〉はどこへ行ったのだろう。そしてフギンはどこへ行ったのだろう。行き先を見失ったウラルは、胸の奥から呼びかける声に従って南へ、南へと歩いてきた。
「フギンは壁の中にいるのかしら。ここ以外に橋は?」
「わたしはこのあたりの地理に疎い。だがベンベルが監視できない橋は落とされ、浅瀬も監視されているはずだ。夜陰に乗じて川を渡る男ではなかろうから、誰かが見ているか、さもなくば壁のこちら側にいるだろう。あの男は目立つ」
 本物のフギンが壁の向こう側へ行くなら、間違いなく夜に川を渡ったろうが。エヴァンスも今までのフギンと今のフギンを完全に別人と考えているようだ。
 もう休憩はいいだろう、とエヴァンスがゴーランの手綱をとる。ウラルもアラーハの背に乗せてもらった。
 ある程度橋へ近づき、アラーハが身を隠す場所がなくなったところでウラルはアラーハの背を降りた。そこで一旦別れる。ウラルが壁の向こう側から日のあるうちに戻らなければ、夜にアラーハが川を渡ってくることになった。
 ベンベル兵にエヴァンスが話を通し、壁の向こうへ続く橋を渡る。渡り終えたところでちょうど、ごぅん、と正午の祈りの時間を示す鐘がどこからともなく鳴り始めた。
 エヴァンスとシャルトルが橋の脇に荷物を置き、祈り始めた。橋の横にある詰め所にいたベンベル人も出てきて祈り始める。
 ウラルは目を見張った。地面に倒れこむようにして祈るベンベル人の中にリーグ人が混じっている。一人や二人ではない、振り返ってみれば十人や二十人でもない。
 ウラルは思わず後ずさった。その場で祈らず立っているのはウラルひとりだ。さすがに川で土木工事をしている男らは祈っていないようだが、この橋のたもとにある村のほとんどの住人がベンベルの神に祈りをささげている。たどたどしく経文を唱えながら、時々忘れるのか言葉をとぎらせながら。村の家々の向こう側には畑、そこには見慣れない野菜が植えられていた。エヴァンスの家でメイドをやっていたときに何度か使ったベンベルの作物。
 胸元のペンダントを握り締めた。ここはどこなのだろう、間違いなくウラルは異邦人だ。 風神はリーグ全土がこんなになっても火神を止める気なのだろうか。風神の気持ちはわかる、けれどこんなになってまで手をこまねくのは辛すぎる……。
 祈りを終えたエヴァンスがウラルを見つめた。感情のない目だった。
 あきらめて受け入れろ。これがこれからのリーグだ。
 どうしていいかわからない。ウラルはエヴァンスから目をそらし、風神に助けを求めながらぎゅっと目を閉じた。
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