第四部 第一章 2「孤児院の母」上

 硬い木と木が打ち合わされる音でウラルは目を覚ました。
 結局、出ていきそこねた。アラーハも呼んでいない。とても眠れないだろうと思っていたのに、エヴァンスが出ていったとたん酷い疲れを感じて肩にかかった毛布ごとベッドへ倒れこみ、そのまますこんと眠りに落ちてしまったのだ。
 手櫛で髪を整えつつ窓から外を見てみれば、エヴァンスが兵士らに稽古をつけていた。筋肉痛のためか兵士らの動きは悪い。そこをエヴァンスが鋭く、的確に打ち倒していく。
 エヴァンスの動きは昨晩よりずっと落ち着いていた。豹のような鋭さ、荒々しさはあるが、どことなく余裕がある。一晩休んでエヴァンスの激情は鎮まったらしい。もう昨晩のようなことは言わないだろうし、悲しそうな顔はおろか表情というものをまともに見せないエヴァンスに戻っているのだろう。
 なぜ自分は逃げなかったのだろう。ウラルは床に転がったままの犬笛を拾いあげ、ポケットに入れた。
 わかっている、昨日のエヴァンスは夢や幻のようなもの。きっと今、本人になにか問いかけても「忘れろ」で終わりだろう。現実のエヴァンスは「何日後に殺す。覚悟しておけ」と無感情に告げ、ウラルが泣いても喚いても予定の日にこの首を握り、くびり殺す男だ。
(死にたくない……)
 以前、エヴァンスに言った自身の声が蘇る。
(ジンからもらった命、こんなところで、失いたく、ない……)
 忘れようもない。夜明け前の町で、エヴァンスはウラルの首を握ったのだ。

     *

 顔をあわせてもエヴァンスは案の定、何もなかったようにウラルと接した。シャルトルは気まずそうにしていたが、彼もまた主君にならって何も言わなかった。
 昼前には兵舎を発った。今はフェラスルト川をさかのぼる形で東へ向かっている。
 エヴァンスいわく〈ジュルコンラ〉までは馬で一日の距離だという。兵士らに尋ねたのか、エヴァンスの地図には〈ジュルコンラ〉の正確な位置が書き込まれていた。地図自体はとても実用的で、書き込みを前提とした最低限のことしか書かれていないのだが、海や森の部分には美しい帆船や森の獣が描かれている。方角を示す羅針盤の模様も凝っていた。ミュシェ婦人のお手製に違いない。
 そうこうするうち日が暮れ始めた。出発が遅めだったから日暮れも当然早い。エヴァンスとシャルトルが沈みゆく太陽に向かって祈り始めた。響く読経は二人のものだけ、このあたりにベンベル軍の施設はないらしい。とすると今夜は野宿になりそうだ。小さな村はたくさんあるが、ベンベル人ふたりと共に宿を乞うことはできない。
 夕暮れの川に夕飯の支度をしているらしい村々からの煙がたなびいている。体は正直なもので、ウラルのお腹が小さく鳴いた。
 「ごはんよー」とどこからともなく声がする。駆けていく子供たち、農具をおろして腰を伸ばすご老人。働き盛りの男が一人もいないことを除けば、思わず泣き出してしまいそうなほど平和な光景が広がっていた。対岸では男らが鞭打たれながら働かされているというのに……。
「あらロウン。あんたは今夜のご飯抜きじゃなかった?」
 子供がたくさん向かった先から女の声がする。どうやら孤児院らしい。
「えー」
「冗談、冗談。今日は畑仕事たくさん手伝ってくれたから見逃してあげるわ」
 ウラルは首をかしげた。こんなやり取りをどこかで聞いた覚えがある。ウラルは目を細めて子供を叱り付ける小柄な女性を見つめた。距離はそんなに離れていないのだが、西日で顔がよく見えない。
「でも今度またジェシをいじめたらわかってるわね? 覚えてらっしゃい、マーム母さんはあんたがどこにいたって見てるのよ」
 マーム母さん?
 太陽が地平線の下に沈み、エヴァンスたちの祈りが終わる。直射日光のさえぎられた中、やっと女の顔がくっきり見えた。
「マームさん……」
 間違いない。サイフォスの妻、〈スヴェル〉の隠れ家を守り台所を預かる肝っ玉母さん、三年前に森の隠れ家で別れたきり生死もわからなかったマームがそこにいる。
「どうした、ウラル」
「マームさん!」
 エヴァンスが問いかけてくるのも無視してウラルは声を張り上げた。マームが怪訝そうにこちらを見ている。ウラルはたまらず駆け出した。
「マームさん……!」
 やっとウラルとわかったのだろう。マームが目を見開き――ついで西日の中でもそれとわかるほど真っ青になった。マームの変化に異変を察したのか、ロウンと呼ばれた子供が誰かの名を叫びながら奥へと駆けていく。
 怯えられている。勢いのままその胸へ飛び込もうとしたウラルは、慌てて速度をゆるめ、ゆっくりとマームの前に立った。
「マームさん、無事でよかった。ウラルです」
 できるだけ冷静に言ったつもりだが、喉が腫れふさがったようにかすれた声しかでなかった。
「ウラル? 本当にウラルなの?」
 マームは今にも卒倒しそうな顔つきだ。まるで死人を見たような。
 マームはウラルが死んだものと思い込んでいたのだ。ウラルはぎゅっとマームの手をにぎった。
「大丈夫、私は生きてます。あったかいでしょ?」
 言いながらマームの手も暖かいのに心底ほっとした。じわりとマームの目に涙が浮かぶ。
「これは夢? 夢よね、きっと。あんな戦でウラルが、あんなか弱い女の子が生きてるはずないもの。〈スヴェル〉のみんなだって誰一人戻ってこないし」
「アラーハがちゃんと守ってくれたの。フギンとイズンも生きてる」
「本当に?」
 ウラルはうなずく。くしゃりとマームの顔がゆがんだ。瞬間、ウラルはぎゅっとマームの胸に抱き寄せられていた。
「本当にウラルなのね? 夢じゃないのね?」
 ウラルはマームを抱き返しながらうなずいた。
 最初はぽろぽろと、それから声をあげて盛大に泣き始めたマームを孤児院の中から飛び出してきた数人の女と子供たちが、そしてウラルのはるか後ろからエヴァンスとシャルトルが呆気にとられた様子で見つめていた。
「おかえり、ウラル。おかえり……」
「ただいま、マームさん。ただいま……」
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