第四部 第一章 3「揺れる心」 上

 翌朝、孤児院の門のわきに現れたエヴァンスらに伴われ、ウラルは振り返り振り返りしながら孤児院を後にした。
「よく私の単独行動を許してくれたわね」
「逃げればまた追うだけだ」
 無感情な声にウラルはほほえんだ。そういうことじゃないのに。
「お世話になった人と再会できたの」
 エヴァンスは無言だ。ただ青い目をちらりとウラルに向けるだけ。
「会えて本当によかった。ありがとう」
「それでお前の未練が晴れるなら構わん」
 ついと目がそらされた。彼の向こうでシャルトルが微笑んでいる。
 ウラルも微笑んでみせ、けれどひとつ思い出して真顔になった。
「エヴァンス、そういえば聞こうと思ってたんだけど〈ジュルコンラ〉へ着いたらどうするつもりなの?」
 彼のことだ、まさかノープランはないだろう。かといっていきなり〈ジュルコンラ〉へ潜入してフギンに剣を向けるとも思えない。
「要塞付近は城下町になっているそうだ。しばらく潜伏して様子を見るつもりでいる。ウラル、お前には先行して町の様子を見てきてもらいたい」
「町の様子を?」
「今まで通り街中にベンベル人がいればよし、いないようなら〈ジュルコンラ〉がベンベル人を排除しているということだろう。のこのこ入るわけにはいかぬ」
 孤児院でさえあれだけベンベル人を警戒していたのだ。〈ジュルコンラ〉のお膝元の町ではベンベル人を排除していて当然だろう。
「もしベンベル人がひとりも町にいなかったらどうする気?」
「わたしたちは町の近くで待機する。お前はフギンに会ってくるがいい。いくらか情報を持って帰ってきてもらえればありがたい」
「フギンをあなたに売れというの?」
「いや。わたしがベンベル軍人として欲しい情報、軍事力の判断や布陣の把握がお前にできるとは思っていない。純粋に今のあの男を知りたいだけだ。それなら構うまい?」
「フギンに不利になるようなことは言わないわよ?」
 わかっていると言いたげにエヴァンスは唇の端を歪めてみせた。
「どちらにせよ〈壁〉が完成間近だ。いくらもせずにアウレヌスが動くだろう」
 ベンベル軍が動く、つまり〈ジュルコンラ〉も動かざるをえない。一度動けばエヴァンスならその規模や力はひと目で判断がつくのだろう。フギンとダイオも前線に出てくるはずだ。もしかするとそこを狙って斬りかかる算段かもしれない。
「町が見えましたよ」
 シャルトルの声に林の隙間を見てみれば、崖にへばりつくようにして大きな町が広がっていた。
 フランメ町。川から攻め寄せる敵から町を守って立ちふさがるように、長く厚い壁のような城砦が展開している。もとはこの町の領主のものだったのだろうが、今ここを守っているのは〈ジュルコンラ〉だ。
 背後には馬蹄形の崖。町に入ろうとする者は必ず〈ジュルコンラ〉の門を通らなければならない仕組みになっている。門番はひとりひとり呼び止めているわけではないが、通行人はほとんどが顔見知りなのか愛想よく挨拶したり世間話をしたりしているようだ。
「わたしたちはここで待つ。夕方にはこちらに戻ってきて町の様子を報告してくれ。宿の予約もしてくるといい、ベッドで眠りたいだろう」
「私ひとりで泊まっていいの?」
「あの様子ではわたしたちはとても町に入れそうにないし、かといってお前を引き止めておく理由もない。明日はフギンのところへ行ってもらうことだしな」
 平然とした顔でエヴァンスは言うが、この二人はこのあたりで野宿することになるのだろう。ウラルひとり暖かい宿でぬくぬくしているのは気が咎める。
 エヴァンスがかすかに笑った。
「お前に自由を与える見返りとして、使いを頼む。シャルトル、残りの食料は」
「パンとベーコンが六食分、それにこぶしほどの大きさのチーズが二つあります。それに岩塩とスパイスが少々」
「ゴーランと馬の餌は」
「ああ、足りなくなってきていますね。ゴーラン用の干し肉があと三食分です」
「ウラル、肉屋で一番安い干し肉をこの袋に入る分だけ買ってきてくれ。それに男物の、わたしとシャルトルが着れるリーグの服を一着ずつ。そのうちわたしたちも街に入る必要が出てくるかもしれん」
 エヴァンスらが危険を犯してまで町に入るとき。フギンとダイオを殺しに行くときだろうか。わざわざ町に入らなくても町の前にででんとそびえる〈ジュルコンラ〉には入れるが……。それに栗毛のシャルトルはまだしも金髪のエヴァンスは目立ちすぎる。変装程度でリーグ人にまぎれられるわけがない。
「髪を隠せるものも買ってくるね」
「髪染めの染料は持っている。それよりも目を隠せるような、目深にかぶれるものを頼む」
 エヴァンスが髪を染める? ウラルは思わずまじまじとエヴァンスを見つめた。この金髪が褐色に?
「おかしいか」
「ううん、ただ意外だったの。きっと似合うと思う」
「世辞はいらん。必要なものはそれだけだ、行ってくれ」
 ウラルはうなずき、アラーハの背から降りた。「何かあったら呼ぶから」とアラーハにささやき、町に向かって歩き始めた。

     *

 二人、アラーハも含めれば三人も連れがいるのに、一人だけで町へ向かうのは寂しかった。振り返ってみれば二人と一頭はもう姿をくらましている。
「服と帽子かなにか、ね。どんなのがいいんだろう。好みを聞いてこればよかった」
 ひとりごちつつ〈ジュルコンラ〉を見やる。もし変装して街中から〈ジュルコンラ〉に侵入、フギンとダイオを殺すなどという計画をエヴァンスが立てているなら。ウラルは唇を噛んだ。あの二人を危険にさらしたくはない。エヴァンスに背後を突かせる手伝いなどしたくはなかった。
 けれど、ともう一度さっきエヴァンスのいた場所を振り返る。エヴァンスはそんな卑怯なまねをする人ではない。何かほかに理由があるのだろう。
 町門をくぐる。崖に張りつくような町なのだから当然なのだが、本当に坂と階段の多い町だ。門をくぐってすぐのところから大きな、気の遠くなるほど長い上り階段が続いており、その両脇にずらりと店が並んでいる。きょろきょろあたりを見回したが、ベンベル人は当然ひとりもいなかった。
 目についた服屋に入り、男物の服を手に取った。
「どんなのにしよう。似合うかな……」
 エヴァンスには青が似合う。髪を染めても似合うだろうか。ごてごて装飾がついているものはきっと嫌いだ。シンプルで動きやすくて、でも品のいいものがいい。かといってサイズが合わないのも問題だ。ふところも決して豊かではない。ウラルが作れればいいのだが。男物の服ひとそろいくらい、時間さえあれば十日で縫える。
「何かお探しですか、旅のお嬢さん?」
 店員に声をかけられウラルは飛びあがった。大きな荷物をかついだ娘が男物の服を見ているのだ、目立って当然だった。
「もしかしてプレゼントですか?」
 顔が耳まで真っ赤になるのがわかった。
「えっと、その、兄のなんですが」
 にっこり笑顔の店員。確実に見抜かれている。
「どんなものをお探しですか? 色やデザインのご希望は?」
「背丈はこれくらい、肩幅はこれくらいなんですが。できれば青系統の色で、品のいいものを。あ、それからもう一着。背丈がこれくらい、肩幅これくらいの人のも欲しいんですが」
「え、二人分ですか?」
 あやうくシャルトルの分を忘れるところだった。露骨に意外そうな顔をする店員に「そうなんですよ、二人分です!」と半ばやけっぱちで返す。笑われた。顔が火照る。
「二人兄弟に妹ひとりなんです! せっかく相談に乗っていただいたんですが、ほかの店へ行かせてもらいますね!」
「待って待って、ちょうどいいのがあるから。これとかどうですか?」
 店員は次から次に服を出してくれたが結局決まらず、時間をかけていくつも店を回った。こんなとき田舎娘のセンスのなさが嫌になる。だれか相談できるおしゃれな男の人、王都育ちのイズンあたりがいてくれたらいいのに。
 ため息をつきつつ店を回り、やっとふたそろいの服を買った。次は帽子だ。つばが広くて目が隠れるもの。室内でかぶっていてもそれほどおかしくないような、おしゃれなもの。
 帽子屋を出て、適当な階段の隅に座る。二人分の服を胸に抱き、長い階段に疲れた足と慣れない買い物に疲れた胸を休めた。
「喜んでくれるかな」
 二人の反応を想像してほんのり赤くなる。きっとウラルがよほど奇抜な服を持っていかない限り、エヴァンスは無表情で「ご苦労だった」と受け取り、シャルトルは笑って礼を言ってくれるのだろう。考えてみれば頼まれたとはいえ男の人に何かを買うのは久しぶりだ。いや、下手をすると初めてかもしれない。昔の恋人にはいつも何かしら手作りしたシャツやら何やらをプレゼントしていた。
 階段の上から町を見下ろし、そろそろ他のものも買いに行かなくちゃ、と立ちあがる。瞬間、あたりが暗くかげった。空を仰いでみれば兵士を乗せたムールの群れが町の北へ飛んでいく。町を囲うようにしている崖の上へ次々舞い降りていくから、もしかするとそこにムール禽舎があるのかもしれない。
 さっきの騎手の中にマルクはいただろうか。フギンについていったのだから彼も間違いなくこの町にいるはず。そして巨鳥に乗れる人は貴重な戦力だから、ムール部隊にいるはずだ。さっきの巨鳥の群れにロクはいなかったはずだが……。
「ウラル?」
 いきなり名前を呼ばれ、ウラルははっと我に返った。前を見てみれば今ぼんやり考えていたマルクその人が帽子屋の隣、道具屋の店先に立っている。
「うそだろ、なんで君がこの町に? 人違いじゃないよな?」
 なんという偶然だろう。ウラルはめまいをこらえて微笑んだ。
「マルク!」
「うわ、本物だ! ひとりか? 他の人は? セラたちもいるんだろ?」
 まくしたてながらマルクが駆け寄ってくる。フギンはあれだけ変わってしまったが、マルクはまるで変わっていないらしい。ウラルは心底ほっとした。
「セラたちは〈エルディタラ〉へ向かってるはず。今はわたし一人よ。町の外にエヴァンスとシャルトルとアラーハがいるけど」
「あのベンベル人どもが? もしかしてあの時、あのまま捕まっちまったのか?」
「うん。でも心配しないで、この通り自由にさせてもらってるから」
「あの方に頼んで討伐隊を出してもらおう」
「『あの方』ってフギンのことね?」
 マルクはうなずいた。
「うん。みんなはフギン様、ヘリアン様って呼んでる。でも俺は一応フギンの幼馴染だからさ。なんか気まずくってそう呼んでる」
「マルクもムール部隊にいるの? さっき通ったけど」
「うん、本当ならあの中に俺もいるはずだったんだけど。そっか、あの方はこの時間にウラルが来るのを見越して俺を早退させたんだな。使いを頼まれたんだ」
 マルクはインク瓶が入っているらしい包みを振ってみせた。さっきの道具屋で買ってきたらしい。
「〈ジュルコンラ〉に来るだろ? あの方が俺をここによこしたのも君を案内しろってことなんだと思う」
「その前にエヴァンスに頼まれていた荷物を届けないと」
 マルクが目をむいた。
「なんでベンベル人に荷物なんか届ける必要があるんだ? 相手はジンさんを殺した人なんだろ?」
 それを言われるとつらい。でもウラルはきっぱり首を振った。
 言ってしまおうか。マルクはウラルが〈風神の墓守〉だと知らないはずだ。同じ〈墓守〉である彼になら言ったところで問題ないだろう。風神にはどうやらエヴァンスが必要らしいのだと。だから討伐隊など出さないでほしい、ウラルも決してエヴァンスの死など望んでいないと。けれど、いったいどんな顔をして説明すればいいのだろう。
「私が戻らなきゃ怪しまれるから。アラーハもいるし」
 結局当たり障りのない説明をして、ウラルは階下に広がる町を眺めた。
「どうだっていいじゃないか、そんなこと。行こうぜ」
 けれどウラルが黙って微笑んでみせると、マルクは気おされた様子で黙りこんだ。今、説明しなかった理由がほかにもあることを感じ取ってくれたらしい。
「ね、門のところまで買い物につきあってくれる? 安い店を教えてもらえると嬉しいんだけど」
 もうすっかり日は傾いていた。まだ干し肉やらなんやらを買わなくてはならないし、このままでは閉門までにエヴァンスに会って荷物を渡して戻ってこられる保証がない。
「何を買うんだ?」
「質はそんなに良くなくていいから、とにかく安い干し肉どっさり」
「それなら任せとけ。こっちだよ」
 ひょいとウラルの荷物を抱えて階段を下り始める。いい案内人が見つかってよかった。
「なんかウラル、変わったな」
 うつむきながらぽつりとこぼす。ウラルはきょとんと首をかしげた。
「前はなんか、いつも何かに悩んでるみたいだった。笑っててもどことなく不安げでさ、いつも心配してたんだ。でも今の君はなんか吹っ切れたみたいだ」
「そう?」
「もしかしてフギンがフギンでなくなったから、せいせいしてる?」
 まさか。苦笑しようとしてウラルは踏みとどまった。その声が驚くほど不安げだったから。
 マルクも怖いのだ。おねしょの回数まで覚えているような幼馴染が突然火神に変わってしまったのだから。しかも「本物の」フギンの心はどこへ行ってしまったのかもわからない。〈聖域〉で守護者たちの話を聞いたときの不安が蘇ってきて、ウラルは震えた。
「そうだよな、フギンは君をすごく拘束したがってたもんな。ウラルはいつかどこかへ消えてしまいそうで怖い。だから俺が守らなきゃってずっと言ってたし」
「そういうわけじゃないの。たしかにフギンの振る舞いは私も窮屈だったけど、でもそこまで嫌じゃなかった。好きだった、フギンのこと。今はもうそんなこと言ってる場合じゃないけど」
 マルクが驚いた様子でウラルを振り返った。
 大丈夫、フギンはちゃんと戻ってくるから。連れ戻すから。そう言いたいのに言えない。本物のフギンにもう一度会いたい。ちゃんと会ってお詫びを言いたい。けれど正直フギンともう一度会うのも怖い。それにウラルやマルクの気持ちだけで火神をフギンの体から追い出していいものだろうか。〈壁〉の内側。ベンベルと化した場所。火神の力は今、この国に必要だ。けれど。けれど――。
「エヴァンスに荷物を渡したら、すぐフギンに会いに行きたい。案内してくれる?」
 「なんか今日の君には逆らえる気がしない」とマルクがぽりぽり頭をかく。取り繕うように笑ってみせてから、ウラルは延々続く階段の下、〈ジュルコンラ〉を見下ろした。
 そうだ。今はとにかく「もうひとりの」フギンに会わなければ。
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