第四部 第一章 5「戦ってはならない戦」 上

 風神はその後すぐ体の主導権を返してくれたが、ウラルにはもう何をする気力も残っていなかった。なにせマームと別れたのが今朝だ。一日で物事が動きすぎた。心身ともに疲れきり、ウラルは風神の説明やねぎらいの言葉を夢の中で聞く余裕もなく深い深い眠りについた。
 目が覚めたのは昼過ぎだ。「疲れているようだから寝かせておきなさいとフギン様はおっしゃっていましたが……」と言いつつ渋い顔をしているメイルに詫び、マルクに、そしてリゼの兄に会いに行きたいと言ってみた。
 だがマルクはこの要塞の中で暮らしているが、朝早く崖の上にあるムール禽舎に出勤してしまったという。メイルは渋々といった様子で、けれどすぐにムール禽舎に伝書鳩を飛ばしてくれた。すぐに歓迎すると返事がきた。
 ウラルはメイルに案内され、〈ジュルコンラ〉を出てムール禽舎へ向かった。町の中を上へ上へと登っていけば、いずれ禽舎に着くという。
「昨日はずいぶん遅くまでフギン様とお話されていたようですが、何を話しておられたんですか?」
 メイルの部屋はフギンの部屋から与えられた客間に帰るとき、前を通っている。〈ジュルコンラ〉に女は多くないから、足音だけでウラルとわかったのかもしれない。
「起こしましたか?」
「いいえ。起きていました。眠れなくて」
 姉の死に様を聞いた直後だ。当然かもしれない。もしかすると起きてきたウラルと会ったとき機嫌が悪そうな顔をしていたのも、自分は一睡もできず朝を迎えたのに話した当人のウラルが昼までぐっすり眠っていたからかもしれなかった。
「質問に答えていただけますか。フギン様と何を話しておられたんです?」
「尋ねられたことにお答えしただけです。〈壁〉の向こうの様子、とか」
「それだけではないでしょう」
 メイルの声が固くなった。
「何が言いたいんですか?」
 メイルは沈黙した。
「もしかして、立ち聞きしたんですか?」
 メイルの肩がこわばった。
「そうなんですね?」
「あなたは何者なんですか?」
 どこからどこまでを聞いていたのだろう。聞き返した声は震えていた。
 薄暗い路地の階段にメイルの足音が重く響く。近道なのか、道はえんえん薄暗くて細くて急な階段ばかりだ。
「メイル。あなたはフギンが誰か、知っていますか?」
「わけのわからないことを聞かないでください、フギン様はフギン様です。私はあなたが誰かを知りたい。フギン様があんな親しげに誰かと話すのは始めて聞きました」
 おやっと思った。メイルは何に怯えているのだろう。内容ではなくフギンの口調が気になっているのだろうか?
「どこまで聞いたんですか? もしかして内容は聞こえていないけれど、口調の雰囲気だけわかった感じですか?」
 前を歩いていたメイルが急にくるっと振り返った。
「はぐらかさないでください。あなたはフギン様とどういうご関係なんですか?」
 煌々と光る瞳。話さなければここにあなたを置いていく。迷ってしまえばいい。そう脅された気がして、ウラルはため息をついた。この人は行動がいちいち過激だ。
「ごめんなさい、私の口からは話せません。私にも複雑な事情があるんです。わかってください」
「フギンと呼び捨てにする程度には近い関係なんですね?」
 ウラルはしばらく黙りこんだ。どう説明すればいいのだろう。たしかに今のフギンは軽々しく呼べる相手ではない……。
「近かった、です。フギンは変わってしまったから。でも今さら様づけにするのは違和感があるから、そのままにしているだけ」
 この答えでウラルがフギンの幼馴染か何かだと思ったのだろう。メイルは顔の険を少しゆるめ、再び前に立って歩き始めた。

     *

 きつい階段を何度も登ってやっとたどり着いたムール禽舎は崖の中にあった。町の中腹にぽかっと洞窟のようなものがある思ったら、そこが禽舎の入り口だった。崖の上だと聞いていたからもっと上にあるものだと思っていたが。首をかしげつつ禽舎の中へ入って、ウラルは度肝を抜かれた。
 中は巨大な竪穴だった。岩の中が円柱状にくり抜かれて、一番上からはぽっかり空が見えている。壁には人工的な窪み、小部屋のようなものがたくさんあった。半分はぽかっと穴が開いているだけだが、残りの半分には鉄格子がはまっていて、その奥からムールが琥珀色の瞳とクチバシの先を覗かせている。
「いらっしゃい。ラザさんはもうちょっとしたら来るはずだからちょっと待ってくれ。やっぱり美人さんが二人も来ると華やぐなぁ。階段きつかったろ?」
 ここへ来るまでメイルとふたり、ずっとあの殺伐とした雰囲気だったから、マルクの笑顔に心底ほっとした。マルクがウラルの視線を追って上を見あげる。
「ああ、これな。ほら、ムールって海辺の断崖絶壁に巣を作る鳥だからさ。こんな禽舎の方がムールも落ち着くんだってさ」
「雨が降ったらどうするの?」
「ちゃんと排水溝があって水が溜まらないようになってるんだ。ほら、俺たちが立ってるこの床もちょっと斜めになってるだろ? 穴の真ん中が高くて、周りにいくほど低くなってる」
 へぇっとウラルは息をついた。
「あの小部屋にはどうやって行くの?」
「岩壁の中に通路がある。騎手が乗ったらあの鉄格子を開けて、竪穴をくぐりぬけて空へ飛び出すって寸法さ。鉄格子がはまってないやつは出かけてるムールの小部屋。出て行くときはともかく帰ってくるときはスリルあるぜー。なんせ竪穴を急降下してからトンボ返り打って小部屋に飛び込むんだからよ。正直、最初は怖くて目も開けてらんなかった。にしても、ウラルってムールに好かれるよな。前から思ってたんだけどさ。ずっとこっち見てる」
 ムールは風神と深いかかわりのある鳥だ。特に純白のムールは風神の使い鳥とされ、大切にされている。ウラルに与えられた風神の加護がムールたちを惹きつけているのかもしれない。
「本当だ、ムールの目の色が変わってる。新鮮な魚でも持ってるのか、お嬢さん?」
 急に割って入った声に振り向くと、体中に羽毛をたくさんくっつけた男が立っていた。
「リゼの兄、ラザだ。ムール調教師で、ここの責任者のようなことをやっている。弟のことで話があるらしいと聞いたが」
 ラザは小柄だががっちりした男だった。あの巨鳥を調教するのだ、これくらい筋肉がなければ勤まらないのだろう。背が低いのはきっとムール騎手の家系だから、顔も兄弟とあってリゼとよく似ている。けれどリゼはほっそりしていた。ウラルが服を借りられるくらいに。がっちりしているかほっそりしているか、それだけでも随分印象が違って見えた。
「〈スヴェル〉のウラルです」
「ああ、ジンのところの」
 ラザの顔が曇った。
「まぁ立ち話もなんだ、お茶くらい出そう。こっちへどうぞ」
 ラザに連れられ竪穴沿いの明るい小部屋、休憩室らしいところへ連れていかれた。手伝いか、あるいは見習いだろうか。そこらをちょこまかしている少年に茶の準備を言いつけると、ラザはウラルらに椅子をすすめ、どっかりとソファーに座りこんだ。
「ウラルさん。実は俺は、君に会わないことにしようと思っていたんだ。マルクのやつが勝手に返事を出したから、そういうわけにいかなくなったんだが」
 ラザさん、といさめたマルクをラザはじろりと横目で見た。
「俺はリゼが死んだとは思っていない」
 きっぱりとした声で告げられ、ウラルは言葉を失った。
「君はリゼの死を見取ったと聞いている。でもそれは別人だと、俺は思う。君は〈スヴェル〉の一員だとさっき名乗ったな? でも俺は君のことを知らない。リゼとは出会って日が浅かった。そうじゃないか?」
「一年ほど、森の隠れ家で一緒に暮らしていました。ジンやマライと一緒に」
 ぴくりとメイルが反応し、ウラルの顔をじっと見つめた。ラザが歯を食いしばる。
「そうか。じゃあ思い込みだろう。あれほど小柄な男はあまりいないから、きっと見間違えたんだ」
「〈ゴウランラ〉の戦いに出たムール騎手はリゼ一人でした。〈アスコウラ〉は連絡が遅れて、戻ってこられなかったんです。ムールに乗った遺体でした。ごめんなさい、顔もちゃんと確認したし、見間違えたはずはないんです……」
「それが思い込みなんだ。君はそれまで戦場に行ったことなんてなかったろう? 動転していた。冷静さを失っていた。君の証言は正直、あてにできない」
 ウラルは固く目を閉じた。まぶたの奥にクロスボウに喉を貫かれていた薄茶色のムールが蘇る。カルロス。その鞍上で幾本もの槍に貫かれていた小柄な男の遺体。アラーハがその頬にべっとりとついた血のりをぬぐう。リゼ――。
 まぶたの奥にターコイズの棺が浮かんだ。ぴったりふたの閉まった、リゼの棺。
「そうですね。たしかに私はかなり動転していたし、見間違いでも不思議はないです……」
 ラザが見るからにほっとした様子で息をついた。
 リゼ、ごめん。きゅっと胸のペンダントを握り締めてウラルはうつむいた。けれどあなたのお兄さんが認めないというなら、私がここであなたは死んだともう一度言ってもお互い辛いだけだと思うから。事実はどうあれ、受け入れろと言える筋合いではないから。
 少年がお茶を持ってきた。ラザがぐびぐびと一気飲みする。
「ウラルさん。話は変わるんだが、もうひとつ質問して構わないだろうか? 〈スヴェル〉にはフギンという男がいたはずだ。リゼと仲のよかった、もと盗賊の青年。あの男はどうなった? 俺にはどうもあのフギンとこの要塞にいるフギン様が同一人物に見えて仕方ないんだ。双子の兄弟かなにかか?」
 びくりと肩が震えるのがわかった。メイルが怪訝そうな目でウラルを見ている。ウラルは思わずマルクと顔を見合わせた。
「どうした?」
 軽々しく答えられるような内容ではない。けれどどうやってごまかせば。
「い、いや、あんまりにも似てたんで俺たちも驚いてたんですよ。俺、〈スヴェル〉のフギンの幼馴染だったんで。な、ウラル?」
 マルクに言われておずおずうなずく。
「フギンは生きているはずです。戦のあと何年か私と一緒にいました。でもその後、行方不明になって。入れ替わるようにして今のフギンが出てきて、でも性格もなにもかも変わってて……」
「けれどウラル、あなたはフギン様とお親しいんですよね?」
 メイルの声が割って入って、ウラルは再び肩を震わせた。ラザが眉をひそめている。
 ウラルはマルクを見つめたが、マルクもどうフォローすればいいのやら困っているようだ。落ち着かない笑みが返ってくるだけ。
「ごめんなさい。本当に事情が複雑で、軽々しく言ってはいけないことが山ほどあって。どうか聞かないでください」
「そんな曖昧な答えでこちらが納得するとお思いですか?」
 ウラルはみたび肩を震わせた。「まぁまぁ」とマルクがなだめたが、メイルはキッと猫さながらの鋭い視線でマルクをにらみつけるだけだ。
 どうしよう。別に口止めをされているわけではない。けれど全てを言っていいはずはない。どこまで話せばいいのだろう。
「すまないが、ここは戦時中の軍施設だ。フギン様が立派な方なのは理解しているつもりだが、正直どこから現れたのやら、謎が多い。このままでは君やフギン様を疑わなくてはならなくなる」
 そう言われると余計に答えづらい。ウラルは唇を噛んだ。
「ごめんなさい、でも私が軽々しく口に出していいことではないので。どうか聞かないでください」
 結局ウラルはそれだけ言って、頭を下げた。
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