第四部 第一章 5「戦ってはならない戦」 下

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「お嬢さん、そんな急いでどこ行くんだい? ミント水飲んでいきな! 安くしとくよ!」
 のどかな町を息の続く限り走って走って。ウラルが町門前の大階段にさしかかるのと、麻薬中毒者の群れが町門にさしかかるのがほぼ同時だった。
 間に合わなかった。マルクの連絡も遅れたらしく、〈ジュルコンラ〉の門は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。見張り台には指示を飛ばすダイオの姿もある。
 〈壁〉の向こうから来た麻薬中毒者を締め出すか?
 けれど相手はまごうことなきリーグ人だ。武器を持っているようにも見えない。
 マルクからは警戒せよとの手紙が来た。風の眼を持つ女神からの指示という。
 だが相手は単純に酔っ払ったリーグ人にしか見えない。麻薬? なんだそれは。花の汁をなめると妙な具合に酔っ払う?
 どうする。どう対応すればいい?
 指揮を任されたらしいダイオの混乱が見えるようだ。この町の守りは鉄壁、けれど誰もかもがそれに依存しすぎた。〈ジュルコンラ〉の大将はリーグの軍神だ。リーグ人相手の戦いは避けなければ。戦ってはいけない。けれどあの見るからに異常な集団を相手にどうすればいい?
 ウラルは急いで大階段を駆け下りる。だが大階段は野次馬でいっぱいだ。階段で人を突き飛ばすわけにもいかず、ウラルは疲れた足を叱咤しつつ必死で人ごみを掻き分けた。
 どうしてこんなに人が集まっているの。死ぬかもしれないのに。
 〈ジュルコンラ〉の門兵が門前の広場から野次馬を追い出している。追い出された野次馬が見晴らしのいい大階段に居座って一部始終を見ているというわけだ。
 大階段の両脇に目を走らせる。昨日は気づかなかったが、たしかにびっくりするほど金物屋が多かった。鍋をはじめとした調理器具を扱う店、刀を扱う店、カナヅチなどの工具を扱う店。三軒に一軒は金物屋だ。隣り合った店やほとんど品物を置いていない店も多い。けれどどれだけ儲からなくても決して店は潰れない。金物屋はこの町の避難所だ。それがわかっているから人々は堂々と野次馬をやっていられる。
「門の前に立て。一度止める」
 結局ダイオはそう指示したらしい。町門の前に木でできた簡単な柵が並べられ、その前に〈ジュルコンラ〉の門兵が五人ばかり並んだ。
「我輩はこの門の指揮を任されているダイオ・エタオクと申す。話を伺いたいのだが」
 ダイオの張りあるバリトンが大階段に反響した。
 応じる麻薬中毒者の声は聞こえない。ただ酔っ払いそのものの様子でごねているのはわかる。〈壁〉の向こうのことは何も知らない、自分たちはここで楽しく酒が飲みたいだけなんだ。久しぶりの休みなんだよ。金もあるし。何がいけないんだ?
 ダイオが「話を聞かせてほしいんだ」ともう一度食い下がる。その瞬間だった。
 麻薬中毒者の顔つきが豹変した。にこにこしていたのが一瞬にして悪鬼の形相に変わったのだ。さしものダイオも一歩身を引いた。そのダイオの、かなり上背のあるダイオの胸倉をひとりがぐいとひっつかむ。
「何が悪いんだ! あぁ?」
 すっとんきょんな大声に野次馬が静まり返った。ダイオの胸倉をつかんだ手は十分に力がこもっていなかったとみえダイオがすぐにはじき落としたが、彼の大声は止まらない。下品な罵声が大音響で溢れ出る。三秒前までへらへら笑っていたのに。
 つられたのか、その場にいた別の男らも急に肩をいからせ門兵につめ寄り始めた。
「警戒態勢! 門を閉じろ!」
 ダイオが声を張り上げる。とたん、麻薬中毒者が門に殺到した。むろん〈ジュルコンラ〉の門兵も黙ってはいない。待機していた男らが武器を手に門の両側から飛び出してきた。さすがに身の危険を感じたのか野次馬が悲鳴をあげて逃げ出した。
「くそったれ! お前たちだけ甘い蜜吸いやがって。面倒ごとは全部〈壁〉の向こうに押し付けて自分たちだけのうのうとしてる気かよ! てめぇら殺す!」
 罵詈雑言の中からちゃんと意味を成した言葉が耳に飛び込んできて、ウラルは人波にもまれながら声の主を探した。顔を真っ赤にして門兵に詰め寄る若者。
 てめぇら殺す。何かがウラルの胸を突いた。
「なにをしている、警鐘を鳴らせ! 避難を呼びかけるんだ!」
 ダイオが怒鳴る。瞬間、崖の上でのエヴァンスのセリフが蘇り、ウラルは目を見開いた。
(あの壁で南部の一部をリーグ国全体から分離する。そしてそこに圧力をかけ、恨みをあおる。そしてその恨みを比較的楽な暮らしをしている北部に向けさせる)
 ――エヴァンスは警告してくれていた。
「ダイオ、だめ! 警鐘は鳴らさないで! 鳴らしちゃいけない!」
 ウラルはとっさに叫んだ。が、野次馬の悲鳴やら罵声やらでかき消されてしまう。
「敵襲の合図は鳴らしちゃいけないの! ダイオ! その人たちを敵とみなしちゃいけないのよ! だって、ベンベル人の狙いは……!」
 ウラルの声が届いていたはずもないのにダイオが振り返った。群集にもみくちゃにされながらも振り向き、まっすぐに、やっと階段を下りきったウラルを見つめた。野次馬が駆け去った大階段の最下部にひとり立つウラルを。
 不意に、まともに立っていられないほどの暴風がその場の全員を包みこんだ。
「ベンベル人の狙いはリーグ人同士をいがみあわせ、戦わせること。これは最初の布石。だからダイオ、戦ってはいけない。この人たちの恨みを買ってはいけない」
 聞こえていることを信じて続けた。
 風が耳元でうなっている。興奮した頭を冷まし、冴え渡らせていく。
 風神が味方してくれている。
「ウラル……。いや、あなたは風神か?」
 低い、ごくかすかな呟きが耳の奥にこだました。暴風に髪を乱しながらウラルはダイオに微笑んだ。
「私、〈風神の墓守〉が調停します」
 急にその場が静まり返った。麻薬中毒者も含め、だれもかれもが口を閉ざし、動きを止めて、ウラルを見つめている。聞こえるのはただ、風の音。
「武器をおさめてください。門も閉めないで。彼らを町に入れてから、門を閉ざしてください。彼らはベンベルのスパイでもなんでもない。ただ薬のせいで情緒不安定になっているだけなの」
「あのかわいィねーちゃんも言ってるじゃないですかァ。通してくださいよだんなァ」
 彼らは再びダイオに媚び始めた。
 ダイオがウラルを見つめる。ウラルがうなずくとダイオはうやうやしく礼をし、門を開けるよう門番たちに命じた。互いに困惑の視線を交わしつつ門番たちが門を開けると、奇声をあげながら麻薬中毒者たちがなだれこんできた。
「でも普通の状態でないのも確かだから、教会で保護するのがいいでしょう。一日二日、麻薬の効果がきれるまで。禁断症状といって、麻薬がきれると暴れだします。そこさえ乗り切れば、彼らは普段の状態に戻るはずです」
「へー。俺ぁバカだから難しいことわかんないけど、ねーちゃんと一緒に教会でお祈りすりゃいいってわけかい?」
「ええ、一緒に行きましょう」
「そりゃないよぉ、酒場に行かせてくれよぉ。ビールかかげて『風神万歳!』って叫ぶからさぁー。それでいいだろ?」
 自分が普通の状態でないことは説明しても認めてもらえそうにない。ウラルが困って黙っていると、彼の顔から笑みがすーっと消えた。
「俺らをどこへ連れていく気だ?」
 また急に肩をいからせ、彼はウラルに詰め寄った。
「教会へ。今のあなたは普通の状態じゃない。だから」
「ふざけんじゃねぇ!」
 襟首をひねりあげられた。
「ウラル!」
「刺激しないで。静かにしていてください」
 ウラルが静かに門番を制すると、また彼の表情が急展開した――怒りから、恐怖へ。
「あんたは誰だ? あんたこそ普通じゃない!」
「ウラル、危ない!」
 なぜか大階段の上のほう、野次馬の中から警告が飛んできた。瞬間、彼は声にならない絶叫をあげながらポケットに手を突っ込んだ。短剣。武器は持っていないと思っていたのに。
 刺された。
「ウラル!」
「来ないで。急な動きはしないで」
 もう一刺し。
「うわああああああああなんで死なないんだよ! 刺したのに! 刺したらすぐに死ぬんじゃねぇのかよぉおお!」
 さらに振り上げられた手を誰かがつかんだ。振り返った男の腹に鋭い蹴りが入る。声もなくくずおれた男を突き飛ばし、彼はよろめいたウラルをがっしり支えた。
「なぜこんな無茶をした!」
 彼の髪は褐色、リーグ人よりやや明るいが目立ちはしない。暴風に飛ばされたのか帽子はかぶっていなかった。さえぎるものを失った青い瞳が。
「エヴァンス……」
 「どうして」と続けようとした喉は、声の代わりに血を吐いた。
 まずい。このままでは。
「この野郎っ!」
 仲間を傷つけられ、麻薬中毒者たちが沸騰した。エヴァンスに向かってくる。おぼつかない足取りで、近くの金物屋から持ってきた武器を手に。
 エヴァンスの腰のあたりで金属音がする。ウラルはその腕をぎゅっと握った。
「エヴァンス、剣を抜かないで……。あなたはベンベル人、この町を混乱させる側の人間だとはわかってる……。でもお願い……」
 エヴァンスの体がぴくりと震えた。ウラルも震えている。刺されたショックで体がどんどん冷えていく。息もちゃんとできなくなってきた。
 エヴァンスが剣の柄を離し、ウラルのポケットに手を突っ込んだ。犬笛。
 悲鳴とともに人垣が割れる。異変を感じてそばにいたのか、エヴァンスが犬笛を吹くなりアラーハが駆け込んできた。
「アラーハ、ウラルの命にかかわる。乗せろ!」
 エヴァンスが叫ぶなりウラルを横抱きにし、かたわらにあったベンチを蹴る。アラーハは戸惑った様子でエヴァンスを見つめたが、事情を問いただす余裕はないと判断したのだろう。エヴァンスを背中で受け止めると、猛然と門へ駆け出した。
「いてぇ! いてぇよごらぁ!」
 ふらふらしながら剣を振り回しているのだ、誰かが誰かを切ってしまった。
「なにしやがる! いてぇ、いてぇよぉ……。殺す!」
 同士討ちが始まった。興奮しきった頭では敵味方の区別もつかないらしく――いや、もはや敵味方などないのだろう。斬る。斬られる。報復する。その人がまったく無関係であっても剣を振るわずにいられない。攻撃された門番たちが慌てて剣を抜き応戦し始めた。
「やめて……」
 ベンベル人たちが描いた布石。これがいずれ、リーグのいたるところで見られるようになる。
「戦わないで……!」
 ウラルはもうかすかなうめき声しか出せない。けれどその瞬間、争っていた人々がほんの一瞬、手を止めてウラルを見た。まるで耳元で怒鳴られたかのように。
「兵を配す!」
 その一瞬の沈黙の中、朗々と声が響き渡った。いつからいたのか門の上に隻腕の軍神の姿がある。
「カール隊、階段と周辺の路地を固めよ。アズ隊、半数は武器屋の前を固めよ。残る半数はそのイッペルスが出た後ただちに門を閉じよ。ダイオとその部下は彼らから武器を取り上げ、沈静化せよ。抜刀は許さぬ。行け!」
 フギンはウラルの言葉をちゃんと聞き届けてくれていた。
 アラーハが門を駆け抜ける。ごぼ、と今までこらえていたものが喉を突いた。反射的に押さえた手指の間から噴水のように血がほとばしる。
「ウラル」
 背中越しにエヴァンスの体が固くなるのがわかった。
 口と鼻からあふれた血が胸や腹まで汚していくのを感じながら、ウラルはエヴァンスの胸にくずおれた。
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