第四部 第二章 1「交錯のとき」 下

 ウラルはジンを見上げた。かすかに笑って、かすかに泣いて。
 今まではその気になればこの丘から出られる感覚があった。以前アラーハに殴られた直後は「戻れない」のがわかったが、ちゃんと体が回復すれば丘を出られた。けれど今は。
 ジンがウラルの髪をやさしくなで、ウラルを手とってかたわらの白い大理石の棺に触れさせた。マームの棺だ。空っぽの底に触れたとたん、ひとりでにウラルの頬をぼろぼろ涙が伝い始めた。
「マームさん……」
 ウラル、ウラル。マームがひたすら呼んでいる。棺にはマームの感情が詰まっていた。呼んでいるのに実感がない。そこにいるのがウラルでないことをひたすら願っている。なのに涙が止まらない。
 ウラルはジンを見た。ジンが肯定のうなずきを返してくる。
 この棺には力がある。人の生死を知る力が。そして人の想いを伝える力が。
 ジンにうながされ、次はアレキサンドライトの棺に触れた。
「アラーハ」
 孤児院の外にいるアラーハはウラルの状態をよく知らない。だがマームの号泣を聞いていた。ウラルの傷の深さを知っていた。だから必死に悲しみを押し殺し、地神と風神に祈りながら、静かにそこに伏せている。本当は立つだけの力が四肢にこもらないのに気づかないまま頭をうなだれ、力なく垂れ下がった耳を震わせながら。
 ジンがサファイヤの棺を見る。ウラルはゆっくりと棺に手を乗せ、目を閉じた。

     *

 エヴァンスは静かに場を譲った。マームがそこにぺたんと座り込む。ウラル、ウラル、と名を呼びながらウラルの頬を両手で挟みこんだ。ウラルは応えない。何の反応も返さない。
 マームはウラルの胸元に直接耳を押し当てた。長いことそうして耳を押し当て、鼓動の聞こえる位置をと細かく頭を動かしていたが――やがてマームの目じりから耳にかけてを透明な雫が流れ落ちた。
「なんでよ。一昨日別れたときには元気だったじゃない! ウラル、ウラルぅ……!」
 わぁっと子供のような声をあげ、マームはベッドに突っ伏した。
「何するつもりだったか知らないけど死んでどうするのよぉ、うわあぁああん!」
 遠慮がちなノックの音。マームの泣き声を聞きつけたのだろう。エヴァンスが返事をすると老婆が部屋に入ってきた。
「存分に泣いておやりなさい、マーム」
 老婆がしゃくりあげるマームの背を優しくなで始めた。
「あなたも。泣くことはなんら恥ではない」
 深い憐れみを含んだ目でエヴァンスを振り返る。エヴァンスはゆっくりと首を振った。
「今さら人のために泣くなど、わたしにできはしない」
「おそれることはない。あなたがベンベル人の兵士で、多くの修羅場をくぐってきたことくらいはわかっているよ。警戒することも、取り繕うこともない。リーグの娘に涙するのも、ここでは恥ではない」
 エヴァンスはまっすぐに老婆を見おろした。只者ではなさそうだ、と言いたげに。エヴァンスは髪を染めている。日没後の暗い室内では瞳の色もわからないはずだ。人の感情を読む老婆はそっとエヴァンスの手をとり、ウラルの手に重ねさせた。
「あなたは泣いている、それは間違いない。ただ心で泣くのと体で泣くのは、似ているようだが違うもの。本当にかなしいときには、両方が必要だ。でなければ押しつぶされる」
「それはこの娘に言ってほしい。……かなしみに潰された娘だ」
 老婆が意を問う視線を向けたが、エヴァンスは黙ってウラルの顔を見つめるだけで答えない。けれど老婆は何か納得したようにひとつうなずき、ねぎらうようにウラルの髪をやさしくなでた。
「ごめん、おばあちゃん。おちつくまで外、でてる。ささえてくれる?」
「無理に落ち着くことはないんだよ」
「でもこのままじゃ私、気が狂いそう。ちょっとひとりになりたい」
 老婆がうなずき、マームに手を差し伸べる。エヴァンスが老婆をさえぎりマームの脇の下に手を差し入れると、ぐいと立たせた。よろよろしているマームを支えて廊下まで連れていく。「どこの部屋へ行くんだ」と尋ねるエヴァンスにマームは力なく首を振り、老婆に支えられてふらふら食堂の方へ歩いていった。
 エヴァンスは静かにドアを閉め、ウラルを振り返った。重い靴音を響かせて血みどろのベッドの脇に立つ。
 ゆっくりと身をかがめ、エヴァンスはウラルの側頭部の傷跡に触れた。我を失ったアラーハに殴られ、エヴァンスが焼いて止血した傷。髪に隠れてはいるが、ひきつれた傷跡はかすかにもりあがり、消えることはない。
 エヴァンスの手がゆっくりと下へおりていく。かつて絞めた首、頚動脈を軽く押さえてありもしない脈を診た。服の上から二の腕の矢傷に触れる。アラーハを狙ったシャルトルの矢が立ちはだかったウラルに刺さった。背中に残る鞭の傷。わざわざ起こしてまで触りはしないが、監獄で鞭打たれ、派手に化膿した傷が今も無数に残っているはずだ。
 そして乳房のやや上にある真新しい傷。麻薬中毒者に二度刺されたうちの一回で、肋骨に当たって深くは刺さらなかった。けれどあとの一回、腹部の傷は深い。相当に、深い。
 ぶるる、と窓の外で音がした。
「アラーハ」
 窓を開けて巨獣を呼ぶ。窓の下で座り込んでいたアラーハがよろめきながら立ち上がった。エヴァンスはそっとウラルを抱き上げ、アラーハの鼻先が届く位置へ連れていった。
「出血がひどすぎた。手遅れになってしまった」
 ウラルの口元に鼻を寄せ、ウラルの胸元に耳をあてがう。めまいを感じたのだろう、アラーハは四肢をしっかり踏ん張ると、固く固く目を閉じた。黙祷するかのように。痛いものをこらえるように。
 エヴァンスはウラルを再び横たえるとベッド脇の椅子に腰かけた。
「アラーハ。わたしは、ウラルは本当は死にたかったのではないかと思う」
 ぶるり、と咎めるようにアラーハが鼻を鳴らす。耳を伏せ、控えめな怒りを浮かべたアラーハに見向きもせずエヴァンスは続けた。
「フギンと共に逃げるウラルをわたしは二年、追い回した。お前も知っての通り、セテーダン町ではあと一歩のところまで追いつめた。ウラルは必死に抵抗した。『ジンに救われた命をこんなところで失いたくない』と。だが」
 エヴァンスはもう一度、ウラルの側頭部の傷に触れた。
「その一方で、ウラルはぞっとするほど簡単に命を投げ出すことがあった。怒り狂ったお前の前に飛び出した。麻薬におかされ理性を失った百人の前に立ちはだかった。必死だったのだろう、だがそれだけで命は掛けられない。わたしも新兵のころは戦場がおそろしかった。ウラルは白刃の前に無防備な身をさらしながら、何も恐れていなかった」
 アラーハが咎めるように鼻を鳴らした。さっきよりは控えめに。
「ウラルにとって、死なないことは義務だったのではないかと思う」
 アラーハが四肢の力を抜き、どっかりと窓の下に座り込んだ。へたりこんだのかもしれない。エヴァンスがウラルの髪をなでる手を止め、ゆっくりと目をそむけた。
「ウラルの人生は凄惨すぎた。お前は怒るだろうが、ここで終わりを迎えられてよかったのかもしれない。ウラルは最期に死を願った」

     **

「私、本当に死んだのね……」
 ジンがウラルの背をなでている。ぼろぼろ涙をこぼすウラルの顔を覗きこみ、不意にぎゅっと抱きすくめた。
「――いや、お前はまだ完全には死んでいない」
 低いささやきにウラルは顔を跳ね上げた。
「寸前で俺が引きとめた。心臓は動いていない、息も止まっている、けれど命がまだ失われていない状態だ。俺が息を吹き込めば、お前はまだ生きられる」
 風神は生老病死を司る。その息吹はすなわち、命そのものだ。けれどジンの声は暗かった。
「だが、そうすればお前は今度こそ普通の人間には戻れなくなる。今まではお前に拒否権を残せるぎりぎりのところを守ってきたつもりだ。お前が記憶をすべて失えば普通の人間に戻れるところを越えないようにしてきた。だが、俺の息吹を受ければもう戻れない。お前は生と死のはざまに常に身をおき、死者の声を聞くようになる。俺と一心同体になり、歳をとらず、子を成せない体になって」
 固く抱きしめていた腕をほどき、ジンはまっすぐにウラルを見た。
「この状態が保てるのは一日だけだ。わずかな時間しか与えられなくてすまない。それを過ぎれば、お前は自動的に死ぬ」
 強い目だ。険しい目だ。けれどどこまでも悲しい目だ。
「選んでくれ。生きるか、死ぬか」
 びゅおう、と風が鳴った。
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