第四部 第二章 3「朱の棺、青の棺」 上

 消えるように去るジンを見送り、ウラルは胸のペンダントを握りしめた。
 苦しんでいるのはウラルよりあの人だ。どんな思いで何人の〈墓守〉を見送ってきたのだろう。そのつどあんな目で、けれど今度こそはと望みをかけてきたのだろうか。けれど女神の祈りは、いまだ届いていないのだ。
 かなえてあげたいと思う。ウラル自身も生きて幸せになりたい。けれどこの状況で、どこをどうしたら幸せに生きられるだろう。生き返ったウラルが風神のおそれるようなことになったら。ウラルが再び誰かに憎まれ殺されるようなことになったら。風神は今以上に傷つき悲しむに違いない。
 記憶を消してもらって隠れ里に行こうか。おそらくそれが生き返った〈墓守〉が比較的まともに生きられる道なのだろう。逆に言えば記憶を失わずに生き返った〈墓守〉は風神のおそれることになり、死んでいったのだろう。
 何が起きたのか知りたい。けれどあの様子の風神から無理に聞き出したくはない。
 固く自分の体を抱きしめる。――それでも風神は生きてほしいのだ。〈墓守〉たちに。

     *

 ウラルの体は明るく風通しのいい、なおかつアラーハが気兼ねなく覗き込める場所に移された。ムール禽舎の一角だ。禽舎長のラザは当然いい顔をしなかった。どこからどう見ても死体にしか見えないウラルは当然として、エヴァンスを禽舎に入れることには激怒した。が、フギンがじきじきに説得し、エヴァンスがウラルを抱いてうつむきがちに禽舎へ入ってくるのを見ては、さすがのラザも折れざるを得なかったようだ。
 ウラルのもとには多くの人が訪れた。ラザ、イーライ、そしてメイル。
 メイルはじっとウラルを見下ろし、医者だというのに脈のひとつも診ようとしなかった。ただ唇をわななかせ、細い肩を小刻みに震わせて。青ざめた顔できびすを返し、逃げるように去っていった。
 マルクは普段通りの仕事に戻り、マームは「何かやってなきゃ気が狂いそう」と狂ったように食事の手伝いをしたり繕い物をしたりと駆けずり回った。ダイオは禽舎でフギンに渡された書類その他に目を通すだけだった。エヴァンスの見張りという名目でフギンから実質一日の暇を与えられたのだ。百戦錬磨の将軍とはいえウラルのことがよほどこたえたらしい。
 エヴァンスはその間、ウラルのいる部屋のすぐ近くの鉄格子のはまった部屋でひとり静かに持ち込んだ本を読んでいた。エヴァンスは旅の連続にもかかわらず荷物の中に古びた分厚い本を入れていた。
「アラーハ。何を読んでいるのか、と言っているのか」
 鉄格子の外からのぞきこむアラーハにエヴァンスは半ば独り言のように話しかける。
「これは聖典だ。我々の神の定められた法が記されている。人は死後、神の法をよく守りよい行いをした者は楽園へ、そうでないものは煉獄へ堕ちる。戻ってくることは、無い」
 タン、と音を立てて聖典を閉じると、エヴァンスはダイオに持ってきてもらった水で両手を清め、太陽の出ている方角に向けて祈り始めた。

     **

(神は楽園を祝福され、その御光で包み込み清き水をたたえられた。一方で煉獄は呪われ、闇と業火で包まれた)
(ウラル、俺の娘。生き返ってくれるなら嬉しいが、そのためにお前はどれだけの代償を支払うのだ? ジンを喪ったときよりも辛い……)
(ああもうまったく、どこをどうやったらこんな大きな穴を靴下にあけられるのかしら。それにしてもあの台所汚かったわねぇ。……ウラル、ここでしばらく過ごしてたのかしら。あんなところで作った食事食べてお腹壊さなかったのかしら。だめだめ、今は考えないようにしなきゃ。ウラルには悪いけどかなしみに呑まれるわけにはいかないから。ああ、このシャツもまた派手に破けてるわねぇ)
 そっと棺に手を沿わせ、黙って感情を共有する。ウラルが感じるのはあくまで感情だけ、考えていることまではわからないはずだが、感情と性格がわかっていれば考えていることは大体わかってしまう。おそらく当人たちはウラルがこんなことをしていると知ったらいい顔はしないだろう。だが、こうせずにはいられない。
(ウラル。我輩はもっとも近くにいながら助けられなかった。我輩は羊以上に臆病だった。ウラルがか弱い娘以外の何者ではないのはわかっていながら。騎士の風上にもおけぬ。ウラルが蘇ったとしてもとても顔を合わせられぬ。ああ、けれど万の軍勢よりおそろしいものがあるとは)
 ふとウラルはフギンの棺を振り返った。
 この真っ赤に燃える棺に手を置いたら、火神の感情もわかるのだろうか。神の感情を覗き見するのはさすがに畏れ多い。が、相手は神なのだからウラルが一方的に感情を共有するだけでは終わらないだろう。もし火神もウラルに気づいて、話をすることができるとしたら?
 ウラルはこわごわファイアオパールの棺に手を載せた。
 何も感じなかった。ただ鉄のにおいが鼻を突く。血と錆のにおい。
「フギン」
 ウラルは呼びかけ、目を閉じた。
 やはり神の心は人とは違うようだ。けれどこんな死のにおいしかしないなんて。火神は残忍なところもあるが慈悲深い神だったのに。
「……ウラル?」
 突如、手のひら越しに聞こえた声にウラルはびくっと目を開けた。
「なんだ、空耳か」
「フギン?」
 がしっと手をつかまれる感触がした。驚いて手元を見たが、自分の手と燃える棺のほかには何も見えない。
「ウラル? 本当にウラルか?」
「フギン? 本物のフギンなの?」
「俺に本物も偽者もあるかよ! それよりウラル、今どこにいるんだ。なんで墓の下からお前の声が聞こえるんだ? というか、なんでこんなところにお前の墓があるんだ?」
 不意に、ぼろりとこぼれた涙がウラルの頬を伝った。
 フギンも今〈墓所〉にいるのだ。そこはきっとウラルの丘と違って、こんな金臭いにおいが充満している場所なのだろう。フギンは前に「戦場の夢なら見る」と言っていた。フギンは今、戦場跡の墓地にいる。そしてそこでは、死んだ人には墓がたてられる。死んだ人には。
「フギン……フギン……」
「おい、どうしたんだウラル」
 フギンの声が慌てた。
「やっとあなたと話せた。話せたら一番に言おうと思ってたの。あのとき急にひっぱたいてごめんなさい。私もあなたのこと、嫌いじゃないの。でも驚いちゃって」
「え? ああ、あのときは俺も悪かったよ。こっちこそごめんな。泣かないでくれよ、な? 俺、お前の笑った顔が見たいんだ。泣き声だけ聞かされるのはつらいよ」
 フギンの声が弾む。けれどウラルの涙は止まらない。また大粒の涙が頬を伝って棺を濡らした。
「フギン」
「ん?」
「私、死んだの」
 棺ごしにフギンが固まるのがわかった。
「こんな形だけど、伝えられてよかった。そうね、このまま死んでたら伝えられなかった」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。お前なに言ってんだ?」
「死んだの、私。麻薬におかされた人にお腹を刺されちゃって。エヴァンスが介抱してくれたんだけど、間に合わなかった」
「馬鹿言うなよ!」
 怒鳴り声。
「フギン、火神は自分が乗っ取っている間の記憶も多少は残っているはずだって言ってた。だから見ようと思えば見れるはずよ」
「なんだよそれ! ウラルお前な、いい加減に……」
 急にフギンが言葉を切った。
 沈黙。
「いま、この墓標に触ったらお前が見えた。真っ黒な服でベッドに横になってた。ぴくりともしなくて、顔とかも青白いどころじゃなくてさ。誰もいない部屋で、そうしてるお前が見えた。これ、まさか」
「……そう。それが今の私」
 フギンの棺がぶわりと輝きを増した。
「何をしたんだ」
 明るい赤橙色の炎をあげてファイアオパールの光は燃え盛る。
「どんな無茶をしたんだ、ウラル! 何をしたんだ!」
 問いかけの形をとりながら、フギンはウラルに答える暇を与えない。
「なんでだよ、なんでお前が死ぬんだよ! アラーハはどうしたんだ、そばにいたんだろ? ダイオやマルクも一緒にいたんだろ? なぁ! 誰も止めなかったのか? 黙って見てたのか? お前が死ぬような無茶をするのを見ながら誰も止めなかったのか?」
 激しく燃え盛るファイアオパールのところどころが暗く滲む。明るい色で燃え盛っていた場所が、不意に水滴でも落としたかのように暗く沈む。
「止めないでって私が頼んだの」
「知るかよそんなの。それでも止めなきゃならない時があるのはわかりきってるだろ。好きな女が崖っぷちに立って『止めないでください』って言ったら当然止めるだろ。必死こいて止めるだろぉっ!」
 それでも止められないときがある。ダイオもエヴァンスもウラルを止められなかった。間に合わなかった。けれど。
 フギンがマルクの立場ならメイルを放置してウラルを優先した。フギンがダイオの立場ならウラルが階段下に立っているのを見つけたときに一も二もなく飛び出してウラルをかばった。フギンなら、ウラルを拘束しつつも必死に守ろうとしていたフギンなら、ウラルを生かせたかもしれない。
「ばかウラル! いつか死ぬと思ってたんだよお前は! お前は優しすぎる。どうしようもなく優しすぎるんだよ!」
「フギン」
「またアラーハのときみたいになったんだろ。捨て身で何かを守ろうとしたんだろ! 自分を大切にしてくれよ! 頼むから、頼むからよおぉっ!」
 ウラルはそっとファイアオパールの棺をなでた。フギンの怒号を聞きながら、ゆっくり、ゆっくりと棺をなでる。
 怒号が嗚咽に変わり、号泣に変わった。
「フギン、聞いて」
 泣き声を聞きながら、ウラルは棺にささやく。
「私は死んだ。けれど私は〈風神の墓守〉、死神の使者。生き返るチャンスが与えられたの」
「……いま、なんて言ったんだ?」
「私は風神の条件を受け入れれば、生き返ることができるの」
「なんでそれを先に言わないんだよ! 派手に泣いちまったじゃねぇか」
 フギンが目をぐしぐしぬぐいながら笑うのが見える気がする。
「よかった。生き返れるんだな」
 フギンの無邪気な笑顔が見える気がする。ぴん、と無意識に肩がこわばった。
「まさか、迷ってるのか?」
 ウラルの動揺が棺と墓標ごしに伝わったようだ。フギンの声に怯えが混じった。
「生きろ、生きろよウラル。なに迷ってるんだ!」
 怒号が再びウラルを貫く。さっきまで生き返ろうと思っていたのに。迷う気もなかったはずなのに。
「ごめん、フギン。私、私……」
「生きろ、ウラル! 生きてくれ!」
 ウラルは思わず両耳を押さえ、跳ねるように立ち上がった。
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