第四部 第二章 4「奇跡、希望、狂気」
はじめに気づいたのはムールだった。
ムールたちは一斉に高く鳴いた。歓迎の意を示すように。空を仰ぎ、熟練のムール騎手さえ聞いたことのない声で高らかに鳴いた。
何事かと飛び出してきたムール騎手や禽舎の世話係の体を、力強い、けれどどこか優しい風が吹き抜ける。その風に当たったナタ草は次々とありえぬ色に、純白に染まっていった。
ムールの大合唱にぽかんと口をあけるマルクのそばをすりぬけ、洗濯物を押さえるマームの裾を揺らし、〈墓守〉の自覚はないものの風の中にただならぬものを感じ顔をこわばらせるメイルの頬をなで――風はりょうと吹き抜ける。
鍵のかかっていない牢屋から駆けつけたエヴァンスと共に、風はウラルの部屋へ入り込んだ。時間を見越して来ていたダイオ、フギンの姿をした火神、窓際のアラーハの体を優しく抱きしめるように風は弧を描くと、そっとウラルの髪をなでさすった。
ウラルにかかった布団がふわりと浮いた。ふわり、ふわり。ウラルの体から風が吹いている。
外からの風とウラルの内側からの風。ふたつがからみあい、ひとつになった。
「ウラル……」
名を呼んだ声は誰のものか。
答えるようにウラルの口が開いた。胸がかすかに膨らんで、しぼんだ。
かすかだが確かに、息をした。
誰もが息を殺し様子をうかがう中、ウラルの胸はゆるやかに上下する。
フギンが歩み寄り、ウラルの手をとって脈をみた。それからそっとウラルの頬に手をやり、優しく揺り起こすようにした。
「ウラル・レーラズ。風神に愛されし娘よ」
ウラルのまぶたが震え、うっすらと目をあけた。
目をあけて、焦点の定まらない目でフギンを見た。
「よくぞ戻った。俺からも祝福を」
フギンは布団ごしのウラルの胸、心臓の上に手を置いた。ぐっと力強く一押しすると、ウラルの頬に赤みが戻った。遠慮がちに、これでいいのかと言いたげに動いていた心臓が、火神にうながされて力強く動きだす。
ウラルははっきりと目を開けた。フギンに助け起こされ、それから自分の足で立ち上がった。よろけながら、体の内外からの風に支えられながら。
ダイオとアラーハがその場に膝をつき頭を垂れる。エヴァンスはその場に立ち尽くしている。
ウラルはほほえんだ。誰にともなく。
「ただいま」
悲哀と慈悲と覚悟をたたえた、風の女神の顔で。
*
「ダイオ、覚悟はいいか」
ひざまずいていたダイオが青ざめた顔でフギンを見あげ、はい、としっかりした声で応じた。
フギンがその場に倒れる。ダイオは一瞬よろめいたが、すぐに体の力を取り戻した。すっくと立ち上がった双眸には強い、あまりに強い光がある。もともとのダイオも持っていたが、これほど強くはなかったもの。威厳と覇気。今までのフギンに宿っていたもの。
「お前は」
押し殺したようなエヴァンスの声。チャ、とその腰で鳴った金属音にダイオは凄みのある笑みを浮かべてみせた。
「やめておけ。右腕のないフギンの体でさえ俺とお前は互角だったではないか。エヴァンス・カクテュスよ」
「やはり」と言いたげな色が、おそれと嫌悪感が、エヴァンスの目にじわりと浮かんだ。
「お前は何者だ。悪魔か、魔物か」
「どちらでもある。とりわけ貴様らベンベル人にとってはな」
ダイオが床に倒れたフギンを助け起こす。意識のないフギンのかたわらにウラルは膝をついた。
「フギン」
そっと両手で頬を包むと、フギンはぼんやり目を開いた。
「おかえり」
外からノックの音がして、何があったのかを問うマルクとイーライの声がした。
**
禽舎の巨大な縦穴が静まり返った。両脇をフギンとダイオに挟まれ、ウラルはその中心へと歩み出す。エヴァンスはいない。この場にいれば混乱を招くとダイオに部屋へ帰されていた。
反国組織――否、反ベンベル国軍〈ジュルコンラ〉、その数、一千。
「どうして」
ざわめきの中、メイルの声が細く響く。
「ウラルは、そのひとは確かに死んでたのに……!」
ウラルはぱたりと足を止めた。その顔をフギンが覗きこむ。
「心配すんな、お前はちゃんと生きてる。脈も触れるし、あったかい。ちゃんとここにいる。だろ?」
「フギン様……?」
フギンの仕草や口調があまりにも今までの「フギン」らしくなかったからだろうか。メイルが不安げな声をあげた。
「あ、お前メイルじゃないか! マライの妹の! 俺のこと覚えてるか?」
振り返っての一声にメイルはぽかんと口を開けた。
フギンはしまったと言いたげに頭をかき、ダイオに指示を求める視線を送った。ダイオが「続けろ」とうなずく。フギンは一礼し、再び〈ジュルコンラ〉に向き直った。
「ごめん、みんなに報告しとかなきゃならないことがある。俺は今までのフギンじゃない。古株のみんななら知ってるだろう、〈スヴェル〉のフギン、〈エルディタラ〉のもと若頭だ。そして、今までの俺は」
ざわめき。
「このひとは、だれ」
かれはフギンではない。かれはダイオではない。
メイルは後ずさる。真後ろにいた父イーライにぶつかった。
「おとうさん」
これを、とめて。
イーライはかぶりを振った。厳しい目をして、きっぱりと。
「どうして。あきらかに異常でしょう」
血の気の引いた顔でキッとウラルをにらみつける。
「ウラルね? そのひとが何かしたんでしょう。ばけもの!」
誰はばかりなく声をあげる。フギンがかばうように立ちふさがるが、ウラルは微動だにしない。凍りついたように、あるいは何も聞いていないかのように。そこに黙って立っている。
「ばけもの! フギン様を返しなさいよ!」
メイルはウラルに詰め寄りかけ、はっと周りを見回した。
「なによ……」
メイルは周りを見回しぶるりと震え。
悲鳴をあげて身をひるがえした。
「イーライ、追え。部屋まで送っていってやれ」
ダイオの短い命令に、イーライは娘を追って出ていった。
「メイルに限らずこの状況を不審に思う者も多いだろう。今まで隠してきたことを先に詫びる」
この場の戦士は〈墓守〉として無条件にかれを信じられる。が、この場にいるのは戦士だけではない。それに戦士であっても女は〈火神の墓守〉にはなれない。〈墓守〉でなければこの異様な雰囲気を呑みこめない。
かれはメイルを武器に使った。その反発をもって他の者の反発を抑えた。だから誰も止めなかった。父のイーライですら。
「俺は太古の昔よりこの国を守ってきた。ダイオの祖、英雄アレントをはじめ多くの将の体を借り受け、この力と祝福を授け、多くの戦いを勝利に導いてきた」
ぶわりと炎の気配がその場を包んだ。肌でも目でも感じることのできない、けれど確かにそこに存在する、光と熱気。
「ベンベル国は強い。俺もまた多くの将の体を借り戦ったが、その力の前にコーリラ国を失い、このリーグ国をも失った。だが、ここにはまだ多くの戦士が残っている。一度は敗北したが、敵を知り優秀な味方を得た今、もう二度と負けはしない」
深紅のマントが風にあおられ荒れ狂う。
「聖女は蘇り、俺はここに最高の器を得た。今日は記念すべき日だ。〈ジュルコンラ〉は旧き名を捨て、ここに新しく〈炎の剣〉の名を与える。そしてこの場にいる戦士のすべてを俺直属の部下〈火神の墓守〉とし、我が力と祝福を授ける!」
しゃらん、とダイオの剣が天を貫いた。
「我に従え! 我は火神、この国の軍神なるぞ!」
真っ先に続いたのは以前からの〈火神の墓守〉たちの剣。一瞬遅れて、今しがた〈墓守〉となった男らの剣が天に掲げられた。
太い叫びが天を突く。メイルに煽られた不安を振り払うかのように。高い歓声が空を裂く。胸にわだかまるものを吹き飛ばすように。
ウラルはそこに立っている。かれらを祝福するでもなく、戦いを諌めるわけでもなく。恐怖を浮かべたマームを見つけ、ウラルはかすかにほほえみかけた。喪服の裾がふわりと揺れる。
恐怖と不安は当然のこと、けれど今はかれに従うほかがない。
かれは火神、狂気と希望を司る戦いの神。
これは希望への渇望だ。
――ウラルはなにも、できはしない。