第四部 第二章 5「人ならざるもの」 上

 盆の上で、たぷり、たぷりとスープが揺れている。縁いっぱいまでスープをそそぐのはマームの習慣だ。食欲旺盛の男らが喉を詰まらせないように、お茶とスープをいつもそうしてそそぐのだ。
 こぼれて隣のパンやサラダにかかっては一大事、ウラルはひっそり足音を殺して歩いていた。それが気になったのだろう。通路の奥からこちらをうかがう気配があった。
「エヴァンス」
 名を呼ぶと、通路の奥から伝わってくる緊張が解けた。
「ウラル」
「朝ごはん、持ってきた」
 エヴァンスは自分のポケットから小さな鍵を出すと、牢の鍵穴に差し込んだ。軽い音と共に錠が開く。牢から出てきたエヴァンスはウラルから盆を受け取ると、机の上にことりと置いた。
 ダイオの全軍鼓舞の後、エヴァンスは酷いとばっちりを受けていた。罵られ、牢の鉄格子ごしに石を投げられ、あげく鉄格子ごしに槍まで突きこまれ……。ダイオがそれを諌め、フギンとマルクをしばらく見張りに立たせて、やっと静かになったのだ。
「大丈夫だった?」
「よほど嫌われているようだな、ベンベル人は」
 エヴァンスはただ背を向けて無視していた。槍を突きこまれたときだけ振り返って柄をつかみ、引きずりこんで、牢の隅に放り投げていた。
「お前こそ大丈夫なのか。傷は」
「ふさがってた。傷跡は残ってるけど、痛くない」
 服の上から傷跡を押さえる。もう包帯も巻いていない。
「貧血は。熱は出ていないのか」
 エヴァンスはウラルの手をとった。脈を診る。それからウラルの頬を手のひらで包むと、固まっているウラルなどお構いなしに下まぶたを指で押し下げ、色を診た。
 ウラルの頬を包む固い手のひら。近くで火が焚かれてじゅうぶん暖かいのに、触れる指はひんやり冷えている。ウラルはどんな顔をしていたのだろう。エヴァンスはウラルの目を覗き込み、怪訝そうに目をしばたいた。
「エヴァンス?」
 ぱっと手が離れた。
「悪かった」
 青い目がそれる。ウラルも赤くなってうつむいた。
「容態を診たかっただけだ、悪気はない」
 無意識にやっているのが問題だ。エヴァンスは今まで恋愛したことがあるのだろうか。あったらあったで驚くし、なかったらなかったで驚くだろうけど。
 ふっとエヴァンスの横顔が笑った。
「少しばかり動転したようだ。あれだけの傷が跡形もなしか」
 これで「少しばかり」なのか。彼の精神はどういう構造をしているのだろう。それともこれがエヴァンス流の軽口なのだろうか。軽口などとても叩けそうにない男なりの。
「あの『夢』のことは。お前も覚えているのか」
 すっかり平静に戻った声にうなずいた。ウラルは目をそらしているし、エヴァンスもそっぽを向いたまま。見えたかどうかは怪しいけれど。
「待ってるって、言ってくれたよね」
「そうは言ったが本当に生き返るとは思わなかった」
「あなたも私のこと、化物だと思う?」
 沈黙。青い目は冷たい石壁を見つめたまま。
 ウラルは笑ってみせた。
「ごめんなさい、わかりきったこと聞いた」
 エヴァンスが急にウラルの方を向いた。
「化物になりたいのか、お前は」
 声が固さを帯びている。さっきまでそれていた青い目がまっすぐこちらを見据えている。手で触れないのが不思議なほどの、視線の圧力。
 エヴァンスは怒っている。彼は嘘をつかない。「待っている」と言ったからには、本当に、義理でもなんでもなく待っていてくれたのだ。
「私、は」
 火神と手を携えて、一人でも多くの人を救うために戻ってきた。けれどあの場でわかった。ウラルと今のダイオは決して対等ではない。彼にとってウラルはあくまで道具だ。人々に希望を示すための。風神と連絡をとるための。彼はそのあたりを事務的にばっさり切り捨てる。となれば、人でなくなったウラルは別のものになるしかない。人として見てくれる人がいなければ、『人ならざるもの』としての自分を前面に押し出し、人としての自分を押し殺すしかない。
「化物になりたいわけじゃない。でも……」
 それも覚悟で戻ってきた。でも。
 でもやっぱり。
 ふっとエヴァンスの目元がゆるんだ。
「正直なところ実感が沸かぬのだ。お前が一度死んだことが。何も起こらなかったまま一日が過ぎて、ここにいるような気がする」
 お前の体には傷ひとつないのだ。そう言いたげに向けられた視線がついと逸れる。ウラルの胸の傷跡から。
「わたしのほかにもお前に近しい誰もがそう思っているだろう。あまり気に病むな」
 気に病むな? ウラルはきょとんとエヴァンスを見つめた。
「何かおかしなことを言ったか」
「あなたがそんなことを言うとは思わなかったから。今まで私を殺すって口癖みたいに言ってたのに」
 じわりとエヴァンスの口元に苦笑が浮かんだ。ただ苦笑と言うには少しばかり穏やかな。
 少し前にメイルに罵られたばかりなのに。化け物、化け物と、何度も叫ばれたはずなのに。エヴァンスにそう言われると、そんな気がしてくる。誰も数日前と今のウラルの違いなど気にしていない気がしてくる。今日のエヴァンスは妙に優しい。喜んでくれているのだろうか。ウラルがまたこうして目の前にいることを。うぬぼれだろうか。
「私を殺すのは、あきらめたの?」
 またエヴァンスは目をそらした。口元の笑みが幾分苦い、どことなく何かを諦めたようなものに変わっている。
「私を殺さなければ、あなたはどうなるの?」
 答えづらいらしい。質問を変えてみた。
「神の裁きを受けることになる」
「具体的には?」
「死後、神に約束された安息の地に行くのではなく、煉獄へ落とされ責苦を受けることになる。その前に教会を通し、できるだけ罪を軽くしていただけるよう嘆願することになるだろう。己の罪を数え上げ、認め、この身をもって償う。軽罪なら教会への奉仕労働や財産の没収、重罪ならば教会からの追放や処刑が課される」
 ウラルは顔を歪めた。エヴァンスは淡々と話しているが、ベンベル軍の上層部に嫌われているエヴァンスだ、重罪確定なのではないだろうか。となれば、この流れからして間違いなく命を奪われる。
「祭壇を血で穢したという、それだけで?」
「おおもとはそうだが、もはやそれだけの話ではなくなった。罰の拒否はまぎれもない神への反逆、それも理由が女にほだされたとあっては弁解のしようもない。最高刑を受けてしかるべき罪状だ」
 そんな、としか言いようがない。ほんとうに、本気でそう思っているのだろうか。あきらかに神様の裁断だけでないものが裏に見えるのに?
 受け入れているはずがない。だからエヴァンスは口ごもったのだ。ウラルを殺すのをあきらめたのかという問いかけに。彼もどうにかして逃げ出したいのだろう。けれど性格的にそんなことを言えないのだろう。だから。
「あなたに死んでほしくない」
 エヴァンスの青い目がウラルに向く。
 ウラルはぎゅっと胸元のペンダントをにぎりしめた。
「もう誰にも死なないでほしい……」
「ならば、どうすればいいというのだ」
 低い声が岩壁にびりりと反響した。
 死なないでほしい。誰も死なないでほしい。残酷な言葉だったのだ。ウラルと信仰の間で悩み続けている彼にとっては。ジンをはじめとした多くのリーグ人を殺してきた彼にとっては。
「リーグの聖女よ。わたしに答えを与えてくれるか」
 エヴァンスが唇の端を歪ませる。皮肉だ。毒のない皮肉――与えられないだろう、お前は聖女と呼ばれているだけの人間だ。神や化け物ではない。
 ぎゅっと目を閉じる。どうしてこんなことになったのだろう。どうして。
「わたしは今日の午後、ここを発つ。シャルトルと合流して屋敷へ戻るつもりだ。お前こそ、死ぬな。もう二度と」
 これがエヴァンスの決断だ。これが最後だと思っていたから、彼は妙なほどに優しかった。納得が胸にすとんと落ちてきて、それと同時に忘れていた本題を思い出した。
「エヴァンス、大切なことを伝え忘れてた。シャルトルがアウレヌス卿に捕まったわ」
「なんだと?」
 彼の声がぴんと普段の固さを帯びた。
「アラーハはツノに手紙をつけたまま帰ってきた、あなたに何か伝えたそうにしてたけど、伝わらなくて諦めた。でしょう?」
「確かにそうだが。どこからの情報だ」
「ジンに聞いたの。あの人は千里眼を持っているから。風の通れるところならどこだって見れる。私の言っていた『精霊』があの人よ。私が麻薬中毒者の襲撃を知っていたのも、あの人が知らせてくれたから」
 今度こそ化け物だと思った? 言いかけた言葉を飲みくだす。
「助けてあげて」
 エヴァンスは動かない。もっとあかさらさまに疑われるか、さもなければシャルトルの居場所や状態でも聞かれると思ったのに。エヴァンス? 視線で問いかけてみるが、エヴァンスは顔をこわばらせたまま、やはり何も言わなかった。
 たしかにウラルは変なことを言ったはずだ。でもエヴァンスがこんなになるようなことを言っただろうか? 今までの会話を思い返し、ウラルは悟った。――ウラルは図らずも「聖女としての答え」をエヴァンスに与えたのだ。常人にはない千里眼を根拠として。
 シャルトルを助けろ。死ぬな。
 ここで答えを与えられる存在は彼にとって何なのだろう。尋ねるまでもなかった。
 ウラルはうっすらと微笑んだ。エヴァンスが何か言いたげに口を開く。ウラルは首を振ってそれを制した。いいの、それで。事実だもの。
「シャルトルの居場所、ジンに聞いておくね。わかったらすぐ連絡するから」
「ジンとはいつでも連絡がとれるのか」
「ええ、いつでも。その気になればここででも」
 目を閉じて呼びかければ、いつでもあの丘が目の前に現れる。そんな確信めいた予感があった。ジンが傍で見守っている感じもする。エヴァンスがシャルトルのことを知りたがれば、ここで彼に話しかけるつもりだった。
 でも、どうやらエヴァンスにとってジンの名は禁句に近いものになったらしい。ジンの名を聞くたび彼の肩がかすかにこわばるのがわかる。死してなお力を持つ彼に対しての畏怖だろうか。それともジンの名を口にし続けるウラルに対しての嫌悪感だろうか。
 どちらでもいい。今、あきらかにエヴァンスは引いている。もうここを出た方がいい。
 ウラルは机の上に置かれたきり忘れられた盆に手をやった。スープカップを手で包む。すっかり冷えてしまっていた。ここに来たときは湯気をたてていたのに。
「ごめんなさい、長話しちゃって。暖めなおしてくるわ」
 エヴァンスの手が伸び、ウラルの手首をつかんだ。スープがこぼれてかたわらのパンにしみこんでいく。
「構わん。しばらく火の傍に置いておけばいいことだ」
 スープは木の椀に入っている。火の傍に置いておいたくらいで温まらないのはわかりきっているのに。
「ごめんなさい。また、来るね」
 エヴァンスは返事をしなかった。「待っている」と言ってくれなかった。ウラルはきびすを返し、長い廊下を歩き出す。
 何を期待していたのだろう。こうなることくらい、わかっていたのに。
 わかっていたのに。
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