第四部 第二章 5「人ならざるもの」 中

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 ウラルが廊下を歩くと、そこにいた兵士たちは誰もが端に寄りしずしずと丁寧な礼をとる。はじめは断っていたウラルも断っても断っても誰も頭をあげてくれないので会釈を返すだけになった。
「聖女様。フギン様がお探しでした」
 ウラルはありがとうと微笑んで、フギンの部屋へと足を向けた。
 「中身が入れ替わった」のだから当然なのかもしれないが、フギンとダイオは部屋を交換していた。フギンは「こんな赤尽くめの派手な部屋じゃ落ち着かない」と言っていたが、他に部屋もないことだし仕方がない。
 あと角ひとつ曲がればフギンの部屋の前、というところに来たときだった。
「今までのフギン様に戻ってください」
 フギンの部屋の前のあたりから聞こえた女の険しい声に、ウラルは反射的に足を止め曲がり角の向こうをそっとのぞいた。
 メイルとフギンがドアの前、向かい合って立っている。メイルは大きな荷物を傍らに置き、フギンは迷惑そうな顔を隠そうともせず頭をかりかりかいている。
「今までの俺ったってな。気持ちはわからないじゃないけど、こっちが本来の俺なんだよ。お前は俺の何だったんだ?」
「あなた様をお慕いしておりました」
「なんだって?」
「好きでした。リーグの英雄たるあなた様のことが」
 にらみつけるような烈しい視線、なんら隠すところのない直球すぎる言葉に、フギンがたじたじするのがわかった。メイルは切り込むように続ける。
「私は〈ジュルコンラ〉を出ます。ここはもはや化け物の巣窟、私はもうここにはいられません」
「化け物って、ウラルのことか」
「ウラルとダイオの二人です」
 フギンはがりがり頭をかきむしった。
「あのな、とりあえず他全部あとまわしにして先言っとく。ウラルはたしかに変だけど、間違っても誰かに悪意抱いたりできない娘なんだよ。誰が化け物だ、化け物ってのは害を及ぼすもんだろ。ウラルは違う! 今まで俺もウラルのこと変だ変ださんざん言ってきたし実際変だと思うけどさ、ほかの人に化け物とまで言われてるの聞くとすげー腹たつんだよ。それもあの人数の前でよ。お前失礼だとか恥ずかしいだとか、そういう感情持ち合わせてないのか? ウラルだって好きで聖女やってるわけじゃないんだぞ!」
 次はメイルの方がたじたじとする番だった。けれどメイルはここで引くような娘ではない。
「あなたはウラルの何なんですか!」
「俺はウラルのことが好きなんだよ! 告ってすっぱり振られた!」
 叫んで叫び返されて、びくりとメイルは身を引いた。フギンは耳まで真っ赤になって、照れ隠しのつもりか鼻をごしごしこすっている。
「ほ、ほんとうに別人になってしまったんですね……」
「やっと納得してくれたか。やれやれ、この手は使えそうだ。恥ずかしい話すりゃいいんだな」
 ウラルは曲がり角から顔をひっこめた。フギンがかばってくれるのは嬉しいが、こんな話を立ち聞きしていたと知れたら。
 火照る頬に両手を押し付け、冷たい無骨な岩壁に背をあずける。早くここを離れたほうがいい。立ち聞きなんて卑劣なことをこれ以上続けるわけにはいかない。でも足が動かない。
 フギンの言葉が胸に沁みる。じぃんと、深く、あたたかい。
「今のダイオはたしかに化け物じみてるかもしれない。少なくともベンベル人にとっては。お前、誤解してるみたいだから言っとくけど、ウラルがダイオをそそのかしてるわけじゃないぞ。詳しくは言えないんだけど、逆だ。ダイオがウラルを利用してるんだ」
「あなたたちは『言えない事』が多すぎるわ」
「今は黙ってじっとしてるわけにはいかない。どんな手を使ってでも前に進まなきゃならない。ベンベル人からリーグを取り返すために。リーグ人がリーグ人でいられるように。それはわかってくれるよな。萎縮している人間を動かす力は三つある。怒り、恐怖、希望だ。怒りと恐怖は揃ってる。残りは希望だ。ウラルは予言をする。ウラルは刺されても生き返る。それは人知を超えた大きな力だ。リーグ人にとっての大きな希望になりうる力なんだ」
「あれは何か裏があるのよ。ただのマジックだわ」
「お前は怯えて寄り付かなかったらしいからな。何人かの人間がちゃんと確かめてる。ウラルは一度死んだ。お前、医者だろ。自分の役割くらい果たせよ。ここは戦場だ、嫌いだから患者診ないなんざ許されると思ってんのか」
「ご自分の役割も放り出して突然別の人間になった人に言われたくないわ。戦時中に総指揮官が突然まったくの別人に変わってしまうなんて誰が想像したかしら? それしか道がないとしても、私はあなたたちみたいな得体の知れないものにはついていきたくない!」
 ぱたりと二人の声が途絶えた。
 メイルは正しい、と思う。おかしいのはウラルたちの方なのだ。でも。相手はリーグの神々だ。リーグ人が崇めてきた神々がみずから指揮をとり、ウラルたちは従っているだけ。どこからおかしいのだろう。どこから誰も理解できなくなるのだろう。どう話せばわかってもらえるのだろう。
「なんでお前はそんなことを俺に言いに来たんだ? なんで置手紙一枚残してすっぱり消えなかったんだ?」
 メイルは答えない。
 いや、声をひそめて何かを言ったようだ。
「何だって?」
 どうやらフギンにも聞こえなかったようだ。
「ん?」
 聞こえない。
「言うならもうちょっとはっきり言ってくれよ」
「裏切られるのが嫌いだって言ってるのよ!」
 いきなりメイルが声を張り上げた。
「え、ちょ、なんだよ急に。裏切られた? 誰に?」
「決まってるじゃないの、あなたよ! 私だってリーグを救ってほしいのよ! なんでそんな得体もしれないものになっちゃったの! わかるように説明してほしいのに! ごまかさないでほしいだけなのに!」
 え、とか、わ、とか声にならないフギンの声が聞こえてくる。
 その声に混じって、かたん、かたりんと、不思議な靴音が聞こえてきた。人の足音というよりは蹄鉄をはいていない馬の蹄音に似ている。でも足は四本ではない。二本だ。懐かしい音にウラルは顔を覆っていた手をはずした。
 くろぐろとした巨きな影がフギンらのいる側の反対からウラルに近づいてくる。ウラルよりあたま二つは大きい、毛皮を身にまとい獣のにおいと湿っぽい草木のにおいを染みこませた、なのに不思議と怖い感じのしない大男。なつかしい、もうしばらく見ることはかなわないと思っていたその姿は。
「アラーハ……? どうして」
「お前がウラルか」
 久しぶりに聞く低い声は普段と違う響きを帯びていた。アラーハ以上におごそかな、アラーハ以上に力強い声。ウラルは立ちすくみ、それからその場で深く腰を折り頭をさげた。
「まこと妹によく似た娘よ。同じ眼をしておる。フギンを使いに出したのだが、うまくつかまらなかったようだ。遅いので迎えに来た」
 かれはアラーハではない。かれはアラーハの主君だ。
「ご足労をおかけしました。なんとお呼びすればよろしいでしょうか」
「アラーハと。からだの名で呼ぶが定めよ」
 ふと背中に視線を感じてウラルは歩きながら振り返った。声で気づいたのだろう。フギンとメイルがこちらを見ていた。フギンがアラーハに向かって深く頭を下げる。
「どこから聞いていたんですか」
 立ち聞きしていたのに気づかれてしまったようだ、メイルの声は強烈な怒気を帯びていた。血相を変えてフギンが止める。それでも構わずウラルに詰め寄ろうとするメイルの腕をフギンがひっつかみ、自分の部屋に押し込んでドアをバタンと閉めた。
「失礼しました」
 フギンが再び頭をさげるのにアラーハが軽くうなずいてみせた。ドアの向こうからメイルが怒鳴り散らす声が聞こえてくる。
 ウラルはアラーハを見た。今のうちに行きましょうと目で合図したつもりが、アラーハは目をそらし黙ってフギンを見た。フギンに言っておきたいことがあるのを見抜かれたようだ。ウラルは軽く頭をさげ、心づかいに甘えることにした。
「メイルに伝えておいて。私たちのことを知りたいならマライに聞いてみて、って」
「マライに? おいおい冗談言うなよ」
「今夜、夢にマライが出てくるわ。きっと」
 フギンが不意に真顔になって、ウラルの髪に手を伸ばした。フギンの手の重みがウラルの頭にかかる。
「そういうことか。わかった、伝えとく」
 あたたかな重さだった。それがゆっくりと下へ滑り落ちる。それが重みを失い宙に浮き、もう一度ウラルの頭に重みをあずけた。
「フギン?」
 急にドアの内側が静かになったと思うと、どぅんと鋭い衝撃がドアにかかった。
「ちっ、回し蹴りだ。かわいい顔してるくせに。足いためるぞ」
 フギンが全身でドアを押さえる。どうやらメイルは何かしらの武術をやっているようだ。このままではドアを蹴破りかねない。フギンは苦笑し、ウラルにウインクしてみせた。
「ウラル、一応言っとくけどあんま気張るなよ。思いつめた顔してさ、今にもぽっきりいきそうだ」
 思いがけぬ優しい言葉にウラルは目を見開いた。
「お前が普通じゃないのはよーくわかってるよ。でもオンナノコひとりで世界は変えられない。そうだろ? 全部神々に任せろ。指示されたことだけしてりゃいい。あとは普通にオンナノコやってていいんだぞ」
 俺を見習え、「英雄」をほっぽりだした俺を。今の聞いてたんだろ? にやっ、とフギンがいつもの子どもっぽい笑顔を見せる。ウラルもほほえみ返した。
「ありがと、フギン。アラーハ様、お待たせしました」
 時間の流れが人よりゆっくりしているのかもしれない。そう感じさせる穏やかな物腰でアラーハはうなずくと、先に立って歩き始めた。
 背後で悲鳴があがった。ウラルらが十分離れたのを見計らい、メイルがドアを蹴ろうとするのに合わせてフギンがドアを開けたのだ。大きく上体を泳がせたメイルをフギンががっしり抱きとめる。
「めんどくせー女だなぁ……」
 ばちん、と平手打ちの音が響いた。
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