第四部 第二章 5「人ならざるもの」 下

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 ダイオの部屋ではダイオと見慣れない老人が待っていた。老人は顔の半分が見えなくなるほど豊かな純白のひげをたくわえ、なにかの骨でできたような杖をついている。武人には見えないが鈍い銀色に光るチェインメイルを身につけて、うす青い透けるほどに薄いマントを身にまとっていた。彼がかすかに身じろぎするたび、あるいは見る角度を変えるたび、それがきらりきらりと水面のように光る。魚だ。魚の守護者とひと目でわかった。
「遅かったな、待ちくたびれたぞ。ウラルか風神かどちらだ?」
「ウラルです。すぐに風神を呼びます」
「雰囲気がまるきり同じだからな、兄の俺にもわからん。これほど本来に近い姿で四人が集まるのは何年ぶりだ。四百年ぶりか?」
 ダイオが上機嫌で笑う。本当だ、目の前の三人は大神殿に描かれた絵や像にそっくりだった。火神はむろん威厳あふれる軍神の姿。地神は火神とかぶらないようにするためか中性的に描かれることもあるが、基本的には自然を相手に暮らす男のお手本とばかりの筋骨たくましい姿で描かれる。水神はひげをたくわえた老人か無垢な子どもの姿だ。
 ウラルは火神に許可を求めて椅子に腰かけた。眼を閉じて全身の力を抜く。ふわりとどこからか風が吹いてきてウラルの髪をなぜた。
(ウラル。何度もすまない)
 どうぞ、と声に出さずに呼びかける。やわらかな風がウラルを包みこみ、耳元でごううとうなった。
 気がつくとウラルは立ちあがり、その場の三人に向かって笑んでいた。
 風の姉上、と川の守護者がしわくちゃの顔で微笑んだ。四大神は太古のむかし同時に生まれたとされ、見た目の歳もばらばらだが、春と朝を司る地神が長兄であり、夏と昼を司る火神が二番目、秋と夕方を司る風神が三番目、冬と夜を司る水神が末弟と位置づけられている。長い旅から戻った水神を、フェラスルト川守護者アグーの老いた小柄な体を、「お帰りなさい」と抱きしめた。
「地神にも」
 迎えるように両手を広げたアラーハの広い胸に身を預けた。
 とたん、後ろからもぎとられるように抱きしめられ首筋にキスを落とされた。
「やめてください、ウラルが怯えます」
「なんだ、ウラルの意識は残っているのか」
「気にすることはない。アラーハの意識も残っている」
 これは地神がウラルに向けて言ったのだろう。ダイオが名残惜しそうに体を離す。体の主導権を風神に渡しているウラルはただただ胸の中で感謝した。
「せっかく久しぶりに四人揃ってのの再会だが、そう喜んでばかりもいられん。水神。ベンベルはどうだった」
「そう仕切らないで、火の兄上。なかなか四人揃わなかったのはあなたが〈反転〉したあげく人に憑いて身動きがとれなくなったからでしょう」
「相変わらず水神は舌鋒鋭いな。その舌でうまくベンベルの神をからめとってきたのか」
 水神は立派なあごひげをなでながらうなずいた。姿は老いているが、口調はかなり若く聞こえる。まるで子どもが老人の姿と声で話しているような。
「火の兄上は相変わらず気性が荒い。状況のわりにはいい結果になったと思うよ、今回は僕らの方が分が悪かった」
「なぜ我らの方が分が悪いのだ? 神としての立場は同じだろうに」
「人が負けた時点で神としても負けているんだ、火の兄上。僕らはあくまで『お願い』している立場なんだよ。ふたつの世界がつながっているこの状況で困っているのは僕らであって、相手じゃない」
 不満げに何かを言おうとした火神を地神が制した。
「続きを」
「相手がとれた道はいくつかある。ひとつは僕らの要求を無条件に呑むこと。あるいはこれに乗じて僕らを攻撃して亡き者にし、こちらの世界も自分のものにすること。そこまでいかずとも僕らの要求を無視してこちらの世界の富を奪い続けるって道もあった。僕があの神の立場だったら三番目をとるね。労なくして自分の治める大地は豊かになる。ただ、相手の神にはそうできない理由があった」
「というと?」
「相手は唯一絶対神なんだ。自分の領域に他の神がいるのを許せない。正直、今この状況も我慢ならないはずだよ」
 理解できんなとばかり火神がかすかにうなった。地神は無表情に聞いている。
「というわけで、僕らは貢物だけで解放してもらえることになった。フェラスルト川以南の肥沃な土地を渡すことを条件にこっちの要求を呑んでもらえる。こちらとあちらを切り離し、すっぱり別れる」
「フェラスルト川以南の土地を渡す、ってことは」
「この要塞の南側から見えるのはフェラスルト川と一面に広がる穀倉地帯ではなく、見渡すばかりの海になるということだね。切り離された土地はあちらの世界でリーグって名前の離れ小島になるんだろう」
「僕らを亡き者にしようって案も考えただろうけど、相手はひとりでこちらは四人。あちらの神は強大だ、こちらの世界より圧倒的に広い世界を治めているし文化も進んでる。自分の方が強い力を持っている自信はあったんだろうけど、こちら全部を敵に回すのはしんどいと判断したんだろうね」
「水神、あなたは本当にそれでよかったの? 私たちが産み育てた大地を切り離して、それで心から『よかった』と言える?」
「ベンベル人を容れたのは風の姉上、あなたでしょう」
 氷のような声に風神の肩の線がぴんと張った。風神がベンベル人をこの世界に迎え入れた?
「全てを救おうとするあなたの優しさは時として崩壊の引き金となる。そしてあなたは気が狂い――その狂気がすべてを滅ぼす」
「口が過ぎるぞ、水神」
 地神がぴしゃりと止めた。
「風神が司るのは母が子にそそぐ盲目の愛。滅びるものもないではないが、救われたもののほうがはるかに多かろう。責めるべきものではない」
「それはどうかな。行き過ぎた愛ほどおそろしいものはないし、自制をかけるべき時にかけられないのは愚かなことだ。違う? それとも地の兄上、火の兄上は風の姉上の狂気を望んでいるのかな?」
 しん、と沈黙がおりた。風神がウラルを気にしているのがわかる。頼れる神であろうとして、いままで背をしゃんと伸ばしまっすぐ前をみすえていた。その背が痛みをこらえるように丸まっている。地神の目には悲しみ、火神の目には後ろめたさ。――過去に何かがあったのだ。
「……今度こそ言葉が過ぎたみたいだね。それで一番悲しむのは風の姉上だからきつい言い方をしたんだ、許しておくれ。話を戻すけど、ふたつの世界が分かたれるのは月が六回欠けて満ちた夜。つまりは半年後の満月の夜だ」
「この国に残ったベンベル人はどうなる。ちゃんとあちらへ連れ帰ってくれるのだろうな?」
「こちらの世界がまったく見えてない相手の神にそんな芸当ができると思うかい? 南の土地を差し出すってことは、あちらへベンベル人を帰す船の役割も兼ねてるんだ」
「ベンベルからこの国を取り返すには、ふたつの世界が分断されるとき起こるであろう大混乱が最大の機会というわけか。そのとき徹底的に相手を叩き潰せればよし、でなければ」
「現状維持というわけ。もっと悪くなるかも」
「悪いことにベンベル人はリーグ人同士が憎しみあいいがみあうように仕向けている。これではたとえベンベル人が指揮をとる力を完全に失ってもリーグ人同士が争い続けるとことになりかねない。その隙にベンベル人が立ち直る」
 がちゃん、と火神の剣の金具が鳴った。やはり彼は軍神、国が分裂することよりも軍事的な安定の方が大切らしい。
「ウラルが『死んだ』日、この付近の五つの町で同じ攻撃を受けたと聞いている。そのあたりはどうだ、風神」
「どの町でもかなりの怪我人が出ています。一度受け入れてから武力で叩き出したから」
「ベンベル人の描いた絵の通りというわけだ。〈壁〉の向こうの状況を教えてくれ」
 ウラルは目を閉じた。
 風神の風の眼は〈壁〉の向こうを吹きすさぶ。麻薬の煙を吸いながら傷跡を見せびらかす男。どの町でどんな酷い仕打ちを受けたか腕を振り回しながら声高に語る男。そして――向かった者が誰一人帰ってこないフェラスルト町の噂。
「なるほどな。お前が手を下しウラルを『死なせた』対策は、状況を余計悪くするものでもあったわけだ」
 言ってからきつい言い方をしすぎたことに気づいたらしい。火神の目に痛みがまじった。
「まだわかりません。彼らが正気に戻って〈壁〉の向こうへ帰るまでは」
「麻薬の力は相当に強い。やつらは今も麻薬を求めて暴れているぞ。二、三日経って〈壁〉の向こうへ戻したところでまた麻薬の虜になるのは目に見えている。かといって完全に麻薬と縁が切れるのを待っていれば、待っている間に〈壁〉の向こうの連中が仲間の仇とばかり討ち入ってくる」
 風神を傷つけたくないという彼の思いが伝わってくる。だが。
 きつい言葉の波を受けて風神は揺れている。諦めかけている。
「ふたつの世界が分かれてベンベル人が混乱すれば、戦わなくてもリーグを取り戻せるんじゃ……」
「ふたつの世界が分かれる、今帰らなければ二度と祖国には帰れなくなると今予言したところで、やつらが動くと思うか。馬鹿にして動かないに決まっている」
 淡々と鋭い声が続く。被害を最小限にするために。風神の情を折るために。
「できるだけ多くのベンベル人を祖国に帰してやりたいなら、大混乱を起こさなければならん。リーグを出なければ殺されると思い込まなければ誰も動かない」
 風神は両手で顔を覆った。体が震える。膝が崩れる。彼女にとっては自分の息子を今から殺すと言われたも同然だ。何人も、何人も。止められない。守りたいのに守れない……。
「出会ってしまった以上、戦わないわけにはいかないのだ。そして戦えば流血はまぬがれない。こらえてくれ――理想のために被害を大きくするわけにはいかない」
 風神の心が折れる音をウラルは自分の身の内で聞いた。
「風神、今日はもう戻って休め。ウラルに体を返せ」
「ウラル……」
 呼びかける声も震えていた。大丈夫ですと胸の中で伝えると、すとんと体の力が抜けた。
(ごめんなさい……)
 よほど辛かったのだろう。いつものようにジンの声にするのも忘れて。耳元で細い女の声が聞こえて、風神の気配が失せた。
「ウラル。聞こえるか」
 目を開けると、ウラルは床にぺたんと座りこんだ格好で、上体をダイオの太い腕に支えられていた。
「部屋まで送ろう。歩けるか」
 頭がぼんやりとして、体にもうまく力が入らない。ウラルはダイオに腕をとられ導かれるままに歩き始めた。心の準備を十分にしないまま体の主導権が戻ったせいだろうか。ダイオにつかまれた肘も厚い上着を重ね着た上からにぎられているような感じだった。
 廊下に出たところでダイオはウラルに向きあい、虚ろなのであろうウラルの目をのぞきこんだ。
「幻滅したか」
「いいえ……」
「ではなぜそんな目をする?」
 問われて、ウラルはこのぼんやりとした頼りない体が風神ではなく、自分の心の影響を受けているせいだと気がついた。
「どうしようもなく悲しい、それだけです。誰も誰かが傷つくことなんて望んでいないのに……」
「風神が口にしそうな答えだ」
 ダイオが深いため息をつく。
「最善は尽くすと誓おう。俺もこの世界の父だ、血に酔った悪魔ではない。俺にとってもリーグ人はわが子同然。流血を少しでも減らせそうな情報があれば教えてほしいと風神に伝えてもらえるか」
 ふぅっと触れられている肘に感覚が戻った。目にも光が戻ったのだろう。ダイオは口元にちらりと笑みを浮かべ、先に立って歩き始めた。

     ***

 部屋に入ってすぐ、そこに風神の気配があるのに気づいた。ゆっくりと風が渦巻いているのを感じる。見守られている感じがする。ウラルはベッドに腰かけ目を閉じてジンの幻影が現れるのを待とうとし――そこでふとノックの音を聞いて目を開けた。
「どなたですか?」
 名乗る声は返らず、ただコンコン、と再びノックの音がした。
 ダイオが戻ってきたのだろうか。それにしては様子が変だ。ウラルは首を傾げつつドアを開けた。
「エヴァンス」
「ウラル。お前に別れを告げに来た」
 わかれ、と口の中で繰りかえしてからエヴァンスの格好を見る。荷物を背負い、腰には取り上げられているはずの剣も帯びていた。すらりと湾曲したシャムシール。その切っ先はきっと鋭く研ぎあげられている。
「シャルトルを助けに行く。窓を貸してくれ」
 ウラルの部屋はアラーハがのぞきこみやすいよう、目立たない通路に面した場所にあった。たしかに逃げ出すには好都合だが。
「信じて、くれたの?」
「アウレヌスはこの町の様子を知りたいはずだ。となればわたしを呼び出すのが手っ取り早い。だがわたしはあやつと仲が悪いから、自分が圧倒的に上の立場として話すためには人質をとるのが得策だ。いかにもあやつの考えそうなこと、なぜお前が知っているのかとおそろしくなった」
 エヴァンスはするりとウラルの部屋に入りドアを閉めると、窓の前に立った。窓を開け、風を部屋の中に招きながら言葉を続ける。
「シャルトルは知恵が優れているわけでも武勇に優れているわけでもない。だからこそわたしは傍に置いていられたのだ。わたしの足かせとなるように。いざとなれば人質にとれるように。他の者は一年とたたずしてほかへ飛ばされた。いつかこうなることはわかっていた。シャルトルも見捨てて構わないと言っていた。だが」
 見捨てられない。ただ一人の友。
 その声の中に覚悟の響きを聞いて、ウラルは震えた。
「エヴァンス、もうひとつだけ予言をさせて。シャルトルを助け出したらすぐにベンベル国へ渡って。半年後、リーグとベンベルの間の道が閉ざされる。もう二度と帰れなくなるわ」
「なんだと?」
「荒唐無稽な話だし信じてもらえないとは思うけど……。あなたの神様を否定するわけじゃない。これはあなたの神様の同意のもとで決まったこと。あなたの神様の目はこの世界に届いていない。こちらの世界で受けた裁きは無効、人の思惑だけで決まったものよ。ベンベル国に渡って、しかるべき場所でもう一度裁きを受けて」
 エヴァンスの片眉が跳ね上がった。
「しかるべき場所でもう一度、か。それは考えてもみなかった」
「きっと違う判定が出るわ。……死なないで」
 どうして自分はこんなにエヴァンスの死を意識しているのだろう。神々の話が頭に残っているのだろうか。それともエヴァンスがおのれの死を覚悟しているのだろうか。相手はまがりなりにもエヴァンスの仲間、ベンベル国騎士なのに?
「お前こそ死ぬな。お前が死ねば、わたしは悲しい」
 低い声を残し、エヴァンスがひらりと窓枠を乗りこえた。腰の剣ががしゃんと鳴る。
「さらばだ、ウラル」
「エヴァンス」
 名を呼んでも彼は振り返らない。森に帰る獣のように。淡々と力強く、たしかな意思をもって。
 引き止めたい。どうしてこんなに胸が騒ぐのかわからない。行けば彼は剣を振るって人を殺す。行けば彼はきっと傷つく。行けば彼はウラルたちを裏切る、否、ベンベル騎士に戻るかもしれない。行けば彼は――死ぬかもしれない。
 金の髪が遠ざかっていく。行ってしまう。
「ジン。私、町におりたい。麻薬中毒者を追い返して怪我人を出した町へ」
 もう誰一人死んでほしくない。戦いを止めたい。
「私たちがしたことは無駄じゃない。この町の人は〈壁〉の向こうの人を哀れに思ってはいるだろうけど、憎んではいない。その襲われた町の人はきっと憎んでいるし、恐れてる」
 〈壁〉の向こう側ではこの町を恨んでいるかもしれない。けれどこの町の人は〈壁〉の向こうの人々を憎んではいない。つまりベンベル人の策略は半分しか成功していないのだ。それは大きな差だ。そう信じたい。
「私たちが行けばなにか変わるかもしれない。諦めずに探さないと。少しでもましな道を……」
 風が渦巻きウラルを包む。ジンがふっと風神の顔に戻ってうなずいた気がした。
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