第四部 第三章 1「芽吹いた種」 上

 フランメ町に向かった連中は誰も帰ってこない。休暇をもらったあの日から。
 城壁は小ばかにしたように開きっぱなし。町の連中は中で賑やかにやってる。
 なぁ。帰ってこないあの連中、どうなったと思う?
 なぁ? なぁ!

     *

 〈壁〉の向こうからすさまじい怨嗟が伝わってくる。「仲間が何十人も殺された」という思い込みを引き金に、今までのリーグ国の内部腐敗からの鬱憤やつらい戦争へのにくしみを土壌に。麻薬の力で本来の何十倍にも膨れ上がった憎しみや怒りは、まっすぐフランメ町に向けられていた。
 異様な興奮状態だった。あんな連中が襲ってくると思っただけで身の毛がよだつ。前回は体を張って止めたウラルも、今回はとても同じ手で止められそうにない。興奮の度合いが違いすぎる。人数も桁違いだ。マルクが空中から目算したところによれば、通行止めになっている橋のたもとに集まっている者だけで五百人を超えるという。
 今にも襲ってきそうな雰囲気だが、彼らがそうしないのは橋が通行止めになっているからだ。武器の到着を待っているからだ。ベンベル国が陰から渡す物資が三日後に届く。それが行き渡ると同時に橋の前に造られた門が開く。
 ウラルは最初に来た麻薬中毒者を〈壁〉の向こうへ帰すようダイオに言った。そもそものきっかけが彼らをフランメ町が皆殺しにしたという誤解なのだから、全員が元気でいることを知らせればきっと止まる。だがダイオの答えは否だった。あれだけ高まった興奮がそれだけで鎮まるとは思えない。ベンベル人が鎮めない。戻った彼らは再び麻薬を与えられ、敵の尖兵にされるだけだ。
 ウラルは喪服をまといアラーハに乗った姿で、大急ぎで五つの町を回った。誰もがひどく怯えていて、ウラルが現れると熱狂的な歓声をあげた。フランメ町を救った風神の使者。救いの使者がわが町にも来た。だが、ウラルは何の策ももたなかった。ただベンベル人がリーグ人同士の戦いを望んでいることを語り、武装解除を求めた。窓やドアを強化して家に閉じこもり、嵐が過ぎるのを待ってくださいとしか言えなかった。ドアに板を打ち付ける金もない人はどうします。火を放たれたらどうします? 呆れた顔での問いには答えられず、そのときには必ず自分が駆けつけて、甚大な被害が出る前に調停しますからとしか言えなかった。
 半年後にベンベルとリーグ・コーリラの間の道が閉ざされるという予言も伝えたが、もう狂人のたわごととしか思ってもらえなかった。
 旅から戻ったウラルに、ダイオは「この町のしかけを動かす」と告げた。フランメは町の内側を攻撃する形で作られた、決して市街戦に持ち込めぬ恐ろしい町。彼らを町の内部に誘いこみ、閉じこめ、皆殺しにする。覚悟しろ、と。既に町の人々の避難は済み、ただ門の前に町人に扮した人々が見かけだけは賑やかに行きかうだけだった。
 そうして行きかう彼らの顔に、ウラルは見覚えがあった。ウラルはダイオに詰め寄った。どうしてこんなむごいことをするのかと。ダイオは首を振った。了解は取った、彼らも覚悟の上だ。
 ウラルは町を見つめて歯を食いしばり――ふと思い立ったことをダイオに伝えた。ダイオの目にふっと驚きが宿り、それから眉を寄せこれ以上ないほど険しい目でウラルを見つめた。
「それでうまくいくと思うか」
 口にしたのはただの思いつき、こんな深く考えてもらえるとは思わなかった。でも。
 うまくいかなかったら好きにしてください、とウラルは答えた。私はもうあなたのすることに手出しをしません。ヒュグル森の奥に戻ってアラーハと二人で暮らします。
 ダイオはうなずき、しばらく思案顔で虚空を見つめた。
「任せよう。連中の指揮はお前がとれ」
 やがてそうウラルに指示すると、ダイオはイーライはじめとした幹部を呼び出し、作戦変更を告げた。ウラルの方が慌てるほどの、あまりにあっさりとした承認だった。
 百人の部隊を指揮しろ。ウラルは今まで小規模の集団であれなんであれ統率者として動いたことはない。統率者の資質があるとも思えない。突然の命令は怖かったが、目の前のこの人の指示だ、きっと勝算はある。そしてウラルがこの重役を放り出せば彼らは確実に死ぬことになる。ウラルはぐっと唇を引き結んで前を見据え、双肩にかかる重みに耐えた。
 折よくして「ウラルの弔問に」シガル、ナウト、セラら〈エルディタラ〉の二十騎が馬とロクで〈フェスオ・ソルド〉を訪れた。ウラルが「死んだ」という報せをマルクから受けた彼らは、「誤報」の鳩便が到着する前に慌てて〈エルディタラ〉を飛び出したらしい。ウラルがぴんぴんしていることやダイオと〈ジュルコンラ〉の豹変ぶり、それに〈壁〉を挟んでの緊迫した状況に彼らは目を白黒させつつ、ウラルと共に戦うとその場で誓ってくれた。
 ――そして、そのときは訪れた。

     **

「来たぞぉう!」
 見張り台に陣取った見張りが大音響で呼ばわった。
 ベンベル人に武器を与えられた〈壁〉の向こうの民、その数じつに八百人。フランメ町の人口の半分に匹敵する人数が麻薬の煙をまとわせ津波のように押し寄せる。
「手はず通りにやって下さい。危なくなったらすぐに逃げて!」
「聖女様のためならば。行くぞ!」
 彼らは大階段の最下部まで駆け下った。雄たけびを上げながら集団で駆け下り、迎撃するかと見せかけて、ぱっと門の前で散開した。今までの統制のとれた動きが嘘のように。蜘蛛の子を散らしたように。彼らは奇声をあげ手足を大げさに振り回しながら、てんでばらばらに逃げ出した。
 追ってくる。麻薬におかされ理性を失った八百人の大軍勢。町が不自然に静まり返っていることにも気づかぬままに。どろどろと不気味に足音を響かせて。
 仲間を帰せ!
 よくも仲間を殺したな!
 この下種が!
 激しい怨嗟の声がここまで聞こえる。この町で最も高い場所、長い長い大階段の頂上まで。
 この誤解がもし本物だったら。そう思うとぞっとする。この町へ来たものすべてをあのとき殺していたら、この怨嗟を受け止められただろうか。皆殺しにしていただろうか。そうしてベンベル人の思い描いた通りの道を歩んでいたのだろうか――。
 殺せ!
 殺せ!
 殺せ!
 ウラルの部下たちは路地へ逃げる。尻を叩き口笛を吹き、子どものように挑発しながら。彼らは追う。目を血走らせ剣を振りあげ、石畳をどすんどすんと駆け抜ける。自分が本隊から離れていることなど気にもせず。八百人の大軍勢が統制を失いどんどん分裂していることなど知るよしもなく。
 遠く黒い波に見える人影がすべて町の中に入ったのを見はからい、ウラルは手に持っていたものを高くかかげた。
 松明だ。ウラルがかかげるのは剣でも軍旗でもなく炎。ウラルの姿はすべてを焼き尽くす復讐の魔女に見えるか、希望を掲げる聖女に見えるか。
 ごぅん。
 ウラルの合図に応えてフランメ町唯一の門がうなりをあげた。ここは町の内部を攻撃するよう造られた巨大要塞の腹の中、決して市街戦に持ち込めない恐るべき町フランメだ。町の人々を避難させ金物屋の地下にある秘密通路も塞いだ今、町門を閉ざせばもう外に出られない。
「閉めて!」
 悲鳴があがる。人波が揺れる。だがもう遅い!
 一人も門の外に漏らさぬままに、鋼の門扉が落ちきった。
「やったな、ウラル! よくぞあの年代ものの仕掛けがああもすんなり動いたもんだ。予行練習もできなかったってのに」
「まだよ。大変なのはここから」
 喜ぶフギンを制し、ウラルはアラーハにまたがった。うまれて初めて持った「部下」を救うために。
 大階段を駆け下るウラルにフギンはじめ〈エルディタラ〉の二十騎がつづく。険しい山岳地帯でも自由自在に馬を駆る彼らだ、坂と階段などはないに等しい。挑発部隊が捕まり危機に陥れば、彼らが持ち前の機動力をもって救う。
 眼をぎらつかせヨダレを垂れ流し、槍を持ってひとりの男を追う集団がいた。追われる男はひどく息を切らしている。階段の途中でとうとう動けなくなり、すとんと階段のひとつに腰かけて両手をあげた。アラーハが駆けつけようとするが間にあわない。槍を持った男はいきりたって槍を振りあげ……。
「勘弁してくれよ、ザンク。俺の負けだよ。追いかけっこはもうこりごりだ」
 その声に、槍の男は急に理性を取り戻した様子であんぐり口をあけた。
「ダガー。お前生きてたのかよ」
「見ての通りぴんぴんしてるよ。なぁ、みんなで酒場にでも行かないか? もう俺はへとへとだよ。休ませてくれ」
「ダガーだ! うわあこいつ生きてやがった! この町の連中に殺されたんじゃなかったのかよ? ええっ?」
 ダガーは笑って「こっちだよ」とザンクの肩をたたき、ウラルに笑顔で一礼すると、疲れからかよろよろしながら酒場への道を歩き始めた。
 そう、ダガーはウラルを「刺し殺した」あの男。この町に攻め込んできた彼らを挑発しこの町に誘いこんだウラルの「部下」は、最初にこの町で暴れ狂い、教会で治療を受けたもと麻薬中毒者の百人だ。ダイオの作戦なら町の中に「敵軍」を誘い込み、そのまま〈壁〉の向こうの仲間と運命を共にする「囮」に――〈フェスオ・ソルド〉の矢につらぬかれるはずだった彼らはウラルに忠誠を誓い、いま武器を帯びず盾だけを持った姿で町を駆けずり回っている。
 ウラルが試した方法をもう一度とる。かれらを敵としてではなく病をおった仲間として受け入れ、閉じ込め、治療する。前回はウラルという犠牲者を出した。でも今度は。
「誰も死なせはしない。誰も傷つけはしない……」
 フランメ町の伝説を知っており門に爪をたて悲鳴をあげる老人。ひたすら獣のようにうなりつづける少年。大階段の途中で見えない何かを剣で切り刻み続ける男。彼らの前に、もう二度と会うことはないと思っていた男たちは笑顔で現れた。酒瓶や菓子を小脇にたずさえて、陽気に肩をぽんと叩いた。
 麻薬の力は怒りや憎しみだけでなく喜びも爆発的にさせるようで、町のいたるところで再会した彼らは武器をを放り出し歓声をあげた。殺気立っていた町はあっという間に歓喜に包まれた。
 不意にピィィイ、と高い笛の音がした。助けを求める合図だ。
 下だ。階段の途中で何人もの男に追われている男がいる。アラーハが石畳を蹴り、見事に逃げる男と追う男らの間に降り立った。彼らが驚き悲鳴をあげた隙に逃げる男をアラーハの背に引っぱりあげる。
 ウラルの部下になった百人の知り合い、酒瓶を持って近づいただけで警戒をとくような者はもうあらかた酒場で薬入りの酒を飲んで眠ったころあいだ。残るのは誰も知り合いがおらず、異変に気づいて暴れる者。そしてもう誰に会ってもわからないほどがっちりと麻薬の幻影に囚われた者……。
「アラーハ!」
 アラーハが高々といなないた。それを合図に崖の中に隠れていた男らが躍り出る。彼らも剣や槍は持っていない。持っているのは盾、それから眠り薬だ。痺れ薬を塗った吹き矢を持っている者もいる。
 ウラルは風の眼を開いた。残るはざっと百人――その中に激しい乱闘になっている場所がいくつかある。その中心にいるのは。
「ベンベル人」
 髪の色も瞳の色も暗い。衣服もリーグ人の鉱夫のもの。だがその身のこなしはあきらかに訓練を受けた兵士だった。五人一組で壁を背に円陣を組み、うちひとりが壁にロープをかけようとしている。そんな集団が三組。ベンベル軍のスパイだ。
 ダイオが指示を出したのだろう、彼らを取り囲むのは武器を帯びた〈フェスオ・ソルド〉の兵士が十数名。
「アラーハ、門へ!」
 だん、とアラーハが強く後ろ足を蹴り上げた。
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