第四部 第三章 3「血濡れの記憶」 下

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 メイルに飲ませてもらった薬でウラルは昏々と眠り続けた。薬がきれ眠りが浅くなってくると、とぎれとぎれの苦しい夢がウラルを襲った。目覚めてしまえばはっきりとは思い出せなくなる、けれどひどくうなされた余韻だけは鮮明な夢を見続けて。何度か飛び起きた。だが体にはまだ薬が残っていて、すぐに眠りに引き込まれ、またうなされて。そんなことを何度も何度も繰り返した。
 そうして何十回目の悪夢だっただろうか、うなされていたウラルは誰かに肩をゆさぶられて目を開けた。
「気がついたか」
 思いもよらぬ男の声にウラルは飛び起きた。
「ダイオ」
 そういえば昼間にナウトが「ダイオが話したがっている」と言っていた。あたりは真っ暗で、〈フェスオ・ソルド〉は静まり返っている。どうやら今は真夜中らしい。急ぎの用だったのだろうか。
「待ってください、いま風神を呼びます」
「呼べるか」
 静かな声に全身の声が総毛立った。
「どういうことですか」
「呼んでみろ」
 ジン。チュユルのペンダントを握りしめて胸の奥へ呼びかける。
 風神。どうか応えてください。
「だろう。あの女神は今、かなしみに沈みおのれの内に閉じこもっている。こちらの呼びかけに応じられる状態ではない。今日はお前と話しに来た」
 ウラルはぎょっとダイオを見つめた。
 あのときだ。あのとき風神の心が折れた。風の女神にはもう彼女の娘や息子たちを見守る余裕がない。断頭台で聞いた風神の悲鳴が耳の奥に蘇る。風神はもう、ウラルを導いてはくれない。
 ダイオはどこに置いてあったのか竪琴を取り出してウラルに渡した。
「弾いてみろ」
「私、竪琴なんて」
 ウラルは片腕を曲げたほどの大きさの竪琴をこわごわ胸に抱いた。
 竪琴は風神の象徴だ。神話で描かれるときも、神殿に飾られる彫刻や絵でも、〈丘〉に本来の姿で現れたときも。風神は必ず竪琴を持っていた。でもウラルはいくら〈風神の墓守〉といえど秋の風神祭で吟遊詩人や旅芸人が奏でるのを聞いた程度、竪琴など弾くことはおろか今まで一度も触れたことがない。
「そこに座って弦に手を添わせろ。俺の声に合わせて弾け」
 ウラルの準備も待たず、ダイオは何かの歌を低く口ずさみ始めた。
――純白のムールよ
  彼らを風神のもとへ導いておくれ
  やさしい風の女神のもとへ
  心の中へ還る人よ
  あなたの世界が安らかでありますように――
 弔歌だ。希望と勝利を司る火神にこの歌は似つかわしくないように思えたが、彼は神であると同時にひとりの軍人であり、多くの戦友を喪ってきたひとりの男だった。紡がれる声は重く、静かな怒りと祈りをはらんで。
「……そうだ、風神がお前の呼びかけに応えずとも、お前と風神はこれほど近しい。今のお前になら鞍なしのムールでも自在に乗りこなせるだろう」
 ダイオの声にウラルはきょとんと首をかしげ――それから自分が今まで何の違和感もなく竪琴を弾いていたことに気がついた。もう一度弦を指ではじいてみれば、指は驚くほど滑らかに動き、ろろん、とウラルが思い描いた通りの旋律を奏でた。ろろん。ろろん。
「風神の様子がおかしいのには気づいているはずだ。お前の身にも影響が出ている。違うか」
 ダイオは竪琴を取り上げるとウラルの手をとって立ち上がらせた。それから。
「火神」
 がっしりとした胸に抱き寄せられ、ウラルは立ち尽くした。風神をこの身に宿しているわけではないのに。相手が相手なだけに押しのけることもできずおろおろ視線をさまよわせるウラルの耳元で、ダイオの笑う気配がした。
「発作を起こすのはエヴァンスが相手の時だけか?」
 発作。言われたとたんに鼻の奥を強烈な死臭が突いた。
 紅い空が見える。アウレヌスの首を高々と掲げ哂うダイオが見える。
 身を引き剥がそうするがダイオはまったく腕の力を緩めてくれない。むしろ指が食い込むほどに力を増して。
 剣戟の音が。骨の砕ける音が。人の倒れる音が。
「エヴァンスはあの戦場でお前を抱きしめた。それがお前の『鍵』になった」
 爆音がする。視界が真っ赤に染まる。断末魔。
「これは、いったい……」
「自分の胸に聞いてみるがいい」
 狐が、烏が、狼が。死体を頭を突っ込み食いちぎる音。くろぐろとした眼窩をさらす顔。はみ出た骨。黒く腐り落ちる肉。
「このままじゃ狂います……放して……どうか」
「お前は何を見ている?(――狂うがいい。俺はそれを望んでいる)」
 不意にダイオの声が二重にぶれた。耳元でささやく声と胸の中に直接響いてくる声と。
 吊るされたサイフォス。串刺しにされたリゼ。目をえぐられまぶたを縫いとめられたマライ。
「風神はお前、お前は風神。お前は何を見ている? 絶望しきっているのか、憎しみに身を委ねようとしているのか?(――お前が嘆く姿は見たくない。だが、これが定めだ)」
 胸に小さな穴が開いて辛い記憶が流れ出る。記憶に押され穴がどんどん大きくなる。張り裂けそうだ。張り裂けて中のものが溢れ出したら、きっと正気を保っていられない。
 これはウラルの記憶を開く鍵だ。ウラルの心を壊す鍵だ。
「積み重なった死に押しつぶされようとしているのか?(――風神。死神として命を握り潰しながら、それを嘆き涙を流す。愚かで哀れな女神)」
 胸を突き破られたジンが。そして……赤ん坊が。
 声にならぬ悲鳴がウラルの喉をつんざいた。
「これは今までに何十回と繰り返されたことだ。だから俺はお前がどう動くか手に取るようにわかったし、今回も利用させてもらった」
 ダイオの腕がゆるんだ。力を失いダイオの胸からこぼれ落ちたウラルをダイオは支え直し抱き上げて、かたわらのベッドに横たえる。
「前置きが長くなったが、今日はこれからお前が辿るであろう道を、〈風神の墓守〉の末路を話に来た。お前に残された時間は少ない。受け入れるなりあがくなり好きにしろ」
 がたがた震えながらウラルはダイオを見上げた。彼は朗々としたバリトンで語り始める。
 何百年も脈々と続いてきた、風神と火神、そして〈墓守〉たちの物語を。
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