第四部 第三章 4「出会えてよかった」

「またぼんやりしてるの?」
 不意に声をかけられ、ウラルは顔をあげた。
「また目を開けたまま寝てるのかと思った。メイルさんがいま手が離せないからこれ持っていってくれって」
 ナウトだ。手に持った盆にはオートミールと果物、蜂蜜の香りのするホットミルク、それに薬湯が入っているらしいポット。それに手紙が添えられている。ウラルは手紙を手に取った。
「なんて書いてあるの?」
 手紙はたった一行。急いでいたのだろう、鋭く尖った走り書きで。
「食べられるものだけでも食べてください、メイル、って」
「へぇ。ウラルって字、読めたんだね」
 読めない。はずだった。ウラルは曖昧に微笑んでみせる。
 盆を受け取る気がないウラルにわざとらしくため息をつき、ナウトはテーブルに食事を置いた。その横顔にウラルは呼びかけた。
「ナウト、私を恨んでる?」
「恨んでる。でも今のウラル姉ちゃん見てたらなじる気も失せた」
 即答だ。ウラルはうつむいた。
「ごめんなさい、ナウト」
 それしか言えない。言いようがない。
「ごめんなさい……」
「そんな暗い顔しやがって。見てるこっちがイライラする。なんでそんな辛そうなのに泣かないんだよ」
 ナウトの声に棘がまじる。
「殴ってほしいなら殴るよ。でもそんなのでオレの気持ち晴れないんだよ。むしろずっと苦しむの目に見えてるんだよ。俺はイライラしてるし、ウラル姉ちゃんも辛いって全身で訴えてるんだから」
 ナウト。随分性格が変わった。でも変わっていないところもある。相手の気持ちを読み取る力。それを口に出せる優しさ。
「なんて言ったらいいのかわからない……。ぶつけたいこといっぱいあったのに。償ってくれよ。どんな形なら自分もウラルねーちゃんも納得して心が軽くなるのかわかんないけど」
 たくさんの仲間を殺されて。憎しみも胸の中にしっかりと根を張っていて。けれど、それでも。
「なんかいま、何もかもイヤだ。時間もどせたらと思う」
「いつまで?」
 聞き返されるとは思っていなかったのだろう。ナウトは驚いた様子でウラルを見、ぷいと横を向いた。
「俺とシガル兄ちゃんが出会ってすぐのとこまで」
「それだったらセラに会えない」
「すぐに会える」
「ダイオがすぐに重症を負うわ」
「僕が助けるよ」
「でもその時点でシガルの主君も、ジンも死んでる」
 ナウトの顔が歪んだ。
「じゃあウラル姉ちゃんはいつに戻りたいんだよ?」
 オグラン町へ行く前? いや、それまでにあまりに多くの人が死にすぎた。
 故郷の村が滅びる前? それでは今ここにいるみんなに会えなかった。
「そうね……誰も悲しまないでいられる時代まで」
「なんだよそれ。それっていつだよ?」
 わからないわ。ウラルが微笑むとナウトは何か怖いものでも見たかのように体をこわばらせ、逃げるように去ってしまった。
 時よもどれ。誰も悲しまないでいられる時代まで――その言葉は、ほとんど呪いだ。
 ウラルは胸元のペンダントを両手で包みこみ、そんな時代に思いを馳せた。

     *

「(シャルトル。ミュシェ婦人を連れて国へ帰れ)」
 鍵のかかっていない牢屋、鉄格子の中で、エヴァンスとシャルトルが向かい合っていた。
「(ウラルの予言の真偽はわからん。だがこの国がこれから大混乱に陥るのは間違いない。ここはもう女人がいるべき場所ではない)」
「(あなたはどうされるんですか)」
 エヴァンスは黙り込んだ。
「(スー・エヴァンス)」
「(……わたしはもう神の御前にはあがれぬ。この国で生を全うし、死して裁きを待つ)」
「(なら僕も残ります。僕の主人は国ではなく、あなたです。スー・エヴァンス)」
「(では命令ということにしよう。この手紙を父と母へ届けてくれ。わたしはオグランであのまま処刑されたことにせよ)」
「(スー・エヴァンス!)」
「(ティアルースらにもそう伝えろ。屋敷の馬は門番四人に分配、現金はカクテュス家に戻す。残りの財産は門番四人、お前、ミュシェ夫人で分配せよ。できるだけ早くベンベル本国に渡り、あとは父の指示に従え)」
 シャルトルは激しくかぶりを振った。
「(嫌です。あなたはお父上と絶縁状態じゃないですか。あの方にあなたの刑死の報告などしようものならその場で斬り殺されます。あなたのお父上の気性の荒さを知らないとは言わせませんよ。あなたの二つ名は氷の豹、お父上は雷の豹)」
「(そうだったな。氷と雷、二頭の豹は殺し合い、息子の方が尻尾を巻いて逃げ出した)」
「(あなたが尻尾を巻いて逃げ出すほどのお方に僕ひとりで立ち向かえと言うんですか)」
 エヴァンスはただ苦笑した。ここでそんなことを言うのか、お前は。
「(お前はわたしの部下である以前にひとりの男だ、シャルトル。ミュシェ婦人のことを考えろ。お前がこの国に残ればミュシェ婦人も残ると言うだろう。そうなればこの国はいずれあの婦人を殺すだろう)」
 自分の選択が母を殺す。シャルトルが唇を噛むのがわかった。なぜ母はこの国に渡ってきたのだろう。なぜ港で止められなかったのだろう。
「(ベンベル本国へ戻れ、シャルトル)」
「(あなたが死んだなんて縁起でもないこと僕には言えません。僕の主君はあなたです……)」
「(わたしは身分を失い教会から追放された。既にお前の主君ではない)」
 主君でないなら何なんですか。言いかけてシャルトルは黙り込む。ここで「友だ」などと言われおうものなら。ただ涙をぼろぼろこぼして――シャルトルはこのところ泣き通しだ。
「(荷物をまとめろ)」
 いつもの淡々とした調子で告げ、エヴァンスは牢の入り口を開けた。どうやら別に部屋を用意してもらったらしい。キィ、と入り口を開けたところで壁際に立つウラルに気づいた。
「ウラル。聞いていたのか」
 立ち聞きしてごめんなさい、とウラルは軽く頭を下げた。声をかけづらかったから話が終わるまで待っていたの。
「どうした、顔が真っ青だ。ちゃんと休んだのか」
「酷い夢をたくさん見ただけ。大丈夫」
 軽く微笑んでみせ、ウラルは背筋を伸ばした。
「エヴァンス、あなたもベンベルに戻って。今日はお別れを言いに来たの」
 その淡々と落ち着いた声をまねる。エヴァンスの眉が跳ね上がった。
「行き先は言えない、あなたの手の届かないところへ。まだ何日か余裕があるんだけど、いつ迎えが来るかわからないから」
 もう少しちゃんと話したい。でも話せばきっと彼はこの国にとどまるだろう。ウラルに手を差し伸べようとしてくれるのだろう。
 エヴァンスと一緒ならシャルトルはきっとすぐにでもベンベル本国に帰る。ミュシェも一緒に帰れるだろう。知っている人だけでも救いたい。蓋の閉じた彼らの棺は見たくない。
「今のうちに言わせて。あなたに出会えてよかった」
「……(――わたしはそうは思えない。お前に焦がれたあの時から、お前に出会っていなければと思わなかった日はない)」
 無言のエヴァンス、その胸の内で呟かれた言葉にウラルはただただ静かに微笑う。
「行くな、ウラル(――わたしは愚かだ。なぜわたしはこの女に執着するのだろう。ウラル、お前は本当に人の心をもてあそぶ魔女なのか。わたしの魂を煉獄の最下層に連れ去ろうとしているのか)」
 やっと出た言葉、その背後にたくさんの声が聞こえる。口から出す言葉とは違う、押し殺した、喉の奥から無理やり吐き出すような口調の。
 ウラルは足を踏み出した。近づき、腕をかすめるようにして通り過ぎ、エヴァンスの背後で止まる。振り向こうとするエヴァンスの背に手を置いた。そっちを向いていて。
「そう、私はあなたを破滅に導く魔女。でもあなたの信仰心を折り、心を奪えただけでもう十分。魂まではいらないわ」
 エヴァンスの肩の線がぴんと張った。硬く厚い筋肉に包まれた肩甲骨を指でなぞり、ごつごつした男のからだに腕をまわす。あたたかい、命の根をはりめぐらせた大きなからだ。ウラル、と咎めた声には聞かないふりをする。
 人の感情は不思議だ。ウラルはエヴァンスに恨まれて当然の人間なのに。ウラルはエヴァンスの人生を壊した。騎士の身分を奪い、性格を変え、信仰を奪い。あげく生命をも奪いかねない状況に追いやった。けれど、どうして。出会わなければよかったと願いながら彼は苦しむのだろう。
「生きて、エヴァンス。それだけが私の願い」
 背伸びして耳元にそっと囁き、長い髪に頬をすりよせる。広い背からは汗と鉄と異国の砂の匂いがした。
 人の感情は不思議だ。なぜウラルもエヴァンスの死をこんなに恐れるのだろう。相手はリーグの侵略者だ。ジンの命を奪いウラルの命を狙い続けていた男だ。恨んでいた。怖かった。なのに。
「私を愛してくれてありがとう。それからもう一度言わせて。あなたに出会えてよかった」
 ウラルの腕をつかみかけた手をかわして背を向けた。
 さよなら、エヴァンス。胸の中で告げてかかとを鳴らす。
「ウラル」
 ウラルは振り返らなかった。
 エヴァンスは追ってこなかった。

     **

 フギンは肩に毛布をかけた格好でアラーハのかたわらに座っていた。昨日はベッドで横になったままだったが、どうやら体を起こす許可が出たようだ。
「ウラル……。アラーハが」
 ウラルはアラーハのそば、じっとうつむいたままウラルを振り返ろうともしないフギンのかたわらに立った。
 覗きこんだフギンの顔はげっそりとしていた。フギンも傷を負い多量の血を失い、まだ熱があるはずだ。メイルに無理を言って悪寒にがくがく震えながら、ここで長いこと座っていたに違いない。
「強心剤を使ってもだめなんだ。今夜が山だろうって、メイルが」
 横たわるアラーハの顔は色を失っている。頬はひんやりと冷たく、脈は弱い。昨日アラーハの体はあんなに熱く、脈はあれほど強かったのに。
 イッペルスの強靭な心臓が悲鳴をあげている。激減した血潮をこの大きな体に送り続けて。必死でアラーハの命を繋ごうとしていた力がいま、尽き果てようとしている。
「フギン」
 ウラルはうつむき、呼びかけた。それはフギンを振り向かせるための声であり、同時にウラルの心をフギンに、現実に立つ彼にゆわえつけるための声。
「オグランから戻ってからすごく幻覚を見るの。心が常に現実と私の丘を行き来してて」
「……(――またかよ。こんなときに何なんだよ)」
「いま、『またかよ』ってあなたの声が聞こえた」
 フギンが目を見開いた。
「まさか、俺の考えてることがわかるのか?(――いま俺、声に出してなかったよな? 嘘だろ?)」
「いま俺、声に出してなかったよな。嘘だろ。そう聞こえた」
 復唱するとフギンの顔が真っ赤になった。
「ちょっとまて、お前それ幻聴って域じゃねーぞ。超能力っていうんだ」
「幻聴も超能力も、どちらも制御不能ならそんなに変わりないわ」
 フギンが不思議そうにウラルの顔を見上げ、目を見開いた。
「どうしたんだお前。死人みたいな顔色だぞ。昨日よりずっと酷い……」
 あなたこそ、とウラルは微笑う。体を起こしているだけでも辛いでしょうに、いつからそこにいるの?
「現実にあらわれた私の夢はたくさんの人を殺す。もう私にもどこまでが現実でどこからが夢なのか、どこまでが普通でどこからが異常なのかわからない。止められない。でも」
 ウラルはもう一度アラーハのからだに手を差し伸べる。
 何かが起きる気配を悟ってかフギンが腰を浮かせた。
「ウラル? 何をする気だ?」
 アレキサンドライトの棺が見える。淡く透けたからだがそこに横たわっている。
「アラーハ」
 棺の中のアラーハに手を伸ばす。頬に触れ肩に触れて、そっとからだを持ち上げる。獣くさいあたたかなにおいが、湿った森のにおいがした。香りは鮮明なのに棺の中のアラーハには体重がない。淡く透けた大男の体を抱いてウラルはゆっくりゆっくり立ちあがる。
「戻ってきて、アラーハ!」
 棺の中を出た瞬間、ウラルの手の中でアラーハの姿がかき消えた。
 土気色だったアラーハの顔に赤みがさした。あえぐようだった息も深く穏やかなものに変わっている。
 戻ってきた。
 生死の狭間で揺れていたアラーハが。
 命の世界に戻ってきた。
「うそだろ……」
 アラーハのまぶたが震え、横長の瞳孔をもつ瞳がウラルを見つめた。意識が朦朧としているのだろう、今にも溶け去ってしまいそうなぼんやりとした目。ウラルが頬をなぜるとアラーハはうっすら微笑んだ。
「(――ウラル。生きていたか。よかった……)」
「フギン、水はどこ?」
 フギンが慌てて指差した水差しをとり、ウラルはゆっくりとアラーハの喉に水を流し込む。アラーハは喉を鳴らしてそれを飲み、再びことんと意識を失って、ゆるやかな寝息をたてはじめた。
「ウラル、お前いま何をしたんだ……?(――うそだろ? アラーハをウラルが連れ戻した? そんなことってありうるのか?)」
「フギン、聞いて」
 ウラルの声に不吉な響きを聞いたのか、フギンが震えた。
「あなたは怒るでしょうけど、私、あなたのおそれていたところに行くことになった。もう私にも風神にも制御できない。あちらへ引きずられる」
「何言ってるんだ(――あちらって、どちらだ? お前の死後の世界か、それとも)」
「いつかそうなることはわかってた。私にも、あなたにも」
 予感をはらんで。褐色の瞳に恐怖が宿る。
「もうすぐ私は、ウラル・レーラズという女は消えてしまう。体だけをここに残して」
 そうだ、フギンにはわかっていた。ずっとずっとおそれていた。
「ウラル(――嘘だろう。そう言いつつお前はここにいてくれるんだろう?)」
「私が突然行方不明になる心配はしないで。私が私でなくなるとき、フギン、あなたにはわかる。〈火神の墓守〉であるあなたには」
「どういう意味だ(――行くな。行くな。行くな。行くな)」
「いつ起こるかわからない。何十日も経った後かもしれない。でも、今日の午後かもしれない。まだ猶予はあるけど一応言わせて。フギン、あなたに出会えてよかった」
 フギンの目が大きく見開かれる。震える左手がウラルの腕をつかむ。
「行かないでくれ(――ああ、また止められない。行っちまう……)」
 今にも泣き出しそうだ。抱きしめたい。でも正面から抱きしめたら、抱き返されたら、また発作が起きてしまう。だからフギンの腕を握ってとどめ、そっとその頬に口付けた。
「きっとこれからはこんな言葉いえなくなるから。思い出して、私が何を言っても何を呪っても。アラーハ、ジン、マライ、サイフォス、ネザ、イズン、マーム、ダイオ、ナウト、シガル、マルク、ムニン、セラ、ダガー、エヴァンス、シャルトル。ごめんなさいを言いたい相手はたくさんいるし、後悔してもしきれないけど――みんなに出会えてよかった」
 そしてただ、微笑った。
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