第四部 第四章 1「死神きたる」 下

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 ウラルはフランメ町の大階段の上にいた。夜明けとともに動き出した人々が次々倒れていくのを眺め、駆けつけた〈フェスオ・ソルド〉の者の声で姿を消した。
 ウラルはマームの孤児院の前にいた。「あんた、死んだんじゃなかったのかい……?」近づいてきたエリスや子供たちが急にはいつくばって嘔吐し始めるのを見つめ、黒い風になって消え失せた。
 ウラルは前にエヴァンスと泊めてもらったベンベル軍の兵舎にいた。兵舎はほとんど空だった。オグラン町からここの兵を頼って来たのだろう、ぼろぼろの恰好で刃こぼれだらけのシャムシールを向けてきたベンベル人数人を皆殺しにし、ウラルはさらに北を目指した。
「俺を憎んでいるか、〈死病の悪魔〉よ」
 野営地のテントの群れの中、ウラルはダイオと向かい合った。
「哀れな女、これだけの憎しみを抱えてよくぞ今まで清くいられたものだ」
 お前は村を喪った。お前は家族を喪った。お前はジンを喪った。お前は仲間を喪った。お前は国を喪った。お前はお前自身を喪った。
「その憎しみがこの国の民を、お前の子供たちを救う」
 憎んでいただろう、全てを奪った者たちを。憎んでいただろう、おのれを遺して先に逝った者たちを。憎んでいただろう、何もできない神々を。憎んでいただろう、不幸続きの運命を負った自分自身を。
「もう押し殺すことはない。存分に暴れろ」
 ウラルは風にその身を溶かし、さらに北を目指した。

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「(お前たちは各地の教会へ散り、死病の発生を伝えよ)」
 焼けた神殿から連れてきた神官たちを前に、エヴァンスはそう告げた。
「(病の発生源はお前たちも見たあの女――〈セテーダンの魔女〉だ。殺せるとは思うな。今のウラルには剣も矢も効かん。風と同じで全てすり抜けてしまう。触れることさえかなわない)」
 神官たちは動かない。エヴァンスの話が聞こえているかも怪しい様子で立ち尽くしている。
「(薬もおそらく効かん。あれは病というより呪いだ。癒せるのは〈フェスオ・ソルド〉の兵士のみ、祈祷も聖水も残念だが効かんだろう。……我らの神の目にはおそらくリーグが見えておられない)」
「(スー・エヴァンス!)」
 シャルトルが声をあげ畏れを含んだ目で神官たちを見つめたが、ここでエヴァンスを糾弾すべき立場であるはずの彼らはただ暗い視線をおのが足元へ落とすのみ。
「(私たちの神は全能です。我らの神の目の届かない場所などこの世にあるわけがありません。今このときも私たちを見守ってくださっています)」
 それこそ神父のようにおごそかに穏やかに言うのに、彼の主君も、神官たちも。答えない。誰もなにも答えない。
 だが、それは鈍く重い剣だった。青ざめていた神官の一人が耐えかねたようにうずくまる。立ちくらみをおこしたかのように。厳しい叱責を受けた子供のように。
「(カクテュス卿、あなたは無罪です。あなたの言う通り我々はアウレヌス卿の指示で信託を捏造しておりました。リーグでは誰も神の声を聴くことができないのです。ここは呪われた地なのです……)」
「(否。わたしは軍人としてベンベルを裏切り、神に背いた。わたしはまぎれもなく咎人だ。神に背き、清らかであるはずの手を血に染めたお前たちと同じように)」
 懺悔にエヴァンスの歯切れ良い声が返った。シャルトルの顔が色を失っている。神官たちも。まともな顔色をしているのはエヴァンスひとり。
「(そのわたしの立場から言わせてもらう。今、ここでできうることを成せ。お前たちが殺めた者より多くの、一人でも多くの者を救え。しかるのちベンベル本国に渡り王都の大聖堂にひざまずき、懺悔し、正統なる裁きを受けよ。それが軍人たるわたしの務め、聖職者であるお前たちの務めだ)」
「(スー・エヴァンス、それはウラルさんの言葉です……)」
 エヴァンスはただ唇の端に力を込めた。持ち上げたものか押し下げたものか。
「(わたしが誰にも殺されずここにいる今、神もわたしにおのが役目を果たせと言っておられるのだろう。見えずとも聞こえずとも、やむなきとはいえ背を向けた今も、わたしはわたしの神と共に在る。わたしはフギンらと共にウラルを追い、ひとりでも多くの同胞を救おう。これはわたしの撒いた種だ)」
 よろめきつつ立ち上がった神官たちにエヴァンスは淡々と告げる。
 「魔女」の言葉を。神に従う者として。
「(もう一度言う。各地の教会に散り、死病の発生を伝えよ。防ぐ方法も癒す方法も無いに等しい。癒せるのは敵軍〈フェスオ・ソルド〉の者のみ。非戦闘員はただちにベンベル本国へ発つよう指示を出せ。我らの神が守ってくださる国に戻るようにと)」
 神官たちは互いに顔を見合わせ、それから深々とエヴァンスに向けて頭を下げた。
「待て、エヴァンス」
 突然ドアが開き、フギンが割って入った。〈隻腕の悪魔〉をおそれたか神官たちが浮足立つ。
「立ち聞きしていたのか」
「一応俺が目付け役なもんでね」
 後ろめたかったのか鼻の頭をこすりながら、けれどフギンは鋭い目でその場の全員をにらみつけた。
「〈フェスオ・ソルド〉の一員として俺はそいつらを行かせるわけにはいかない。戦況を不利にするわけにはいかないし、仲間を危険にさらしたくない。申し訳ないけど閉じ込めさせてもらうぜ」
 病を癒せるのは〈フェスオ・ソルド〉の者だけ。ベンベル軍が捕虜として捕えた〈フェスオ・ソルド〉の者を拷問し治療を強要する。十分考えられることだ。
「ウラルを一刻も早く〈悪魔〉から解放するためには、この戦をできるだけ早く終わらせなきゃならない。お前らには辛いだろうけど、ベンベル人には一刻も早く出ていってもらわなきゃならないんだ」
 広めるわけにはいかないのだ。死病を癒す方法を。
 エヴァンスが青い双眸をひたとフギンに向けた。
「対価を言え」
「そんなもんねぇよ」
 即答だ。
 エヴァンスはなおもフギンを見つめている。その圧力に屈したかフギンは舌打ちし、もう一度口を開いた。
「――エヴァンス、お前の命だ」
 しん、と空気が冷えた。
 硬直し目を白黒させるシャルトルと三人の神官に囲まれて。エヴァンスの口元がわずかに持ちあがった。
「わたしの命を引換えにするならば、この三人を行かせるほかに条件をひとつ付け足してほしい。フギン、ダイオを裏切りベンベル側につけ。リーグについたわたしのように。死病におかされたベンベル人を救え。リーグとベンベルを共に救ってみせろ。呑めるならばこの命くれてやる」
「スー・エヴァンス!」
「カクテュス卿!」
 ようやく声が出たらしい彼らの静止も聞かずエヴァンスはすらりと剣を抜き放つ。いつものシャムシール、ジンを殺したあの剣ではない。彼はオグラン町で愛刀を失っていた。だからリーグ式のサーベルをしゃらんと抜き放って、柄をフギンに差し出した。
 応じるか否か、どちらだ。わたしの覚悟はできている。
 フギンが、震えた。奥歯をぎりりと噛み締めている。自分が言い出したことなのに。あながち冗談ではなかった、けれど本気にするとも即答するとも思っていなかった。
「……馬鹿野郎、なに普通に取引に応じようとしてんだよ! てめぇの命がかかってるんだぞ! くそっ、お前までウラルみたいになってきやがって。お前、実はかなり精神的に参ってるんじゃないのか? 死にたがり野郎が。どうかしてるぜ」
 押し戻された剣が鞘に戻った。フギンが大きく息をつく。
「俺はリーグ人だ。対価なんざくそくらえ。行きたきゃ俺ぶん殴って勝手に行けよ。ただ、お前が対価なきゃ落ち着かねぇっていうんなら」
 エヴァンスの眉がかすかに上がる。フギンはベンベル語に切り替えて続けた。
「(ウラルの気持ちを引き継いでやってくれ。リーグ人もベンベル人も、できるだけ誰も殺さず傷つけず、多くの人を救えるような道を絶えず探してくれ。今のお前の言葉を聞いてたんだ、できるよな。そいつらにも)」
 三人の神官をぎろりと睨んだ。苛烈な視線、祈りの口調。ふたつの感情を胸に抱いて。
「(あんなにたくさんの子ども、あんな酷い目にあわせやがって。でもお前らにそれができるんなら、俺はお前らを許す。他がどう言うか知らねぇ。あの子らの親はずっとずっとお前らを憎しみ恨み続けるだろう。俺も怒り憎しみは胸の中にくすぶりつづけると思うよ。でもそれができるんなら、もう糾弾もなにもしねぇ。……償ったんだって認めるよ)」
 一息に言いきって、それからフギンはドアの前を退きエヴァンスの隣に立った。
 ほら、行けよ。ウラルならきっとこうしたから。
 ドアの向こうからぎょっとした様子のメイルが顔をのぞかせる。フギンが割って入る前からそうしてフギンと一緒に立っていたのだろうか。
 とめられなかったんだ。メイルに弁解するかのようにフギンの唇が声なく動く。ぶるっちまったよ、俺。また何も言えなくなっちまった。
 メイルが苛立った顔をする。何話してるのよ、私はベンベル語がわからないの。説明してください。声を出さずにそう返す。
「(条件を呑めるか)」
 エヴァンスの問いに、神官たちが頭を垂れた。
 彼らにとって異教徒フギンの言葉が救いになるかはわからない。けれど彼らはうなずき、ここに誓った。リーグと手を携え流血を抑えることを。
「(シャルトル、お前も行け。この国はじき大混乱に陥る。ミュシェ夫人やティアルースらを逃がせ)」
「(スー・エヴァンス……)」
「(お前の意思が固いならば、背教覚悟でわたしに従うというなら戻ってこい。だが、ミュシェ夫人はベンベル本国へ帰せ。息子としてのお前の務めだ)」
 エヴァンスは荷物から地図を出し、シャルトルに渡した。エヴァンスの書き込みがたくさん入ったミュシェ夫人お手製の地図。
「(これをミュシェ夫人に。わたしの形見ということにせよ。父宛ての手紙は以前に渡したな)」
 形見。エヴァンスは「死んだ人間」になるのだ。魔女に魂を奪われ裁きのもとに命を奪われた魔徒として。少なくともベンベル本国、カクテュス家にはそう伝えよと。
「(〈氷の豹の足枷〉として対価をお願いいたします。あなたが今のように命を捨てるようなことをしないと誓ってください。そうしていただければ、僕は屋敷に戻ります)」
 エヴァンスは軽く目を見開いた。〈氷の豹の足枷〉。主への脅威と従者の侮蔑をこめたこの二つ名をシャルトルが自ら名乗るのは初めてだった。まして主人の命令に対価を要求するとは。
 類まれなる知力と武力をもつエヴァンスの足を引っ張るため部下に任ぜられた知力も武力も並以下の男、それがシャルトル。枷が己の意思で主の身体を封じ込める。
「(お前の言うようにしよう。我らが神の命が下るまでは)」
 普段通りに淡々と告げたエヴァンスにシャルトルが泣き笑いのように顔を歪め、深く頭を下げた。
「(必ずお探しします、スー・エヴァンス・カクテュス。我が君。どうぞご無事で)」
「(さらばだ、シャルトル)」
 そうしてきびすを返し、今まで世話になった礼のつもりかフギンとメイルに頭を下げ、三人の神官を連れて立ち去った。
「よかったのか、お前。シャルトル行かせちまって」
 エヴァンスは黙ってうなずくのみ。
「随分淡々とした別れだな。何年主従やってたんだよ」
「十年だ」
「お前らしいっちゃらしいけど。もうちょっとやりようがあるだろ? 涙しろとまでは言わないけどさ、抱きしめてやるとか、せめて握手するとか。もう会えないかもしれないんだぞ」
 エヴァンスはまた黙り込んでしまった。フギンは大きくため息を吐く。
「あの神官たち、守ると思うか」
「嘘は戒律で禁じられている」
「でもあいつらはお前のことで神の言葉を借りて嘘をついてた。だろ?」
「そうだ」
 エヴァンスの声にかすかだが痛みが滲むのにフギンはしみじみ青い瞳を見つめ、それから目をそらした。しばらくこの話題は避けた方がいいようだ。シャルトルのことも、信仰のことも。
「……こうしている間にもウラルはどんどん先へ行っちまう。行こうぜ、俺たちも。仲間を募ってみたんだけど、シガルもナウトもマルクもみんなダイオについて先へ行っちまった。アラーハももうしばらく動けない。俺とお前とメイルの三人で行こう」
「そこの女医か。心強い」
 本音かおせじか冗談か。あまりにもエヴァンスらしからぬ一言にフギンはきょとんとし、メイルは気味悪そうに綺麗な顔を歪めた。

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 土気色の頬を涙がつたう。けれど雫は大地に届く前に風に溶けて消え失せた。胸の中に何かを抱く仕草をしながら、けれど彼女の腕にあるのはぽかりと開いた虚無ばかり。ひび割れた灰色の唇がつむぐのは弔いの歌。――その嘆きは死病となってベンベル軍に襲いかかった。
 万に近いベンベル国軍、その中に降り立ったたったひとりの「魔女」。彼女はただ佇んで歌っているだけなのに。目に見えない赤ん坊をあやしているだけなのに。周りの人間がばたりばたりと倒れていく。肺の奥を深くえぐる黒い風から逃れようと悲鳴をあげながら、血を吐き喉をかきむしる。
 そこをダイオが駆け抜けた。それはさながら火矢のように。鋭く突き刺さり、有無を言わさず燃え広がり、そうしてすべてを炎の中へと引きずり込む。
 黒い風と燃え広がる炎の中で。二国両断を叫んだ者がいた。広場で、市場で、酒場で。空からはムール騎手がビラを撒いた。火神と風神が手を取り合い蜂起を呼びかける絵が。天から大量に降り注いだ。
 誰も信じなかった。最初は。
 けれど誰もが信じたかった。ずっと。
 ベンベル国が攻めてくる前から。戦争が始まる前から。リーグが傾き始めてから。何年も。祈っていた。乞うていた。神々の加護を。
 祈りを現実に変えよう。多くの民が立ち上がった。
 だが火神のもとに集まった兵は戦の経験のない者ばかり、しかも〈火神の墓守〉の大半は死病の治療のためリーグ各地に散っている。そしてベンベル軍は厳しい調練を受けた生粋の軍人たちだった。総崩れになりかけたベンベル軍はダイオの予想を大きく上回る速さで体制を立て直し、死病に苦しみながらも圧倒的な兵力で火神軍を押し込めにかかった。そこに次から次へと市民軍やリーグ正規軍の残党、それに〈ナヴァイオラ〉〈エルディタラ〉その他もろもろの援軍が現れ――戦局は激しい乱戦の様子を呈していった。
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