第四部 第四章 2「氷の豹と黒い竜」 上

 エヴァンスらはウラルを追って北へ向かった。
 行く先々に死が満ちていた。〈フェスオ・ソルド〉とベンベル軍の衝突地点はいうまでもなく、通りかかる街々の墓所にはうずめられるのを待つ遺体の列があった。リーグ人に袋叩きにされたベンベル人。死病で命を落としたリーグ人。その惨状はベンベル国が侵攻してきたときより、抵抗する間もなくすべてがベンベルの手に落ちた時より格段に酷い。
「おろかなものだ」
 ベンベル人が落とした言葉を、その連れであるリーグ人の男女は咎めなかった。
「一度は終わった戦を」
 それはさながら、世界の終り。
 身を絞るようにして光輝く方へ全てを差し出し、希望にすがり報復に怯え、今はただそこで生きる人々の。繁忙期の畑を耕す人出もなくその日の糧もなく、そこで暮らす人々の。ただ四人の神に、この惨状をもたらした神々にひたすら祈るほかのない人々の。その身体を風がごうごう吹き抜ける。

     *

 血柱があがる。
 神話にしか登場しないのではないかと思われるほど巨大な刃のついた槍、クーゼが馬上でうなりをあげるたび。金髪を散らして首が舞い、ゴーラン革のよろいに大穴があき、曲刀を握ったままの腕が胴体と泣き別れた。
 津波のように押し寄せるベンベル軍の只中で。雄牛の角を模した兜をきらめかせ、文字通りの血染めに変わったマントをなびかせながら。次々と投げつけられる爆弾をかわし、逆に敵の手元へ向けムール騎兵に火の槍を放たせ爆発させる。あるいは相手がうかつに爆弾を投げられない位置へ、敵将の間近へ赴き切り殺す。
 これが幾度目の衝突か。ここを突破すれば王都だ。王城を奪還し炎と剣と雄牛をかたどった火神旗をかかげればリーグを奪還したも同じ。
 だがリーグは敗戦直後なのだ。何もできないままベンベルの侵攻を許し多くの若者が失われた後なのだ。まして腕の立つ者は〈フェスオ・ソルド〉や〈エルディタラ〉、〈ナヴァイオラ〉、リーグ国軍の生き残りくらいなもの。兵が足りない。〈死病〉でベンベル将軍の半数が倒れた。それでもなお力が足りない。
 ベンベル軍は死病に感染した者は隔離し、死体も大きな穴を掘ってそこに入れている。恐怖も混乱も尋常のものではないだろうが――どことなく処理に慣れた様子をうかがわせた。
 ベンベル人は戦いに長けた民だ。そして周辺国から国土を奪い取り大きく成長するまでは、暑熱と乾燥のなか汚水をすすり劣悪な環境のなか生き抜いてきた民なのだ。その反動でか彼らは医学に長けている。原因のわからない病への対処に慣れており、また戦いの中で毒薬を使うことも多かった。ダイオが予想していたよりはるかに被害が少なかったのだ。
 血柱。血柱。血柱。口から真っ白な泡を吹く馬を駆り、暮れる王都の灯を目指す。
 がごん、とクーゼの穂先で火花が散った。ダイオの負けず劣らずの巨大な槍、その刃につけられた返しがクーゼの切っ先をがっちり捕え、今にもへし折ろうとしている。
「(貴様が〈紅い悪魔〉か。ウィグード・アウレヌスを倒し〈壁〉を壊したという)」
 ダイオはクーゼを振りほどき、男を見据えた。ダイオの周囲が草切り場のような有様になるのを見かねたのだろう、大将首が出てきたようだ。
「いかにも」
 漆黒のゴーランに乗った騎士だ。黒い兜の奥から覗く灰色の瞳、ゴーランの鱗を加工したとおぼしき岩のような鎧。その鎧にはゴーランをかたどった金の紋章がある。名など知らない。だからダイオはこの将軍を〈黒蜥蜴〉と呼んでいた。
 得物を振り上げたのは、同時。
 二本の巨槍が空を薙ぐ。互いの胸板を貫かんと繰り出された槍を互いに柄で叩いてそらし、返す刀で互いを狙った。銀の大蛇を繰るように。刃が打ち合い火花を散らす。
 ダイオの兜が地上に落ちて汚泥にまみれ、黒蜥蜴の脇腹に長く浅い傷ができた。視線と視線が交錯する。相手の額には玉の汗が浮いていた。
 斬る。突く。薙ぐ。刺す。息つく間もない連続攻撃を黒蜥蜴は息を乱しながら全て受け、あるいは流した。これは手間取る。ダイオは黒い巌のような男にもう一度槍を向けた。ダイオは馬鹿力、しかもこのクーゼの重さだ。なのにダイオの力量をみてか慎重になりつつあるが、この重い打撃を受け続けてびくともしない。
 名くらい聞いておくべきだったか。ダイオは表情を引き締めクーゼを構えなおした。
「来い!」
 誘うようにクーゼを右脇に引きつけ突進する。打ちかかってきた黒蜥蜴の槍をはじき、馬を旋回させ石突で殴りつける。クーゼを回して薙ぎ払う。それをかいくぐった相手の槍が兜を失ったダイオの耳を切り裂いた。伸びきった胴をクーゼの柄で打ち据える。手甲で受けて反撃してくる。疲労からか震え始めた相手の両腕。弱い己の身に苛立ったかのように咆哮し、黒蜥蜴は銀の巨槍を振り上げる。
「Ka miu Gdda!(我らが神よ!)」
 応じるように漆黒のゴーランが牙をむく。怖じ気た馬の腹を蹴った。どぅんと前へ飛び出した馬の鞍上、頬を槍に薄く切らせながらダイオは一息にその心臓を――否、とっさに胸をかばった黒蜥蜴の左腕を手甲ともども突き破った。
 片腕ではとても扱えぬ巨槍を振るいながら寸前で致命傷をのがれたのは見事というべきか。勢いあまって腕をすりぬけた槍が馬の脚元に突き刺さる音を聞きながら、ダイオは胸蓋に当たってやっと止まったクーゼを男の腕から引き抜いた。
 絶叫を聞きながらとどめを刺そうとした時、後方で激しい鐘の音が鳴り始めた。
 「後方へ下がれ」の鐘だ。味方が退いている。右翼を崩された。
 ダイオは槍の石突で武器を失った黒蜥蜴の頭を打った。防御しようとしたが間に合わず、昏倒した敵将をゴーランの背から引きずりおろす。
「捕虜だ。連れていけ」
 ダイオも息を乱しながら手近な兵の鞍上に巌のような敵将を放り投げ、そうはさせるかと武器を向けた部下をまとめてなぎ倒した。
「カール、右翼の援護に回れ!」
 ふたりいる将軍の片方に命じる。十騎続けの号令と共に紅い風が吹き抜けた。
「アズ! 蹴散らすぞ!」
 後方援護に回っていたもう一方の将軍が前へ躍り出る。将軍を失ったにもかかわらずベンベル軍の士気が落ちる様子はない。主君を捕虜という形で連れて行かれたのがよほど頭にきたのか。むしろ勢いを増して襲いかかってくる。
 ダイオは唇の端を歪めた。ベンベル軍はおそろしい。蛇の巣穴に踏み込んだかのようだ。味方に欠けたこの粘り強さが妬ましい。
 文字通りの一騎当千たる軍神を擁していても。勝つ保証はない。それは彼自身が良く知っている。一度ならず二度三度〈墓守〉の身体を借り受け戦い死に至らしめ、そうして「彼」は敗北した。コーリラ、リーグ両国はベンベル国に滅ぼされたのだ。そうして守るべき国を喪った「彼」は己に喰われ〈悪魔〉と化した。
 血脂に光り切れ味を損なったクーゼを振り上げる。王都を。一刻も早くリーグ王都を奪還しなければ。彼らは最後の一兵まで戦い続ける戦闘民族だ。長引けば長引くほど不利になる。
 ごぅん、とベンベルの後方で鐘が鳴った。
 おおぅ、と空気がうなる。低い声がベンベル軍から群雲のように湧き上がり、独特の旋律を伴って駆け抜けた。
 戦いながら。彼らは低い声で祈っている。彼らの神の加護を血濡れの切っ先に乗せて、場違いに美しい歌のような祈りの文句を唱えている。
 祈りの間は彼らの力が増すのは気のせいか、それともこちらが弱っているのか。歌の合間に聞こえる不協和音はリーグ兵の悲鳴だ。ベンベル側は祈りの間は悲鳴をあげない。致命傷を受けてさえ祈りの言葉を口にする。命尽きるまで一糸乱れず勝利を祈り、神の加護を願うのだ。
「気味の悪い連中め」
 ベンベルを倒すためには最後の一兵まで殺しつくすか、あるいは彼らの信仰心を叩き折らなければならい。動きの硬くなった味方を叱咤し馬上でクーゼを振り回す。ダイオの旗下の者はいい、だが右翼と左翼がともに崩されじりじり後ろに退いている。激しい火薬の爆発音と硝煙のなかで。味方の命が消えていく。
 ――〈死病の悪魔〉。どこにいるのだ。
 黒衣の女は悪魔。味方ではない。いつどこに現れるかわからず、自然災害のように利用できる部分を利用すること以上は火神にも叶わない。だがそれでも。
 ――〈悪魔〉。やはりお前が頼りだ。
 ダイオの祈りが通じたか。
 不意に空が翳ったかと思うと、黒い風が吹きすさび宙からするりと黒衣の女が現れた。落ち窪んだ眼は零れ落ちないのが不思議なほどの哀しみをたたえ、無言のままにダイオを糾弾する。この世界の父でありながら命を刈り続ける彼を。その身に死を纏いながら。
 どうしてあなたは死なないの。どうしてあなたは殺し続けるの。あなたも死んで。あなたが一番憎い。
 ベンベル兵が喉元を抑えながら彼女に切りつけた。が、白刃はその身体をすりぬけて倒れ伏した死体の骨を刻むのみ。切りつけた男の方が血を吹いて、剣の刺さった死体の横に倒れ伏す。
 目の前が一気に拓けていく。ベンベル人もゴーランも骨格の細いベンベル馬も。ベンベルで生まれた生物は火神の加護を受けていない。みな等しく倒れていく。
「アズ、お前はカールの援護に回れ。俺は左翼へ回る。蹴散らせ!」
 中央が一兵残らず倒れた。異変に気付いた左右も怖じ気たか。ベンベル側が下がり始めている。
 〈死病の悪魔〉が倒れたベンベル兵のかたわらに膝をつき、そっとその胸に触れている。助けようとしているのか。逆に苦悶のうめきをあげながら痙攣しはじめた兵の身体から手を離し、嘆きをいっぱいにたたえた眼でダイオを見つめた。
 ベンベル人の信仰心を叩き折る力、それが〈死病の悪魔〉の呪い。
 地に伏してなお祈りの言葉を続ける兵の苦悶の表情を見、ダイオはただ黙って馬首を返した。
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