第四部 第四章 2「黒い竜と氷の豹」 中

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 結局、今日の衝突は勝負がつかなかった。〈死病の悪魔〉の出現でベンベル軍には大損害を与えたが、結局リーグ側が粘り負けしたのだ。日が沈むと両者ともに兵をひき、野営地にあかあかと火を焚いて睨み合っている。
 ウラルに追いついたエヴァンスは何もできず〈フェスオ・ソルド〉の天幕の片隅で戦況をうかがっていた。ウラルを元に戻せるのはダイオひとり。〈火神の墓守〉でもない彼には何をすることもできない。それにエヴァンスはリーグ人にとっては敵国人、ベンベル人にとっては裏切り者だ。身体の拘束は受けないものの捕虜のような扱いをされながら、ただただウラルの残す傷跡を見つめていた。
 フードを目深にかぶって金の髪と青い眼を隠し、ベンベル人捕虜の通訳という形ばかりの仕事を引き受けて何日過ぎた頃か。ベンベル人の将軍を捕えた、話をしろ。唐突にダイオに言われてエヴァンスは捕虜用の天幕を訪れた。
「(……誰だ)」
 天幕の入り口を開けたとたん、低いベンベル語がエヴァンスを打った。
 月明かりの下、弱い視線がエヴァンスを見つめている。ベッドに縄で縛りつけられ、無事な方の手を鎖で拘束された男。見覚えのある灰色の瞳にエヴァンスは瞠目した。
「(グライス卿ではないか)」
 ダイオが黒蜥蜴と呼んだ男、エヴァンスには珍しく友と呼んでいい間柄だった騎士アズワド・グライス。〈黒竜〉とおそれられた男が脂汗を流しながらそこに大きな身体を横たえていた。
「(その声はもしや、カクテュス卿か? 処刑されたという? はは、気が弱くなっていかん。幽霊が見えるとは……)」
 ベンベル騎士屈指の槍の使い手だ。この男がまさか生け捕りにされるとは。無残に傷つき包帯で覆われた左腕――やはり今のダイオの力は化け物じみている。エヴァンスが戦ったところでかなうまい。
「(それともあの〈氷の豹〉が噂通りにアウレヌス卿を手にかけ、リーグに寝返ったというのか?)」
 「幽霊が見える」と言った時の気弱な笑みを口元に、斬り合いの最中のような鋭い光を双眸に。その眼をひたと見据えてエヴァンスはうなずいた。
「(その通りだ)」
「(なぜだ、カクテュス!)」
 ぎん、とグライスを戒めていた縄が鳴る。口から火炎を吹きそうな形相の元戦友を見下ろし、エヴァンスはもう一度うなずいた。
「(弁解の余地はない。わたしは神の教えに背き軍を裏切った)」
 高潮していたグライスの頬が色を失った。
「(……なにか理由があるようだな?)」
 エヴァンスは目をそらした。怒りが引き、悲しみと祈りの色の透けたグライスの眼。
「(わたしが祭壇を穢した罪で教会から償いを求められたことは知っているか)」
「(賊に押し入られたそうだな。確かに祭壇を穢すなどもってのほかだが、いくらなんでも処遇が重すぎると思っていた)」
「(そのときに殺せと命じられたのが〈隻腕の悪魔〉フギン、お前の左腕を断ち切った〈紅い悪魔〉ダイオ、そしてこの戦場で荒れ狂っている〈死病の悪魔〉の三人だったのだ)」
「(なんと! それはまた大物揃いだな。お前とその三人の共倒れを狙ったか)」
「(いや。四年前のその三人はまだ取るに足らない存在だった。〈紅い悪魔〉はもとリーグ将軍、もともと強かったがわたしの剣技でねじ伏せられる程度だった。〈隻腕の悪魔〉は鬱憤をどこにぶつけていいかわからぬ小僧、女はどこにでもいるような悲しい目をした娘だった。わたしはあの女をメイドに雇ったのだ。それが三人とも突然何かに憑かれたかのようになって、化けた)」
「(ほう?)」
「(我らが神はこれを知っておられて、わたしにこの三人を殺すよう命をくだされたのだろうか……)」
「(おそらくそうだろう。我らが神は全能なり)」
 グライスが右手首から先だけで祈りのしぐさを作る。エヴァンスはただ黙って目を瞑って頭を垂れ、それからウラルに出会ってから今までの流れをざっと語った。
「(なるほど、そういう事情だったか。変わり果てたとばかり思っていたが以前のお前と何も変わっていないではないか)」
 グライスが苦しげな声でからから笑った。
「(否。取り返しのつかぬほどに変わった、わたしは)」
「(まさか貴様が恋をするとはな。平時であれば恰好の話の種になったところだが。殺さねばならぬ女に惚れるとはまたベタな)」
「(底抜けに、身を滅ぼすほどに優しい女だったのだ。そんな女をどうして斬れる?」
「(のろけるな。血も涙もない〈氷の豹〉だとばかり思っていたが)」
 それから不意に笑みをおさめ、武人の貌をした。腕を落とされ、無事な方の腕も拘束されていなければエヴァンスの肩に手のひらを置くか握るかしただろう。落ち窪んだ眼と青ざめた頬で軍議のさなかの将軍の顔つきをしてエヴァンスを見つめた。
「(……カクテュス、そういう事情なら言わせてもらおう。ベンベル軍に戻れ)」
 彼はエヴァンスよりいくらか年上だ。先輩の口調でそう告げた。
 天幕の外で息を呑む気配。どうやら誰かに監視されているらしい。
「(たしかにお前が神の命に背いたことは言い逃れのしようもない大罪だ。たしかにお前があの三人を殺してさえいればリーグの反乱など起きなかっただろう。これほど多くの同胞が死ぬこともなかった……。だが異教徒とはいえかよわい乙女を殺せと言われてためらいもなく剣を振り上げられる男の方が珍しい。それに加えて信じられんほど堅物のお前だ、必要以上に動揺したとみえるな)」
 身じろぎしたグライスの胸からしゃらんとペンダントが零れ落ちた。シャツの下からあらわれ枕の上に落ちた金の光。太陽と月がかたどられたベンベル国旗と同じ意匠はベンベル神への信仰をあらわすものだ。エヴァンスのマントの留め金にも太陽と月の意匠が刻まれている。失った剣の鞘にも、荷物の底にある聖典の表紙にも。
「(お前の正気は俺が保証する。真面目なお前だ、戻れぬ道を歩んだことで自棄になっているんだろう)」
 目の奥にウラルが肌身離さず身に着けていたペンダントが浮かび上がる。リーグの花の意匠の入った小さなペンダント。ウラルが大事にしていた小刀にも同じ文様があった。あんな状態になっても手放さない、死んだ男から贈られたふたつのもの。
「(〈氷の豹〉カクテュス将軍、我々にはお前の力が必要だ。騎士権を剥奪されていても、客将の名目で雇い指揮を任せることはできる。戦に出れば女は難しいにしても男ふたりは殺す機会があるだろう。罪はどうかリーグを破ることで埋め合わせてくれ)」
 自棄になっている、そうかもしれない。神は自分を試されているのだろうか。
「(〈白き帆船〉、〈翠の大鷲〉、〈火炎の楯〉の三将軍が病に倒れた。俺もこのざまだ。今やここで指揮を執っているのは〈鋼の髑髏〉と〈荒天の碇〉の二将軍のみ。コーリラからの援軍が駆けつけるまでは)」
「(援軍はあと何日で到着する?)」
 急に口を開いたエヴァンスに驚いたか、グライスの眉が軽くあがった。
「(予定では十日だ)」
「(誰が出てくる?)」
「(〈朝霧の樫〉、〈双頭の熊〉、〈黄金の車輪〉の三将軍だな。見たところ佩刀も許されているようだ。その気になればすぐにでも抜け出せるだろう)」
 狭い世界だ、全員知っている。友と言える間柄ではないが同じ船に乗ってコーリラ西部の港につき、何度か共に戦った。ベンベル本国から厄介払いがてらに送り込まれたのだ、癖はあるが嫌いな連中ではなかった。少なくともアウレヌスよりはよほど。
 もう一度グライスの枕元を見る。太陽と月のペンダント、何百何千では済みそうにないほど繰り返し見つめてきたその意匠。
 エヴァンスは目を閉ざした。深い息を吐く。頭を垂れ、祈りを捧げるように。
「(――グライス。わたしの正気など保証するな。わたしはお前たちの言うところの〈黒い女〉に、魔女に心を奪われたのだ)」
 それから立ち上がって太陽と月、そして元戦友に背を向けた。
「(あの女は、ウラルは正真正銘の聖女だと思っている。聖典に描かれたどの聖人に勝るとも劣らない。ウラルは身を挺してフランメ町を守った。八百人の麻薬中毒者を敵も味方もほとんど誰ひとり傷つけず鎮め、味方と成した。だがそれでもおさまらぬ戦いに、おのれのために命を捧げた仲間の死を目の当たりにして心を狂わせ、悪魔に憑かれた)」
 グライスがぽかんと口を開けているのがわかる。黙って座っていられなくなったか、天幕の外でも影がゆらめいた。片腕のない小柄な影。
「(わたしは神を騙ったアウレヌスに処刑されかかったのだ。我らが神ご本人からの断罪ならばこの場で死ねという命令でも煉獄の業火に千年焼かれよという命令でも喜んで受け入れる。だが、誰が神を騙っているか信用ならん今は生き続ける道を選ぶ。生きて償う日を。それまではわたしなりの、背教徒なりの方法で我らが神に仕えよう)」
「(なにを言っているのだ、カクテュス? アウレヌスが神を騙っただと?)」
「(わたしは処刑場でウラルに命を救われた。わたしはウラルに命を返さねばならない。あまりに強く、あまりに哀れなウラルの生き様に惚れてもいる)」
 エヴァンスはグライスを振り返り、微笑ってみせた。グライスは彼の笑みをほとんど見たことがないはずだ。特にリーグへ来てからはアウレヌスを間に挟んで絶対零度の無表情ばかり見せていたから。
「(ウラルは異教徒ではあるが、我らの神の慈悲をたしかに胸の内に抱いている。神聖なるもの、命をかけて仕えるべき相手に感じてもいる。わたしはあの娘の守護者になりたい)」
「(あの女のどこにそんな聖性があるというのだ。あの女にどれだけの同胞が殺されたことか! 貴様、正気か?)」
 言ってから「お前の正気は俺が保証する」と言ったことを思い出したらしい。今にも口から炎を吹きそうな〈黒竜〉の顔つきに戻った。
「(そうだ。わたしは正真正銘、狂っている)」
「(……魔女めが!)」
 エヴァンスの足元に唾を飛ばす。怒り狂う〈黒竜〉の前でエヴァンスは剣の金具をがしゃんと鳴らした。
「(グライス。このまま捕虜としてわたしに情報を提供し解放あるいは脱走の機会をうかがうか、今ここでわたしに切り殺されるか。どちらを選ぶ)」
「(なぜだ、カクテュス。誰よりも神への忠誠が厚かったではないか。そのお前からなぜこんな言葉を聞かねばならない? お前はあの女の魔力に囚われているのだ、カクテュス! でなければお前のような男からこんな言葉が出るはずがない!)」
「(似たようなことをアウレヌスからも言われた)」
「(お前の醜い姿を見たくはなかった。本来なら俺が斬り捨ててやるべきなのだろうが、この有様ではそうもいかん!)」
 苦しみと怒りと悲しみの中に揺らめいた殺気――それが答えだった。エヴァンスが腰のサーベルを、リーグ式の剣を抜き放つ。
「(エヴァンス! 早まるな!)」
 天幕の入り口がひるがえりフギンが飛び込んできた。が、エヴァンスは見向きもしない。
「(いつか貴様に神の鉄槌が下されんことを)」
「(さらば、〈黒竜〉)」
 ど、すん。
 シャツと厚い胸板と心臓と肩甲骨と簡易ベッドの床板を一息に貫く。グライスの眼がかっと見開かれ、血走り、光を失った。ベッドに縛り付けられたその身体が激しく痙攣し始める。
「なにやってんだよお前……。戦友だったんだろ? なにも殺すなんて」
「リーグとベンベル、どちらつかずではいられないのだ」
 べっとりと返り血を浴びながらエヴァンスは血に染まっていくシーツで剣をぬぐって鞘へおさめた。フギンが震えあがっている。
「まさかお前、ちょっと前に俺にダイオ裏切れって言ったのは」
「考えていたことが口に出た」
「自分は処刑されたことにしろって」
「裏切ったと伝わるよりは、死んだと伝えられる方がいい」
 決断していたのだ、ずっと前から。準備はしていた、だが覚悟ができなかった。そんなエヴァンスの背につまづいたグライスがぶつかった。
「ダイオはどこにいる」
「軍議の最中だよ、いつもの天幕で……っておい!」
 エヴァンスはもう歩きはじめていた。
 血みどろの格好のまま軍議に乗り込み、エヴァンスはまっすぐダイオを見つめた。止めようとした兵の槍を素手で掴み目で脅す。「構わん、入れろ」とダイオが一言発すると、兵は慌てて後ろに退いた。
 〈黒竜〉の槍で裂かれた耳にガーゼを当て、頬にも傷をつくった火神軍総大将ダイオ。そのかたわらには将軍と参謀が控えている。ダイオの双腕アズとカーム、ムール部隊長ラザ、〈エルディタラ〉団長ムニン、〈ナヴァイオラ〉大将サラフ、参謀として〈エルディタラ〉から招かれたイズン、その他もとリーグ国軍の将軍と参謀が数人。その全てを見回し、エヴァンスは〈黒竜〉を示す黒い大ピンを地図から取り上げへし折った。
「ウラルを取り戻すには一刻も早く戦争を終結させる必要がある。たとえ戦が長引いたとしてもリーグとベンベルの間にできた道は絶たれ、リーグに残ったベンベル人は皆殺しにされる。そうだな、ダイオ」
「その通りだ」
 にぃ、とダイオが笑った。
「今の戦況をどう見る、エヴァンス。お前ならばどう戦う?」
「〈黒竜〉亡き今、ベンベル側の将軍は〈鋼の髑髏〉と〈荒天の碇〉の二将軍のみ。よりによってこの二人が残ったかという印象だが。〈髑髏〉は攻撃型の将軍、〈碇〉は防御型の将軍だ。ともに歴戦の強者で息も合っている。たやすく崩れる相手ではないが、二人同時に叩けば潰せる」
「髑髏と碇か、まるで海賊船だな。〈鋼の髑髏〉だの〈荒天の碇〉だのは二つ名のようなものか?」
「ベンベル軍の慣習だ。騎士に任ぜられるときその者の性質と家の紋章から二つ名を賜る。わたしは〈氷の豹〉と呼ばれていた」
「ほう。それは見分けやすくて便利だ」
 エヴァンスは両者の軍の布陣を示し、それぞれの強みと弱みを示した。ダイオ旗下の精鋭軍をふたつに分け、一方は前線で戦う〈鋼の髑髏〉襲う。そしてもう一方は弱いところを少数精鋭で貫くように崩し後方援護を担う〈荒天の碇〉を襲う策。
 ただし〈荒天の碇〉の名が示すようにこの二人は過酷な戦に強いのだ。危なくなればあっという間に陣形を変えて衝撃を吸収してしまう。将軍周囲の精鋭軍からの攻撃覚悟で、短時間で将軍の首を取らなければならない。仮にどちらかを逃がせばあっという間にもう一方の将軍へ援護の手が回り、結局ふたりとも倒せなくなる。
 課題は大将戦のさなか、数ばかりで技量の乏しい味方でいかにして後方を守るか。前方にだけ腕の立つものを集めては、大将を倒したはいいが振り返れば味方の死屍累々ということになりかねない。
「残り十日でコーリラ国からベンベル援軍が到着する。その前に城を落とせるか」
「そんなに早かったか。難しいだろうな、海賊船の二将軍を倒すだけでも十日はつらい」
「わたしが〈黒竜〉の筆跡をまねてコーリラに手紙を送る。こちらは制圧した、援軍は必要ないと。封蝋印は〈黒竜〉が身に着けているはずだ。名指しで送れば多少の時間は稼げる」
 リーグ人がベンベル文字を学び公式書類を模写したところで、たかだか数年では幼子が書いたような字にしかならない。ベンベル軍人が脅され書かされた文章なら特定の符丁を入れる決まりになっている。生粋のベンベル人が符丁なしに書いた書類なら荒唐無稽な内容でも様子を見る。
「稼いだ時間で王都を奪え。士気を高め、王城という足場を得れば有利になる」
「ありがたい案だな。コーリラ国のベンベル将軍のことを教えてもらえるか」
 エヴァンスは来ることになっている三将軍の名を挙げ、それぞれが得意とする戦法と対策を語った。
「戦場に出る心づもりはあるか」
「体格と顔を隠せる鎧を貸してもらえるか」
「明朝までに準備する。俺の旗下に入れ。お前の力量を見せてもらおう」
 突然の展開ともたらされた情報に互いに視線をかわしあう将軍や参謀らを見回し、ダイオはもう一度口を開いた。
「協議する。一度下がれ」
 礼もせず身を翻して天幕を出る。出てすぐのところにフギンが突っ立っていた。
「やっちまったな、エヴァンス……」
 ただ一度だけうなずいてフギンの脇を通り抜け、エヴァンスは捕虜用の天幕へ向かった。
 グライスを弔いその身体を土に還すために――かつての友に、詫びるために。
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