第四部 第四章 3「ふたつの世界」 中

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 エヴァンスは青い眼にどうしようもない虚無をたたえて〈壁〉を見つめていた。普段のあの凄みのある、野に生きる獣のような静かで冷たい凶暴さはなりをひそめ、今はただただそうして〈壁〉の向こうを見つめている。切なげに、苦しげに、ウラルを何もできず見送ったのと同じ目で。
 エヴァンスがあれからも壁や木に頭を激しくぶつけているのをフギンは知っている。命にかかわるほどではないし、適当なところでやめているからフギンも止めていないが、うつろな目をして己を痛めつけるエヴァンスの姿は正直なところ気味が悪かった。気味が悪いと同時に、あまりに物悲しかった。博打でつくった多額の借金のために友人を殺した男、あるいは罠に四肢をがっちり囚われ身動きできぬまま己を殺す猟師を待ち受けるしかない獣の姿に、今のエヴァンスは似ている。
 そんな苦しむんならあの〈黒竜〉って将軍に手をかけなきゃよかったのに。今まで通り中立のまま黙って見てりゃよかったのに――そんな言葉は通用しない。そういう男だ。そういう男だからこそ苦しんでいる。
 ちぇ、俺はこいつのこと恨んでるはずなのにな。自分で自分にため息をついた。すっかり情がうつっちまったよ。
「ほい、これ。今日の晩飯」
 エヴァンスはついと顔をあげてフギンを見、礼を言って受け取った。フギンについてきたアラーハが足を軽くひきずりながらエヴァンスの隣へ行くと、隣いいか、と言いたげに目配せしてそこへ伏せる。アラーハの身体の傷は癒えて脚の骨もあらかたつながったようだ。ギプスもとれて今はリハビリの最中らしい。そしてアラーハはまた人の姿と言葉を失っていた。
「あったかいもん腹に入れとけ。メイルが作ってくれたんだ」
 フランメ町に残った父親イーライが気になる。そう言ってメイルも二人についてこの町へ戻っていた。今夜の食事は小鍋に入ったシチューとパンだ。片腕のフギンを気遣ってか、バスケットに皿からなにから一式そろえて入れてくれている。北方育ちのウラルのシチューはジャガイモと乳たっぷりで全体的に白いのだが、南方育ちのメイルのものは茶色い。乳製品を使わない、肉とタマネギをじっくり煮込んで作るハッシュドビーフに似たものだ。
 エヴァンスは食欲がなさそうな顔をしていたが、隣でフギンががつがつ食べ始めると素直にスプーンを手に取った。と、一口食べて首をひねり、ふところから小瓶を取り出すと入っていた真っ赤な粉をシチューにかけはじめた。
「おいおい何やってんだよ」
「肉料理にはこの方が合う」
「なんだそれ。ちょっと食わせろ」
 軽く匙ですくって口に入れ、フギンは喉元を押さえ水を求めてばたばたした。アラーハが何事だと言いたげに目をぱちくりさせている。
「か、かれぇっ! なんだこれ! ベンベル人よくこんなもん食ってるな!」
「少しかけすぎたか」
「お前ウラルの料理だったら絶対こんなことしねぇだろ! なんかメイルに恨みでもあんのか!」
「ウラルの料理に唐辛子は合わん。それにわたしに恨みがあるのはあの娘の方だろう」
 小瓶をしまい、恨みがましげなフギンの視線を受けながらエヴァンスは澄ました顔で真っ赤に染まったシチューを口に運び始めた。
「最近、あの女医とよく一緒にいるな」
「お前とかウラルとか複雑すぎる事情のやつと一緒にいると、ああいうわかりやすいやつの顔見たくなるんだよ。野戦病院でずっと一緒だったしな。付き合ってみると案外かわいいぜ」
 ほう、と気のない返事がかえってくる。
「あと何日だ?」
「五日だ。正直なところいまだに信じられんが」
 エヴァンスは頭上の半月と満月の間のふっくらした月を指さした。あの月が完全に満ちたその日、〈壁〉の向こう側がこの世界から切り離され、ベンベルに消える。
「何度も言うけど、行くなよ」
 エヴァンスの目が静かに光った。そうしてフギンから視線をそらし、またあの虚無をたたえた悲しい目をして〈壁〉の向こうを見つめるのだった。
「ここでなに考えてたんだ。愚痴なら聞いてやるよ」
「大したことではない。自分が迷うということが苦手だということに気づいただけだ」
「へぇ」
「今まで迷ったことなど一度もなかった。ベンベルはわたしの祖国であり、我らが神は偉大なる御方。人にどれだけ疎まれようと、危険な戦場ばかりへ回されようと、苛立ちはしたが神のお言葉に比べれば一個人の言葉など些細なこと。わたしは〈氷の豹〉、ベンベルの騎士として己の役割を果たす。それで十分だったのだ」
「そりゃあ、なんというかストイックだな。それぶち壊されて混乱しちまったってわけか。いきなり壁に頭ガンガンぶつけだすくらい」
「情けないことだ」
 エヴァンスは額の傷を指でなぞった。ウラルのこともベンベルのことも、愚痴りたいことは山ほどあるだろうにそれ以上何も言おうとはしない。どうやら誰かに愚痴を言うのも苦手なようだ。
 フギンは困って頭をかいた。黙って話を聞くのも苦手だ。愚痴の聞き役には向かないことくらいフギン自身がよくわかっている。
「〈氷の豹〉か、うまいこと言ったもんだ。なんていうか今のお前は氷の鎧がとけてただの豹に、というか生身の人間になった感じがするよ」
 とりあえず褒めてフギンは空になった椀をかこんと床に打ちつけ、バスケットの奥からウィスキーの瓶を取り出した。空っぽのシチュー椀にそれをそそいで一気にあおる。
「これから話すことは酔っぱらいのたわごとだからな。そのつもりで聞いてくれ」
 エヴァンスの青い眼がフギンの方へ戻ってきた。お前も飲めよ、と瓶をつきつける。素面じゃとても話せない。お前だって素面じゃちょっと辛いだろ。
「ウラルは俺には守れない。俺は『あっち』には行けないんだ。ウラルを自分の方へ、自分の方へ引き寄せることしか考えられない。それでずっとウラルにはおっきな負担をかけてきた」
 エヴァンスが瓶を受け取り、そのまま軽くあおった。アラーハは黙って気配を殺している。
「お前も半分『あっち』に行っちまってるだろ。一緒に行っちまいそうで見てて怖いけどさ、きっとお前ならウラルの隣にいてやれる。ウラルを抱きしめてやれる。そう思うんだ」
「お前にとってメイルが救いであるように、ウラルにとってもお前が救いだっただろう。わたしからすればウラルの傍にいられるのはお前をおいて他にない。ウラルはわたしの後ろにジンを見ている。わたしの存在はウラルから辛い記憶を引き出す鍵になってしまう」
 まさか言い返されるとは思っていなかったから、フギンはまじまじエヴァンスの顔を見つめた。
「いや、そんなことないだろ。お前と頭目は似ても似つかねえぜ」
 言ってからウラルが幾度となくエヴァンスをジンと呼んでいたことを思い出した。
「ウラルの傍らにいるべきはお前だ、フギン。わたしはジンを殺した。リーグ国を滅ぼし、リーグ人を数えきれぬほど殺してきた」
 そうだ、エヴァンス、目の前のこの男は。
 酒が身の内で燃え上がった。ウラルに慰撫されてなりをひそめていた憎しみが。
 すさまじい斬り合いの末、ジンの胸を刺し貫いたベンベル将軍――ゴーラン鎧に豹の紋章が入った群青のマントをひるがえし、戦場にもかかわらず金の長髪をなびかせて。鞍上で急にがっくりと力を失ったジンの姿。そのまま落馬し血濡れの地面に投げ出されぴくりともしない〈スヴェル〉軍の総大将。
「てめぇ、この死にたがりが! ウラルの傍にいるべきは俺だ? んなの関係ねぇだろ! 死にたいんなら俺に、世界で一番お前を憎んでる俺にお前を殺させろ!」
 ああ、忘れていた。フギンは怒り上戸だ。スイッチが入るともう怒らずにいられない。エヴァンスが怪訝そうな目をフギンに向けている。
 あのときフギンは近くにいた。必死でジンに駆け寄ろうとして、周りが見えなくなり、近くのベンベル兵に脇腹を刺されて力尽きたのだ。そうして捕虜になって生き延びた。
「肚くくってたはずなのになんでかと思ったら、さてはお前ウラルの傍にいる自信がなくなったんだな? いい加減にしろ綺麗に身を引けると思ってんじゃねぇぞ! それともなにか? ウラルがまともな状態で帰ってこないのが怖いんじゃないだろうな?」
「落ち着け。たしかにウラルも要因のひとつだが、ウラルだけが理由ではない」
「落ち着けだと? 何様だお前!」
 ウィスキーの瓶をつかんだ手をエヴァンスが押しとどめる。頭にきて振り払った。振り払う勢いそのままにエヴァンスの頭を殴りつける。
「辛いからって壁に頭ぶつけてんじゃねぇよ! 殴ってほしいんなら俺に殴らせろ! それが嫌ならやるんじゃねぇ!」
 さらにエヴァンスを殴ろうとしたが、どういうわけやら体が前に行かない。振り返ってみればアラーハがフギンの襟首をくわえて押しとどめている。
「アラーハ、お前もこいつになんとか言ってやれよ」
 無茶を言うなといいたげにアラーハが頭を振った。それを寄越せ、と言いたげにエヴァンスの手元のウィスキーをツノで指す。こうなったらさっさと潰してしまうのが一番だ。
 その仕草がまた頭にきて、フギンはアラーハの横腹にガツンと鉄拳を見舞った。見舞った後にアラーハが病み上がりなのを思い出したが、さいわいイッペルスの身体には人間の力など大したことがないのか平然としている。
「ここまで言って行っちまうんならもう知らねぇ。とっとと地獄にでも煉獄にでも墜ちちまえ!」
 エヴァンスの手からウィスキーをもぎとって一気にあおる。
「カミサマなんかくそくらえ! 死ぬまで罰しか与えない、死んでからしか褒美与えないベンベルの神様なんかとっとと滅んじまえばいいんだよ!」
 ぐいと襟首をつかまれた。見ればエヴァンスの目には冴え冴えとした強い光が宿っている。さっきまでの虚ろな目とはまるで違う、フギンが初めて出会ったころのエヴァンスの顔。
「ベンベル人の前でそんなことを言うな」
「何度でも言ってやる! お前の神様は神様じゃねぇ。神様っていうのは今のダイオやウラルみたいな存在だ!」
「我らの神を侮辱するか!」
「ベンベルの神なんか死んじまえ!」
 エヴァンスはこぶしを固め、その力を急にがっくりと抜いてフギンから目をそらした。
「この、酔っぱらいが」
 悲しげに曲がった口元から漏れたのは苦笑まじりのかすれ声。
 エヴァンスがウィスキーの瓶をフギンの目の前にかざす。さっきあけたばかりの瓶がもうほとんど空っぽだ。瓶の底にわずかに残った強い酒をぐいっと腹の底に流し込み――強い酒をろくに食いもせず一気に飲みすぎたのだろう。フギンの意識はぼやけ、あっさりとかすんで消えてしまった。

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「くそっ、頭痛ぇ。アラーハ、今ナタ草何色だよ?」
 フギンが目覚めてみればもう昼過ぎだった。枕元に置いてあった水を一気に飲み干す。水がやたらと美味しく感じるのは飲みすぎた証拠だ。
「エヴァンスどこ行った? なんか昨日はあいつに言っちゃいけねぇこと言いまくった気がする。よく覚えてねぇけどさ」
 アラーハは表情の乏しい獣の顔でもはっきりわかるほどの呆れ顔で、フランメ町の町門を――その先にある〈壁〉を指した。
「……おいおい、嘘だろ?」
 言いつつフギンもアラーハが嘘や冗談を言えるとは思っていない。アラーハはもう一度ツノで〈壁〉の向こうを指した。まっすぐに、十二に分かれた枝角の全てで。
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